第28話 告白

 ルクセリア王国の地方都市――レジャスにあるレンバース伯爵邸に、王都から舞踏会の招待状が届いた。


 エレノア=レンバースが社交界へ復帰したことを知った王妃陛下が、自ら招待したのである。


 そのためエレノアは王都へ向かい、屋敷には数名の使用人と、客人として滞在している影山玄兎、有栖川アリスだけが残されていた。


 静まり返った屋敷の一室で、有栖川は姿見の前に立ち、金髪を指先で弄びながら不敵な笑みを浮かべる。


「エレノアがいない今こそ、千載一遇のチャンスじゃない!」


 エレノアの不在は、影山との間に決定的な既成事実を作る絶好の機会だった。


 こちらの世界へ来てからというもの、有栖川は貴族という生き物のいやらしさを嫌というほど見てきた。なかでもエレノア=レンバースは要注意人物である。


 あの女は屋敷にいる時、やたらと胸元を強調した服ばかり着ている。

 有栖川には、それが影山を誘惑するための策略にしか見えなかった。


 彼女の目に映るエレノアは、美しい未亡人ではない。

 獲物を絡め取るために糸を張り巡らせる女郎蜘蛛そのものだった。


 このままでは、いずれ影山もあの狡猾な罠に捕らわれてしまうに違いない。


「影山を年増の魔の手から救えるのは、あたしだけなのよ!」


 有栖川は無意識に下腹部へ手を当てた。


「孕んでしまえば、誰もあたし達の関係に口出しなんてできない」


 光劫清森幸福論には、婚姻相手以外に肌を見せてはならないという戒律が存在する。


 一瞬だけ教祖でもある父の顔が脳裏をよぎったが、有栖川は都合よく解釈して振り払った。


「あたし達は結婚を誓い合った恋人じゃない。だから問題ないわ!」


 そう結論づけると、有栖川は部屋を飛び出した。


 向かう先は影山の寝室である。


 この時間、影山はグランタリア王国の情報収集のため冒険者ギルドへ出向いている。


 留守の間に部屋へ忍び込み、ベッドの中で帰りを待つ。


 完璧な作戦だった。


「我ながら完璧じゃない!」


 有栖川は周囲を警戒しながらドアノブへ手をかけた。


 ――カチャ。


 開かない。


 用心深い影山は、外出時には必ず部屋へ鍵を掛けていた。


「チッ」


 有栖川の眉が不機嫌そうに跳ね上がる。


 カチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャカチャ。


 何度も乱暴にノブを回すが、錠前はびくともしない。


「何なのよ、これ……!」


 苛立ちが頂点に達した瞬間、有栖川は躊躇なく扉へ蹴りを叩き込んだ。


「鬱陶しいわね!」


 轟音とともに木枠が砕け散る。


 中学時代から無敗を誇り、異世界で剣聖の力を得た彼女の脚力は常人の域を遥かに超えていた。


 鍵の噛み合った部分が木枠ごと吹き飛び、扉は勢いよく内側へ開く。


「……あたしのせいじゃないわよ。扉が脆すぎるのが悪いの。欠陥住宅だったのね」


 一瞬だけ反省したものの、有栖川はすぐに気を取り直して部屋へ侵入した。


 目的は影山が作り置きしているポーションである。


 部屋の奥のクローゼットを開けると、予想通り怪しい光を放つ小瓶がずらりと並んでいた。


「あった!」


 有栖川は、その中から薄い水色の液体が入った小瓶を取り出した。


 以前、酒に酔って影山へ襲いかかった際、一瞬で眠らされた眠りポーションだ。


 その効果は身をもって知っている。


 これさえあれば影山を確実に眠らせ、自分の望む状況を作り出せる。


 少しだけ良心は痛んだが、エレノアに先を越される恐怖に比べれば些細な問題だった。


 有栖川は小瓶を懐へしまうと、破壊して閉まらなくなった扉を完全に無視し、そのまま部屋を後にする。


 向かった先は屋敷の奥にある大浴場だった。


 愛しい彼との初夜に備え、まずは身体を隅々まで清めるつもりらしい。



 ◆



 冒険者ギルドからの帰り道、俺はいつものように考え事をしていた。


 今日得られた情報といえば、グランタリア国境付近で盗賊の目撃例が増えていることと、それに便乗した冒険者が料金を釣り上げているという話くらいだ。


 どちらも俺には関係がない。


 知りたかった情報は何一つ手に入らなかった。


 レンバース邸の門をくぐり、玄関ホールへ足を踏み入れたところで、俺は思わず立ち止まった。


「おかえり」

「ああ」


 有栖川が待っていた。


 それ自体は珍しくない。


 問題はその格好だった。


 普段なら稽古着か外出着のどちらかで、剣の手入れをしながら適当に出迎えるだけだ。しかし今日は黒を基調とした見慣れない服を着ている。


 どこか小悪魔めいた雰囲気があり、金髪は艶やかに輝き、肌も妙に瑞々しい。


 まるで風呂上がりのようだった。


