第25話 闖入者
夜会はようやく落ち着きを取り戻しつつあった。
エレノアの鮮やかな手腕によって、俺を品定めしていた夫人たちの包囲網は解かれ、俺は壁際でグラスを片手にようやく安堵の息を吐いていた。
少し離れた場所では、有栖川がエレノアと視線を交わしながら何やら話し込んでいる。シャンデリアの柔らかな光を受け、深紅のドレスが炎のように揺らめいていた。
嵐は過ぎ去った。
そう思った、その時だった。
庭先の方角から、硬い石畳を叩くような鈍い衝撃音が響いた。
「――――ッ!」
続いて、複数の人間が倒れ伏す重い音。
石畳を転がる金属の不快な擦過音。
そして、誰かの短い悲鳴。
一瞬にして、会場は凍りついた。
給仕たちが足を止め、談笑していた貴族たちが言葉を失う。
数十もの視線が、一斉に庭へ面した巨大なガラス窓へ向けられた。
その直後だった。
「影山――――ッ!!」
地を這うような怒号が夜気を切り裂いた。
俺は反射的に振り返る。
闇に沈む庭園の向こう、屋敷の灯りが届く境界に、一人の男が立っていた。
実戦用の冒険者装備。
右手には、月光を反射する抜き身の剣。
その足元には、暴漢を取り押さえようとして返り討ちに遭ったのだろう、レンバース家の使用人たちが折り重なるように倒れていた。
「……鎌倉?」
王都グランタリアにいるはずのクラスメイト――鎌倉英二だった。
一瞬、思考が止まる。
なぜ鎌倉がここにいる。
ここは国境を越えたルクセリア王国の辺境都市レジャス。そのレンバース伯爵邸の庭先に、なぜこいつが立っている。
しかも剣を手に、憎悪に顔を歪めながら。
会場にざわめきが広がった。
貴族たちが窓際へ集まり、庭先の異常事態を好奇の目で見つめる。
鎌倉は窓越しに俺を見つけると、血走った目で睨みつけた。
「影山……! このゲス野郎がァッ! 有栖川を、有栖川さんを今すぐ自由にしろッ! 彼女はお前みたいな屑の、奴隷に成り下がるような女じゃねぇんだよ!」
俺は数秒、その言葉の意味を理解できなかった。
有栖川を自由にしろ。
有栖川は奴隷じゃない。
――なぜだ。
なぜ鎌倉が、有栖川が奴隷であることを知っている。
「待て」
俺は窓を開け放ち、冷たい夜風を会場へ招き入れながら鎌倉に声をかけた。
「お前、なんでレジャスにいるんだ。それに、有栖川がここにいることをどうやって知った?」
鎌倉の目に、侮蔑の色が浮かぶ。
「お前みたいな外道に教える義理なんざねぇよ!」
取り付く島もない拒絶だった。
鎌倉はそれ以上話すつもりはないらしく、剣を握ったままこちらを睨み続けている。
俺は短く思考を巡らせた。
鎌倉が有栖川に執着していたことは知っている。だが、王都グランタリアにいたはずの人間が、有栖川の居場所を突き止め、このレジャスまで辿り着けるとは思えない。
誰かが情報を流した。
そう考えるのが自然だった。
問題は、その相手が誰なのかだ。
そして何より、今は別の問題がある。
会場の空気が変わっていた。
鎌倉が口にした『奴隷』という言葉が、貴族たちの好奇心に火をつけたのだ。
彼らの視線は侵入者ではなく、有栖川へ向けられていた。
正確には、その胸元へ。
深紅のドレスのネックラインから覗く奴隷紋へと。
「やはり……」
「あれは奴隷紋だったか」
「剣聖が奴隷とは、どういうことだ?」
囁きが広がる。
疑念は瞬く間に確信へ変わっていった。
この状況を危険と判断したのだろう。
エレノアが即座に前へ進み出た。
「皆さま、どうかお静かに」
その一言だけで、ざわめきがわずかに収まる。
エレノアは会場全体を見渡し、落ち着いた声で続けた。
「有栖川様の奴隷紋についてですが、これはグランタリア王国が召喚した英雄に対して行った、極めて卑劣な行為の証です」
会場がどよめく。
「異世界から呼び寄せた少女を欺き、奴隷契約によって縛ろうとしたのです。そして、その不当な支配から有栖川様を救い出した英雄こそが――薬師様なのです」
エレノアが流れるように俺へ視線を向けた。
……は?
救い出した?
しかも俺が英雄?
そんな設定は話になかったぞ!
