第22話 戦いの後の日常
意識が浮上したとき、最初に視界へ飛び込んできたのは豪奢な天井だった。
レンバース家の客室を彩る、精緻な装飾が施された白磁のような天井。差し込む陽光に照らされたその意匠をぼんやりと見つめてから、有栖川アリスは重い体を引き起こした。
途端、全身を強烈な倦怠感が襲う。
魔力の根源が枯れ果て、魂そのものが空っぽになったかのような感覚だった。これほどまでに消耗した経験は、彼女の人生で一度もない。腕には力が入らず、脚も鉛のように重かった。
開け放たれた窓の向こうは、眩い光に満ちている。
朝なのか、それとも昼なのか。
時計を確認する気力もなく、有栖川は自分がどれほど長く眠っていたのかを考えた。
そこでふと、ベッドの脇に置かれた椅子へ視線が向く。
影山玄兎が眠っていた。
椅子に深く腰掛けたまま頭を垂れ、お世辞にも安眠とは言えない姿勢だ。
口をわずかに開き、規則正しい寝息を立てている。衣服には昨日の激戦の痕跡が残ったままで、着替えた形跡もなかった。
おそらく――あの戦いの後、有栖川を屋敷まで運び、そのままずっと側についていたのだろう。
有栖川は思わずその寝顔を見つめた。
普段の彼が見せる鋭い眼差しは固く閉ざされ、今は驚くほど無防備だった。
こうして見ると、年相応の幼ささえ感じられる。
そのことに気づいた瞬間、頬にじわりと熱が広がった。
「……ばか」
思わず漏れた小さな呟き。
その声に反応したのか、影山の瞼がゆっくりと開く。
まだ焦点の定まらない瞳が有栖川を捉え、数秒遅れて彼女が目を覚ましていることを理解した。
「……起きたんだな」
「ええ」
「体は」
「重い。あのポーションの副作用?」
「だろうな」
影山は立ち上がると、大きく背筋を伸ばした。
パキパキと骨の鳴る音が室内に響く。
「影山は動けるの? またあの変なポーション使ったんでしょ」
「正直、かなりキツい」
「……そう。で、何時間そこにいたの」
「さあな」
影山は肩を竦めながら、窓の外へ視線を向けた。
「お前、あれからずっと寝てたからな」
「……影山は、ずっとあたしの側にいたの?」
「ああ」
有栖川は動揺を隠すようにシーツを引き寄せた。顔の半分ほどが隠れてしまう。
「なんで」
「なにが?」
「どうして……ずっとそこにいたのよ」
影山は少し考えるように視線を泳がせた。
「目が覚めた時、誰もいないってのは……なんというか、寂しいだろ」
「それだけ?」
「他に何があるんだよ」
有栖川は答えなかった。
ただ、シーツを握る指先に力がこもる。
「……ありがと」
「別に」
それきり会話は途切れた。
ゆったりと流れる空気が二人の間を満たしていく。聞こえるのは互いの呼吸だけだったが、不思議と居心地の悪さはなかった。
その穏やかな静寂を破るように、控えめなノックが扉を叩いた。
「有栖川様、お目覚めでしたら失礼いたしますわ――」
入室してきたのはレンバース家の当主、エレノアだった。
銀のトレイには湯気を立てる朝食が載せられている。
エレノアの視線はベッドの上の有栖川へ向けられ、続いて傍らに立つ影山へ移り、再び有栖川へと戻った。
昨夜から今まで、影山が一度もこの部屋を離れていないこと。
有栖川の傍らに置かれた椅子が、その事実を雄弁に物語っていた。
「……影山様も、おはようございます」
「ああ、おはよ」
「有栖川様、朝食をお持ちいたしました。……まだお体を起こすのは難しそうですわね」
「食べられるわよ。それに、影山にあ~んしてもらうから問題ないわ」
有栖川は唇の端を持ち上げながら言った。
その瞬間、エレノアの手がぴたりと止まる。
だが、それもほんの一瞬だった。
彼女は何事もなかったかのようにトレイをベッド脇のテーブルへ置く。
「そうですか」
声音は穏やかだった。
動作もまた、いつも通り完璧だった。
それでも有栖川には分かった。
エレノアが向けてくる視線の奥に、微かではあるが穏やかではない何かが混じっていることを。
「影山様はお疲れです。食事の補助でしたら、わたくしがして差し上げますわ」
「あんた馬鹿ぁ? なんであんたに食べさせてもらわなきゃいけないのよ。あたしは影山にあ~んしてもらいたいの。すっこんでなさい!」
有栖川の抗議など存在しないかのように、エレノアはにこやかな笑みを浮かべたまま影山へ向き直った。
「影山様、少しは休まれないといけません」
「俺は大丈――」
「なりません」
被せるように言い切る。
