第29話 ポニーテールの意味
翌朝、俺は普段より一時間早く目を覚ました。
理由は分かっている。
昨夜のことが頭から離れなかったのだ。
楪への想いを告白した後の、有栖川の冷えた声。鞘に刀を納める乾いた音。そして、消え入りそうな声で零された「言ってもどうせ信じない」という呟き。
布団に入ってからも何度も思い返してしまい、そのたびに胸の奥が重くなった。結局、まともに眠れた気がしない。
俺は小さく溜め息をついて身体を起こし、部屋を出た。
視界の端には、昨夜の惨状を物語る壊れた扉が転がっている。
修繕はエレノアが王都から戻ってから頼むしかない。それまでは俺の部屋に扉という概念が存在しない状態だ。
プライバシーも何もあったものではない。
そんなことを考えながら大食堂へ足を踏み入れた瞬間、俺は思わず足を止めた。
有栖川が、すでに席についていた。
朝食を前に大人しく座るその姿はいつもと変わらない。
だが、どこか違和感があった。
彼女はこちらに気づき、何気なく顔を上げる。
そこでようやく俺は違和感の正体に気づいた。
髪だ。
いつもは肩から胸元へ流している金髪が、今朝は後ろで一つにまとめられている。
すらりとした首筋が露わになり、朝の光を受けた金色の髪が艶やかに輝いていた。
ポニーテールだった。
「おはよう」
有栖川はいつも通りの口調で言った。
昨夜の出来事など存在しなかったかのように、当たり前の顔でパンを千切り、口へ運んでいる。
俺は曖昧に挨拶を返しながら席についた。
気まずい。
非常に気まずい。
昨夜あれだけのことを言った翌朝に、何事もなかったような顔で同じ食卓を囲むというのは、想像以上に精神へ負担がかかる。
メイドが朝食を運んでくる間も、俺の視線は何度となく有栖川の髪へ向かってしまった。
本人は平然としている。
だが、だからこそ余計に気になる。
一体どういう風の吹き回しなのか。
昨夜のことと無関係とは思えなかった。
喉の渇きを覚えながら、俺は恐る恐る口を開いた。
「……髪型、変えたのか」
「よく気づいたわね」
有栖川はパンを一口かじり、咀嚼しながら答える。
その横顔はどこか機嫌が良さそうにも見えた。
「前に、影山ポニーテールが好きって言ってたじゃない?」
「……言ったか、そんなこと」
「言ったわよ。忘れたの?」
記憶は曖昧だった。
だが、有栖川がそう言うなら言ったのだろう。
こういう何気ない会話ほど、彼女は妙に覚えている。
「それで、どうなの?」
「どうって?」
「似合う?」
有栖川はまっすぐこちらへ顔を向けた。
探るように首を少し傾ける。
その動きに合わせて結わえられた金髪が揺れ、朝日を受けてさらりと光を散らした。
俺は一瞬だけ言葉を失った。
正直、めちゃくちゃ似合っている。
主観を抜きにしても似合っていた。
普段の有栖川には剣士らしい鋭さと張り詰めた空気があるが、今の髪型はその印象を少しだけ和らげている。
凛々しさはそのままに、どこか年相応の可憐さが覗いていた。
しかも厄介なことに、彼女は自分が似合っていることを分かっていない。
だから余計に破壊力がある。
「……まあ、悪くはないんじゃないか」
本音を隠してそう答えるのが精一杯だった。
「そう」
有栖川は小さく微笑んだ。
ほんの僅かだったが、確かに満足そうな笑みだった。
そして何事もなかったように視線を朝食へ戻し、再びパンを口へ運ぶ。
だが、その横顔を見ながら俺は内心で頭を抱えていた。
昨夜のことを忘れたわけではない。
むしろ逆だ。
この髪型の理由を考えれば考えるほど、昨夜の出来事が頭から離れなくなっていた。
「あたし、決めたのよ」
有栖川が不意にそう言った。
どこか吹っ切れたような声音だった。
「決めたって……何を」
「あたし、影山があたしのことを大好きになれるように努力する」
予想の斜め上から飛んできた言葉に、俺は盛大に噎せた。
「ごほっ……げほっ!」
慌てて水を口に流し込む。
有栖川はそんな俺を見ながら、どこか呆れたように眉をひそめた。
「何よ、その反応」
「いや、その……」
何と返せばいいのか分からない。
昨夜、俺は彼女を傷つけてしまった。
てっきり気まずい空気がしばらく続くものだと思っていた。
だというのに、本人は翌朝にはこんな話をしている。
俺は恐る恐る尋ねた。
「昨夜のこと……怒ってないのか?」
「は?」
有栖川は即座に顔をしかめた。
「怒ってるわよ」
断言だった。
「怒ってるに決まってるじゃない」
その声音には一切の迷いがない。
昨夜の出来事が本当に堪えていなかったわけではないのだろう。
むしろ逆だ。
傷ついていないはずがない。
だが有栖川はそこで終わらなかった。
「でも、怒ってたって仕方ないじゃない」
そう言って肩を竦める。
「あたしは影山の気持ちを変えるために動く方が性に合ってんのよ」
「……」
返す言葉が見つからない。
有栖川はまっすぐ俺を見つめた。
その青い瞳には迷いも諦めもなかった。
「だから覚悟しなさい」
堂々と宣言する。
「あたしが本気になったら、どんな男でも簡単に落とせるんだから」
「お前、今まで男を落としたことあるのか?」
「……初めてだけど、何か文句ある?」
言った瞬間、わずかに視線が泳いだ。
強気な態度とは裏腹に、経験が皆無であることだけは誤魔化せなかったらしい。
俺は危うく吹き出しかけた。
必死で表情を引き締める。
本人は至って真面目なのだ。
笑ったら確実に怒られる。
しかし、その強気な宣言と経験ゼロという事実の落差があまりにも大きかった。
「何か言いたそうね」
「いや、別に」
「絶対何か思ってるでしょ」
「思ってない」
「嘘ね」
じとりと睨まれる。
だが、そのやり取りすらどこか心地良かった。
俺はふと、有栖川の横顔を見つめた。
健気だ、と素直に思った。
昨夜、あれだけ傷ついたはずなのに。
俺が楪への想いを口にしたとき、彼女がどれほどの衝撃を受けたのかくらいは分かる。
それでも彼女は立ち止まらない。
泣き言も言わない。
諦めることもしない。
どうすれば俺の気持ちを変えられるのか、それだけを考えて前へ進もうとしている。
どこまでも真っ直ぐだった。
不器用なくせに誤魔化しが下手で、妙なところで意地っ張りで、それなのに誰よりも真剣に人と向き合う。
きっと、こんな女はそうそういない。
その姿を見ていると――
ドクン、と胸の奥が大きく脈打った。
思わず視線を逸らす。
認めたくはなかった。
だが認めざるを得ない。
有栖川アリスという女は、ときどきこうして不意打ちのように俺の心を揺さぶってくる。
しかも本人にその自覚がない。
計算ではなく天然だから余計に厄介だった。
「……好きにしろ」
ようやく絞り出した言葉は、それだけだった。
「言われなくてもそうするわよ」
有栖川は得意げに小さく鼻を鳴らした。
その表情は昨夜までの沈んだ様子が嘘のように明るい。
そして皿に残っていた最後の一切れのパンを摘まむと、躊躇なく口へ放り込んだ。
もぐもぐと頬を動かすその姿を見ながら、俺は密かに頭を抱える。
どうやら有栖川は、本当に本気らしい。
そして厄介なことに――その宣言を聞いた俺の心は、ほんの少しだけ期待してしまっていた。
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