「遅かったわね」

「ドガン達と飲んでたからな」


 そう答えながらも、俺は首を傾げる。


 有栖川が妙に機嫌がいい。


 いつもなら『一日中彼女のあたしを放置するなんていい度胸ね』と言わんばかりの圧を放ってくるのに、今日は不気味なくらい落ち着いていた。


 まあ、気のせいかもしれない。


 俺は大食堂へ向かった。


 いつもの席に腰を下ろし、並べられた料理を見た瞬間、眉をひそめる。


 牡蠣。


 内陸都市レジャスでは滅多に見ない高級食材だ。


 隣にはアボカドのサラダ。そして食欲を刺激する強烈なニンニクの香り。


 レンバース邸の食卓は基本的に上品な貴族料理が中心で、こうした献立は珍しい。


 俺は傍に控えていたメイドへ声をかけた。


「今日はずいぶん豪快な料理なんだな」

「有栖川様のご要望に沿ったメニューとなっております」

「……そうなのか」


 俺は有栖川へ目を向けた。


 本人は平然と牡蠣を口へ運んでいる。


「ちなみに、どんな注文をしたんだ?」

「精がつく料理を所望したいと」


 その言葉を聞いた瞬間、俺の動きが止まった。


「……精がつく料理?」

「はい」

「有栖川が?」

「有栖川様がです」


 嫌な予感がした。


 予感というより、すでに輪郭を持ち始めた確信に近い。


 胃の底で何かがじわりと蠢いた。


 その時、有栖川がこちらを見ていた。


「影山、手が止まっているわよ」

「……今日はドガン達と飲んでたからな。あまり腹が減ってないんだ」

「そんなこと聞いてないわ。……いいから沢山食べて」


 落ち着いた口調なのに妙な圧がある。


「それとも何? あたしが勧める料理は食べられないわけ?」


 面倒な予感しかしなかった。


「せっかく用意してもらったのに悪いんだけど、俺、牡蠣が苦手なんだよ。小さい頃に当たってから食えなくなった」


 嘘だけど。


「ならアボカドのサラダを食べなさい。ニンニク料理もあるわよ」

「……そうだな。そっちを頂くよ」


 何も食べないわけにもいかず、俺は大人しくサラダへ手を伸ばした。


 その間も、有栖川の様子から目が離せない。


 何かを企んでいるのは間違いない。


「それにしても、どうして急に精がつく料理なんだ?」

「……」


 有栖川は答えなかった。


 代わりに自分の下腹部をそっと撫でる。


 その仕草を見た瞬間、俺の食欲は急速に失われた。


 そして本能的に悟る。


 これ以上踏み込んではいけない。


 俺の生存本能が全力で警鐘を鳴らしていた。


 食事を終えた俺は、逃げるように席を立つ。


「風呂に入ってくる」


 そう言い残し、俺は大浴場へ向かった。


 風呂から上がり、自室へ戻った俺は、扉を見た瞬間に異変を察した。


「なんだよ、これ!」


 扉が壊れていた。


 正確には、ラッチの噛み合う部分が木枠ごと吹き飛び、扉が半ば開きっぱなしになっている。


 俺はしばらく無言で惨状を見つめたあと、冷静に状況を整理した。


 この屋敷で、鍵のかかった扉を力任せに破壊できる人間は一人しかいない。


「……」


 嫌な汗を拭いながら部屋へ足を踏み入れる。


 すると、嗅ぎ慣れない香りが鼻をくすぐった。


 石鹸ではない。


 どこか甘ったるい香水のような匂いだ。


 俺はゆっくりと室内を見回し、最後にベッドへ視線を向けた。


「……」


 シーツが不自然に盛り上がっている。


 怪しすぎる。


 ベッドの前まで歩み寄り、その山を数秒見つめる。


 そしてシーツを掴み、一気に剥ぎ取った。


「!」


 有栖川がいた。


 薄い白のネグリジェをまとった有栖川が、仰向けになってこちらを見つめている。


 俺は反射的にシーツをかけ直した。


「ちょっとッ! なんでかけ直すのよ!」


 次の瞬間、有栖川はシーツを跳ね飛ばして飛び起きた。


「お前こそ人の部屋で何やってるんだ! 扉壊したのもお前だろ!」

「そんなことどうでもいいじゃない。それより、えっち目的で買った美少女があんたのベッドで寝てるのよ? 他に言うことがあるんじゃないの!」

「出ていけ! 今すぐだ!」

「なんでよ!」

「なんでもだ! 自分の部屋に戻れ!」


 有栖川は腕を組み、不満そうに唇を尖らせた。


「部屋が遠いわ」

「六歩で着くだろ」

「今夜は寒いのよ」

「暑くてエアコンが欲しいくらいだ!」

「女に恥をかかせる気?」

「知らん。お前が出ていかないなら俺が出る」


 これ以上同じ部屋にいるのは危険だ。


 俺はそう判断し、そのまま踵を返した。


「待ちなさいよ、このクソ童貞!」


 背中に突き刺さった一言に、思わず足が止まる。


「あんた、童貞のまま死んでもいいわけ?」

「あ?」