「一晩中、椅子で過ごされたのでしょう。お体に障りますわ」
有無を言わせぬ勢いに、影山は思わずたじろいだ。
「……そ、そうだな。じゃあ、少し部屋で休もうかな」
「チッ」
遠慮のない舌打ちが聞こえた。
だがエレノアは優雅な笑みを崩さない。
「どうかなさいました?」
「……女の嫉妬は見苦しいわよ」
「影山様の優しさにつけ込む、不埒な企みを阻止したまでですわ」
「誰が不埒よ!」
二人の視線が正面からぶつかる。
火花でも散りそうな空気だった。
しかし、その緊張は長く続かなかった。
「でもまあ……」
有栖川が少しだけ視線を逸らす。
「あんたが自分で持ってきてくれたことには、その……感謝するわ」
「……」
エレノアが目を瞬かせた。
予想外だったのだろう。
有栖川から素直な礼の言葉が出てくるとは思っていなかったに違いない。
「……いいえ。この屋敷の主として当然のことをしたまでですわ」
エレノアは有栖川の目を見て答えた。
「それに、レジャスを救ってくださったこと。この街の領主として、改めて感謝申し上げます。本当にありがとうございました」
「あんたに礼を言われる筋合いはないわ。あたしは仕事をしただけよ」
有栖川は肩を竦める。
「それより、頭を下げるくらいなら邪魔しないでもらえる?」
「それとこれとは別の話ですわ」
「だから、それが――」
言い返そうとした有栖川の口元が、不意に緩んだ。
「ぷっ」
「ふふっ」
気づけば二人とも笑っていた。
顔を合わせれば言い争ってばかりだった二人が、初めて同じ空気を共有するように。
エレノアは小さく息を吐き、影山へ向き直る。
「影山様も、次はちゃんとしたベッドで休んでくださいませ」
それだけを告げると、ゆっくりと一礼し、部屋を後にした。
扉が閉まる。
残された有栖川は、どこか気まずそうに視線を逸らしている影山を見た。
「怒られたわね」
「うるさい。黙って食え」
◆
数日後。
影がわずかに伸び始めた頃、レンバース家の玄関先は場違いな喧騒に包まれていた。
「影山! いるか影山! 俺だ、開けろ!」
地響きのような大声が屋敷中に響く。
「……どうか、どうかお静かに願います。ここは由緒ある伯爵家でして――」
「分かってる、分かってるって! だがな、まずは影山に会わせてくれ!」
必死に制止するクロードと、それをまるで意に介さないバルボッサ。
騒ぎの内容を聞くだけで、誰が来たのか理解できた。
俺は自室の扉を閉めると、そのまま玄関へ向かった。
重厚な玄関扉を開く。
そこには巨大な木箱と、それに負けないほど立派な酒樽を抱えたバルボッサが立っていた。
その背後ではシャネルが居心地悪そうに肩を縮めている。
「申し訳ない。私は必死で止めたのだけど」
「気にしなくていい」
「おおっ、影山!」
俺の姿を見た瞬間、バルボッサの顔がぱっと明るくなった。
「生きてたか!」
「そりゃ生きてるだろ」
「がっはっは! 俺もだ!」
バルボッサは数日前に失ったはずの両脚を、これ見よがしに床へ踏み鳴らした。
俺が繋ぎ合わせた脚だ。
「見ろ、影山! この通りだ! 寸分の狂いもねえ! 痛みも痺れもありゃしねえ!」
どんっ、とさらに一歩踏み出す。
「全部お前のおかげだ!」
傍らで見ていたクロードの視線が、木箱と酒樽の間を何度も往復した。
「あの……失礼ながら、こちらの品々は一体……?」
「命の恩人への礼だ!」
バルボッサは酒樽を軽々と持ち上げる。
「中身は極上の酒! こっちは上等な猪肉だ! 今日は朝まで宴会にしようじゃねえか!」
クロードが助けを求めるようにこちらを見る。
だが、俺にもこの男を止める方法は分からない。
その時だった。
屋敷の奥からエレノアが姿を現す。彼女はバルボッサの巨体を見た。
次に酒樽を見て、さらに木箱を見た。
「はぁ……」
そしてそっと目を閉じた。
「……どうぞ、お入りください。クロード、客間へご案内して」
許可が下りた瞬間、バルボッサは満面の笑みを浮かべた。
「がっはっはっは!」
豪快な笑い声を響かせながら、泥の付いた靴のまま屋敷へ踏み込んでいく。
クロードの顔が引きつった。
一方、その後ろを歩くシャネルは何度も頭を下げていた。
「本当に、本当に申し訳ない……」
消え入りそうな声で謝り続けながら、彼女は大男の背中を追いかけていた。
◆
レンバース家の手入れの行き届いた庭園に、即席の宴席が設けられた。
大理石のテーブルには、バルボッサが持ち込んだ猪肉の香草焼きや様々な料理が並び、葡萄酒の香りが風に乗って漂っている。