思わず絶句した俺に対し、エレノアは微笑みを崩さないまま、視線だけで訴えかけてきた。
話を合わせてくださいませ。
そんな無言の圧だった。
「詳しい経緯をお話しすることはできません。しかし薬師様の行いが、有栖川様を救うためのものであったことだけは断言できます。このレンバースの名において保証いたしましょう」
会場が静まり返る。
その沈黙を破ったのは、有栖川だった。
彼女はエレノアの隣へ進み出ると、感情を抑えた声で告げた。
「……エレノアの言った通りよ。あたしは突然この世界に召喚され、グランタリアの連中から想像を絶するような仕打ちを受けてきた。そんなあたしに影山は愛を囁き、『一緒に生きよう』と手を差し伸べてくれたのよ!」
どさくさに紛れて何を言っているんだ。
そんなこと、一言も言った覚えがない。
即座に否定しようとしたが、エレノアが唇の端を引きつらせながら、必死に「今は耐えてくださいませ」と視線で訴えかけてくる。
なぜか俺よりエレノアの方が苦しそうだった。
「なんと……グランタリアがそのようなことを」
「いやはや、あの強欲な国ならやりかねませんな」
剣聖本人の証言に、会場の空気は一気に傾いた。
貴族たちの囁きは、グランタリアへの非難と俺への賞賛へと変わっていく。
「あの国は聖女様を司祭様にすら会わせぬと聞く」
「なんと罰当たりな」
「少女を騙して奴隷にしようとは、人の所業ではありませんな」
「つまり薬師様は剣聖様を救い出した恩人ということか」
「まさしく聖人ですな」
俺へ向けられる視線が、次第に崇拝めいた熱を帯び始める。
一方で鎌倉は屈辱に震え、唇を強く噛み締めていた。
「騙されるなッ!!」
怒号が夜気を震わせる。
「有栖川さんは奴隷紋で洗脳されているんだ! 自分の意思で話しているように見えても違う! 全部そこのゲス野郎に操られてるんだよ! そいつは詐欺師だ! 変態野郎なんだよ!」
再び会場がざわつく。
だが今度のざわめきに同調の色はない。
向けられているのは理解ではなく、妄言を吐き続ける鎌倉への冷ややかな視線だった。
鎌倉は憎悪に染まった目で俺を睨みつけ、剣先を突き出した。
「影山……! 俺と戦えッ! 有栖川さんを賭けて、正々堂々決闘しろ!」
俺は心の底からため息をついた。
「断る。めんどく――」
そこまで言ったところで、エレノアの細い指が俺の袖を掴んだ。
振り返ると、彼女は完璧な社交用の笑みを浮かべている。
「影山様。ここで決闘を拒めば、影山様の名声に傷がつきますわ。これほど多くの方々の前で挑戦を受けておいて退けば、今後の活動にも支障が出るでしょう」
「……いや、でも俺の本職は戦闘じゃなくて――」
「ベルク森林でのご活躍は聞き及んでおります。影山様でしたら、あの程度の相手に後れを取ることはないと信じておりますわ」
そしてエレノアは、わずかに声を潜めた。
「それに、先日お渡しした『例のモノ』を試すには絶好の機会かと」
ベルク森林の一件の後、俺は便宜上という名目で、エレノアからある魔道具を譲り受けていた。
「……よろしいですわね?」
微笑みは美しい。
だが、その笑顔に逃げ道は存在しなかった。
俺は諦めて鎌倉へ向き直る。
「……わかった。その決闘、受けてやる」
鎌倉の目に狂気じみた闘志が宿った。
「ただし、お前は何を賭けるんだ? まさか俺だけにリスクを負わせて、自分は何も差し出さないなんて言わないよな。有栖川さんはお前にとって最大の報酬なんだろう? なら、それに見合う対価を用意しているはずだ」
鎌倉は一瞬だけ虚を突かれたような顔をした。
だがすぐに、不敵な笑みを浮かべる。
「……いいだろう。もし万が一、お前みたいな無能が俺に勝てたら――俺もお前の奴隷になってやる。それで文句ねぇだろ!」
…………。
正直、大ありだった。
これっぽっちも欲しくない。
というか、有栖川と鎌倉では賭け金としてまったく釣り合っていない。
天上の宝石と道端の石ころ。
いや、石ころに失礼かもしれない。
だが、ここでそれを口にするのはさすがに酷だろう。
俺は黙って視線を庭園へ向けた。
どうやら今夜は、面倒な決闘に付き合わされることになりそうだった。
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