第23話 忘れられぬ後ろ姿
「はぁ……はぁ……待ってろよ、有栖川」
鎌倉英二は荒れた街道を歩いていた。
グランタリア王都を出発してから、すでに幾日もの時が過ぎている。ルクセリア王国まで馬なら三日で辿り着ける距離だが、彼はその道のりを徒歩で進んでいた。
歩くたびに足裏へ鈍い痛みが走る。
訓練所を飛び出してから何日経ったのか、もはや正確には覚えていない。野宿を繰り返すうちに日付の感覚は薄れ、空腹と疲労だけが現実として残っていた。
乏しい食料で飢えを誤魔化しながら、鎌倉はただレジャスを目指し続ける。
雨宮から聞かされた僅かな情報。それだけが、今の彼を前へ進ませていた。
空は低く垂れ込めた雲に覆われ、街道沿いの枯れかけた木々が湿った風に揺れている。背負い袋の紐は肩へ深く食い込み、履き潰した靴の底越しに地面の硬さが骨へ直接響いていた。
肉体は限界を訴えていたが、それでも鎌倉の足は止まらない。
――有栖川が、影山の奴隷になっている。
雨宮の言葉が呪いのように脳裏へ蘇るたび、胸の奥で黒い感情が膨れ上がった。
――影山玄兎。
元の世界では教室の隅に溶け込むような目立たない男だった。
この異世界へ召喚されてからも【ポーション生成士】というハズレ職を与えられ、まともに戦うことすらできない無能。
そんな男が、クラスの中心にいた有栖川を手元へ置いている。
それを思い浮かべるだけで、鎌倉の腹の底から煮え立つような怒りが込み上げてきた。
鎌倉は歩調を緩めることなく、腰に差していた手拭いを引き抜き、鼻先へ押し当てる。
「スゥー……ハァ……有栖川……」
端がほつれ、幾度も洗われたその布は、薄くなるほど使い込まれていた。
あの日から、この手拭いだけが壊れかけた彼の心を辛うじて繋ぎ止めていた。
◆
高校一年の春だった。
鎌倉英二は、自らの剣に絶対の自信を持っていた。
中学時代の三年間、公式戦で敗北したことは一度もない。地区大会も県大会も制し、その頂点には常に自分が立っていた。
高校へ進学しても、その事実が変わるとは思わなかった。
だからこそ、入部直後の手合わせで味わった敗北は、今なお鮮烈な記憶として脳裏に刻まれている。
板張りの道場で向かい合った相手は、同じ一年生の女子だった。
金色の髪に碧い瞳。
剣道部という場にはあまりにも似つかわしくない外見だった。日本人離れした容姿も相まって、鎌倉には異物のように映った。
だが、竹刀を構えた瞬間、その認識は粉々に打ち砕かれる。
開始の合図と同時に、鎌倉は迷いなく踏み込んだ。
「――面!」
渾身の一撃。
中学時代、幾度となく勝利をもたらしてきた得意の打ち込みだった。
しかし。
空を切った。
次の瞬間には乾いた打突音が道場に響き渡る。
鎌倉の面が打たれていた。
「……なっ」
何が起きたのかわからなかった。
有栖川はそこにいたはずだった。確かに捉えたと思った。
だが、一歩踏み込んだ瞬間には姿を外され、気づけば竹刀の先が額へ届いている。
まるで最初から勝負の行方が決まっていたかのような一撃だった。
「……も、もう一本!」
悔しさを噛み殺しながら、再び竹刀を構える。
だが結果は変わらない。
「――面!」
一本。
また一本。
さらに一本。
五度続けて打ち込んだにもかかわらず、鎌倉は一本も奪えなかった。
胸の奥を焼いたのは、人生で味わったことのない悔しさだった。
三年間負けなしで積み上げてきた自信。
誰にも負けないという確信。
そのすべてが、同い年の少女を前にして、あまりにも呆気なく崩れ去った。
その日から、鎌倉の頭から有栖川アリスの存在は離れなくなった。
最初は単純な執着だった。
悔しかった。
ただひたすら悔しかった。
いつかあいつに勝つ。
次は俺が打ち倒す。
その思いだけを胸に、鎌倉は来る日も来る日も竹刀を振り続けた。
転機は、入学から二週間ほどが経った頃の早朝だった。
有栖川との差を少しでも埋めたい。その焦りにも似た思いに突き動かされ、鎌倉はまだ薄暗い時間帯に道場へ向かった。
誰もいないはずだった。
重い扉を開けた瞬間、静まり返った場内に鋭い呼気が響く。
「ハッ!」
有栖川だった。
広い道場の中央で、彼女は一人、黙々と竹刀を振っていた。
空気を切り裂く鋭い音が規則正しく響く。
一振りごとに淀みがない。
正確で、力強く、それでいて一切の無駄がなかった。
鎌倉は思わず足を止める。
床には汗の跡がいくつも残っていた。