「考えてもみなさいよ。ここは日本じゃないの。あたし達が一年後も生きてる保証なんてどこにもない」


 背中越しに有栖川の声が響く。


「女を知らずに死んで後悔しない? あたしは嫌。どうせ死ぬなら、一度くらい好きな人に抱かれたい」

「……」


 冗談ではない。

 本気だった。


 その真剣さが痛いほど伝わってくる。

 だが、それでも俺は振り返らない。


「逃げるの?」


 責めるような声が追いかけてくる。


 正直に言えば、俺だって健全な男子高校生だ。


 有栖川は誰もが振り返るほどの美人だし、どういうわけか、こんな捻くれた俺を本気で好いてくれている。


 だから誘惑を感じないわけがない。


 男としての欲望も、流されそうになる衝動も確かにあった。


 それでも踏み出せない理由がある。


 俺の心には、今も楪の存在が残っていた。


 忘れたつもりでも消えない。


 他の誰かへの想いを抱えたまま、有栖川とそういう関係になることだけはしたくなかった。


 それは有栖川に対して失礼だと思ったからだ。


 小さく息を吐き、覚悟を決める。


「有栖川。俺はたぶん……お前のことが少し好きだ」

「少し……? 大好きの間違いじゃないの? 訂正するなら今のうちよ」


 こんな時でも、有栖川はいつもの調子を崩さない。

 だが俺は引かなかった。


「俺がずっと好きだったのは、お前の親友――楪なんだ」

「……そう」


 その一言で、有栖川の声から熱が消えた。


 先ほどまでの感情が嘘のように消え失せ、冷たい静寂だけが残る。


 部屋の空気が、重く沈んだ。


 直後、背後でベッドのマットレスが軋む音がした。


 有栖川が寝具から這い出し、その脇に置いていた刀を手に取る気配が伝わってくる。

 ペタペタと裸足の足音が近づき、俺のすぐ後ろで止まった。


「――――――」


 室内の空気が一瞬で凍りつく。

 嫌な汗が背筋を伝った。

 振り返るまでもない。


 うなじのすぐ後ろに、鋭い刃先が突きつけられている。


「光劫清森幸福論の教えは知ってるわよね?」


 低く抑えられた声が耳元で響く。


「婚姻相手以外に肌を見せてはいけない……だったか?」

「続きがある」

「続き?」

「もし婚姻相手以外に肌を見られたら、その相手を殺すべし」


 背筋が冷たくなった。


 怖すぎるだろ、その戒律。


「あんたはあたしと結婚する気がない。そういうことでいいのよね?」


 刃先が微かに震える。

 それが彼女の殺意を雄弁に物語っていた。


 俺は生唾を飲み込みながら答える。


「ち、違う! そういう意味じゃない!」

「じゃあ何?」

「時間が欲しい」

「どれくらい?」

「……もう一度、楪と会って、自分の気持ちを確かめるまで」


 有栖川はすぐには答えなかった。


 重苦しい沈黙が部屋を支配する。


「後悔するわよ」


 それは今まで聞いたことのない声だった。

 冷たく、感情の抜け落ちた声。


「え?」


 恐る恐る振り返ると、有栖川は抜き放った刀を鞘へ納めていた。


 そして懐から小さな硝子瓶を取り出し、俺へ差し出す。


「これ、返すわ」

「え……あ!」


 眠りポーションだった。

 クローゼットに保管していたはずの作り置きの一本。

 いつ盗まれたのか、まったく気付かなかった。


 有栖川は何も言わず、俺の横を通り過ぎる。


「有栖川!」


 思わず呼び止めた。

 ここで聞かなければ、もう二度と聞けない気がした。


「楪のこと、何か知ってるのか?」


 有栖川は振り返らない。


「知っていたとしても、あんたには教えない」

「なんでだよ!」

「……言ってもどうせ信じない」


 消え入りそうな声だった。

 だが次の瞬間には、いつもの突き放すような口調へ戻っている。


「月聖のことが知りたいなら、直接会うことね」

「待てよ、有栖川!」


 呼び止めても、彼女は振り返らなかった。


 扉の前で足を止めたまま、低い声で言う。


「これ以上話しかけないで。あたしだって機嫌が悪い時くらいあんのよ」


 お前は普段から機嫌が悪いだろ。

 そんな言葉が喉まで出かかったが、口にはしなかった。


 今の有栖川には、軽口を叩ける空気ではなかったからだ。


 やがて足音が遠ざかり、完全に聞こえなくなる。


 静寂だけが残った。


「はぁ……」


 張り詰めていた緊張が一気に抜ける。


 俺はベッドへ腰を下ろし、窓の外へ目を向けた。


 異世界の夜空に浮かぶ月は、地球のそれより遥かに大きい。


 まるで世界そのものを見下ろしているかのように、不気味な光を放っていた。

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