どれほど前から続けていたのかは分からない。だが今の息遣いと汗の量を見れば、一時間や二時間ではないことだけは理解できた。
有栖川は鎌倉の存在に気づいていない。
ただ前だけを見据え、黙々と竹刀を振り続けている。
その姿から目が離せなかった。
胸の奥で燃えていた悔しさが、少しずつ別の形へ変わっていく。
鎌倉はずっと、有栖川を天才だと思っていた。
才能に恵まれた特別な人間。
だから負けても仕方がないのだと、どこかで自分に言い聞かせていた。
だが違った。
彼女は誰も見ていない場所で、誰よりも早く道場に立ち、誰よりも多く竹刀を振っていた。
鎌倉は音を立てないようそっと扉を閉める。
そして来た時よりも強く竹刀を握り締めた。
五月の終わり。
その日の放課後、理不尽な先輩たちの「かわいがり」が行われた。
鎌倉は二時間以上にわたり、次々と現れる先輩たちの打ち込み台にされ続けた。
面。
胴。
小手。
防具越しとはいえ、容赦なく叩き込まれる打撃は確実に体力を削っていく。
稽古が終わる頃には右手首が熱を帯び、竹刀を握るだけでも痛みが走っていた。
防具を外し、荒い息を整えていたその時だった。
ふいに視界へ影が差す。
顔を上げると、有栖川が立っていた。
彼女は何も言わない。
ただ冷たい水で濡らした手拭いを差し出してくる。
鎌倉は反射的に受け取った。
手首へ当てると、熱を持った皮膚へ冷たさがじんわりと染み込んでいく。
「……ありがとう」
有栖川は小さく頷いただけだった。
それ以上何も言わず、自分の荷物を持って道場を後にする。
ほんの数秒の出来事だった。
それでも鎌倉は帰り道、その手拭いを何度も見つめていた。
翌日。
綺麗に洗った手拭いを返そうとすると、有栖川は竹刀の手入れを続けたまま短く答えた。
「これ、昨日の……」
「いらない」
あまりにも素っ気ない一言だった。
だが鎌倉には、それを捨てることができなかった。
異世界へ召喚された今もなお、その手拭いは腰に差されている。
擦り切れ、何度も洗われ、生地は薄くなった。
それでも鎌倉は手放さない。
あの日、有栖川から受け取ったたった一枚の手拭いを。
◆
鎌倉英二は、ついにレジャスへと辿り着いた。
峠の頂から見下ろした街は、グランタリア王都とはまるで違っていた。
丘陵に沿って広がる街並み。
石造りと木造の建物が入り混じり、遠くからは人々の話し声や馬車の往来が絶え間なく聞こえてくる。
国境に近い街とは思えないほど活気に満ちていた。
鎌倉は足を止める。
有栖川が、この街のどこかにいる。
その事実だけで胸が高鳴った。
無意識に腰へ手を伸ばす。
指先が触れたのは、使い込まれた手拭いだった。
「待ってろよ、有栖川」
呟きと共に視線を上げる。
そして迷うことなく坂道を下り始めた。
街へ入ってから半日後。
鎌倉は安宿を確保すると、すぐに情報収集を始めた。
異世界人であることを悟られないよう、流れの冒険者を装う。
酒場。
露店。
冒険者ギルド周辺。
話を聞けそうな場所を片っ端から回り、さりげなく目的の情報を探っていった。
そして予想以上にあっさりと、その名へ辿り着く。
――明智商会。
街では知らぬ者のいない有名店だった。
高品質なポーションを扱うことで知られていたが、最近は教会から目をつけられているらしい。
そのせいで近寄りたがらない者も少なくないという。
「明智か……」
鎌倉の目が細くなる。
影山の隣にいた、あの糞オタク。
正面から店へ向かえば警戒される可能性が高い。
焦る必要はない。
ここまで辿り着くために費やした日数を思えば、あと数日待つくらいどうということはなかった。
鎌倉は街を歩き続けた。
明智商会の周辺。
出入りする人間。
店の評判。
影山に繋がる情報。
一つずつ拾い集めながら、獲物の居場所を探る猟犬のように街を巡る。
すべては有栖川を取り戻すため。
影山玄兎から解放するためだった。
「!」
それは調査を始めて三時間ほど経った頃だった。
大通りを行き交う人々の中に、見覚えのある後ろ姿を見つけた瞬間、鎌倉の思考は停止した。
「……あ、有栖川……?」
陽光を受けて輝く金色の髪。
風に揺れる白い外套。
見間違えるはずがなかった。
有栖川アリスが、そこにいた。
鎌倉はその場に立ち尽くす。
彼女は何事もない様子で街を歩いていた。
怯えている様子もない。
誰かに監視されている様子もない。
穏やかな午後を楽しむかのように、ゆったりと人混みの中を進んでいる。
胸の奥で何かが弾けた。
生きていた。
本当に、生きていたのだ。
雨宮から話を聞いた時も、何日も街道を歩き続けていた時も、有栖川は無事だと信じ続けてきた。
だが心のどこかでは恐れていた。
もし遅すぎたら。
もし手遅れだったら。
そんな不安がようやく消えていく。
鎌倉は大きく息を吐いた。
そして人混みに紛れながら、一定の距離を保って後を追い始める。
しばらく歩いた後、有栖川は大通りを離れた。
一本の路地へ入る。
さらに奥へ進む。
曲がる。
また曲がる。
気づけば周囲の喧騒は遠ざかり、人通りもほとんどなくなっていた。
鎌倉は眉をひそめる。
――妙だ。
その時だった。
有栖川が不意に立ち止まる。
「出てきなさい」
振り返らない。
それでも声には確信があった。
鋭く、冷たく、拒絶の色を帯びた声だった。
鎌倉の背筋を緊張が走る。
気づかれていた。
いつからかは分からない。
だが尾行は完全に見抜かれている。
一瞬だけ逃げるという選択肢が脳裏をよぎった。
しかし、ここまで来て引き返すつもりはなかった。
鎌倉は拳を握る。
そして覚悟を決めると、路地裏の陰からゆっくりと姿を現した。
有栖川もゆっくりと振り返った。
鋭い碧眼が、真正面から鎌倉を捉える。
一瞬だけ沈黙が流れる。
だが再会の喜びを期待した鎌倉の願いは、次の瞬間に打ち砕かれた。
有栖川の目が冷たく細められる。
「……鎌倉」
「有栖川」
呼び返した声は、自分でも分かるほど震えていた。
「お前……生きてたんだな」
「当たり前でしょ」
返ってきた声はどこまでも冷淡だった。
驚きも喜びもない。
まるで道端で偶然知人を見かけた程度の反応だった。
「あんた、なんでこんな所にいるのよ」
「なんでって……お前を助けに来たに決まってんだろ!」
思わず声が大きくなる。
有栖川の眉がわずかに動いた。
「助け?」
「雨宮から全部聞いたんだ! お前、影山の奴隷にされてるんだろ! 今すぐどうにかできるかは分からねぇ。でも俺が絶対に助け出してやる!」
「は? あんたバカ? 余計なお世話よ!」
即答だった。
鎌倉は言葉を失う。
「は……?」
「聞こえなかった? 余計なお世話だって言ってんの」
「何言ってるんだよ! お前は奴隷なんだろ!? 自由を奪われて、影山の言いなりに――」
「そうよ」
有栖川はゆっくりと頷いた。
その表情に絶望はない。
助けを求める色もない。
むしろ――。
「あたしは影山の奴隷よ。それが、あんたに何か関係あるの?」
誇らしげですらあった。
鎌倉の思考が停止する。
「な、何を言ってるんだよ……」
「事実を言ってるだけよ」
「お前……まさか……!」
喉が張り付く。
「影山に何かされたのか!? 精神魔法とか、洗脳とか――!」
「されてない」
有栖川は即座に否定した。
「私は自分の意思で影山の奴隷になったの」
「そんなわけあるかッ!」
叫びが路地に反響する。
「お前が! あの影山なんかに――!」
「鎌倉」
有栖川の声が低くなる。
それだけで空気が張り詰めた。
「あんたが心配してここまで来たのは分かった。でも、あんたには関係ない話よ」
そして最後通告のように告げる。
「今すぐグランタリアへ帰りなさい」
「ふざけるな! お前、自分がどんな状況にいるのか分かって――」
「だ・か・ら」
有栖川が遮る。
「あんたには関係ないって言ってるでしょ!」
それだけ言い残し、有栖川は踵を返した。
呼び止める暇すらなかった。
白い外套が路地の向こうへ消えていく。
鎌倉はただ立ち尽くしていた。
あの顔が脳裏から離れない。
怯えている顔ではなかった。
無理をしている顔でもない。
心の底から現状を受け入れている者の顔だった。
「……あの野郎」
拳が震える。
「何をした……」
有栖川が自ら望んで奴隷になるはずがない。
そんなことは絶対にあり得ない。
ならば答えは一つしかなかった。
「何をしたんだよ……影山ァ……!」
鎌倉は壁へ背中を預ける。
震える手で腰の手拭いを取り出した。
擦り切れた布へ顔を埋める。
懐かしい感触。
あの日、有栖川から受け取った唯一の証。
「……待ってろ」
掠れた声が漏れる。
「必ず俺が助け出してやる」
夕暮れの赤い光が細い路地へ差し込む。
その中で鎌倉は悟った。
自分だけが、有栖川を救えるのだと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。