上機嫌なバルボッサが「さあ飲め!」とエレノアの杯へ酒を注ごうとしたが、クロードの無言の視線に阻まれた。
エレノアは一瞬だけクロードと目を合わせると、何事もなかったかのように自ら杯を手に取る。
そこへ、まだ本調子ではない有栖川が姿を現した。
ふらつきながらも席へ向かい、シャネルの向かいへ腰を下ろす。
「おいおい、有栖川は起きてきて大丈夫なのか?」
バルボッサが山盛りの肉を皿へ載せながら声を掛けた。
「平気。これくらい、なんてことないわよ」
「がっはっは! 頼もしいねぇ!」
豪快に笑った後、バルボッサは身を乗り出した。
「だが、あの一撃は本当に凄まじかったぞ。俺は冒険者を二十年やってるが、あんなもん初めて見た」
大きく腕を広げる。
「森が消えたんだぞ。森が丸ごと一本の道になったんだ!」
「……そう」
「『そう』って、お前なぁ」
バルボッサが呆れたように笑う。
「もう少し何かねぇのか。天下無双って言葉がそのまま形になったみてぇだったぞ」
「あれはポーションのおかげよ。私一人の力じゃない」
有栖川は即座に答えた。
そして隣の俺へ視線を向ける。
その様子を見たバルボッサが、愉快そうに俺の肩を小突いた。
「聞いたか影山。お前のおかげだとよ」
「いや、あれは有栖川の基礎能力が桁外れだったからで――」
「影山のポーションがなかったら、あそこまで力は出なかった」
「いや、だから――」
「あれは影山との愛の共同作業」
「あ、あい……?」
シャネルの肩がびくりと震えた。
「いや、だからあれはお前の潜在能力が――」
「影山のおかげだから」
「……」
「がっはっはっは!」
バルボッサの豪快な笑い声が庭園に響き渡る。
「相変わらず変な奴らだな、お前ら!」
ひとしきり笑った後、不意にその表情が真面目なものへ変わった。
「影山」
「……なんだよ」
バルボッサは真っ直ぐ俺を見る。
「お前はすげぇ男だ」
「急にどうした」
「違うな」
バルボッサは首を振った。
「お前はすげぇ冒険者だ」
低く、しかし力強い声だった。
「これだけは、どうしても伝えておきたかった」
俺は答えなかった。
ただ手元の杯へ視線を落とす。
バルボッサもそれ以上は何も言わず、葡萄酒を一気に飲み干した。
そして次の瞬間には、いつもの調子へ戻る。
「さあ飲め飲め! 今日は無礼講だ!」
賑やかな祝杯の声が、柔らかな午後の庭園へ響き渡った。
「影山さん、少しいいか」
宴が盛り上がるなか、シャネルがゆっくりと席を立った。
促されるまま、俺たちはテーブルから少し離れた庭の中央へ移動する。
背後では、バルボッサの豪快な笑い声が途切れることなく響いていた。
シャネルはしばらく黙っていた。
そして意を決したように口を開く。
「【朝焼けの翼】の仲間たちが……全員、死亡したことが確認された」
俺は何も言わなかった。
「マルジェル、セルシカ、ルーベリオン、ダッチ、ユグルド――」
一人ずつ名前を口にする。
まるで、その存在を忘れないために。
「全員、大切な仲間だった」
落ち着いた声だった。
だが、その指先はわずかに震えている。
「私だけが生き残った」
かけるべき言葉は見つからなかった。
「なぜ私だけが、と何度も考えた」
シャネルは苦く笑う。
「弓使いだったから、一番後ろにいたから。きっと理由なんて、その程度なんだろう」
そして空を見上げた。
どこまでも広い青空だった。
「でも――」
黄金の瞳が俺を見る。
「あなたが助けてくれた。だから私は今、ここに立っている」
俺は何も言わなかった。
言葉にできるようなことではなかった。
「……ありがとう」
少し間を置いて、シャネルは続ける。
「それだけ、伝えたかった」
俺は一度だけ頷いた。
それで十分だと思った。
彼女は生き残った。
その事実だけを、俺は受け止める。
シャネルは小さく笑った。
肩から重い荷物を降ろしたような、穏やかな笑みだった。
「……ありがとう、影山さん」
二人でテーブルへ戻る。
すると、バルボッサが何やらエレノアへ熱弁を振るっていた。
対するエレノアは、これまで見たこともないほど困惑した表情を浮かべている。
有栖川は慣れない葡萄酒を口にしていた。
一口飲んだ瞬間に顔をしかめる。
「不味い」
クロードが慌てて酒樽を遠ざけようとしていた。
相変わらず騒がしい。
俺は席に腰を下ろし、その光景を眺めた。
誰かが笑っている。
そして、生きている。
ほんの数日前まで死と隣り合わせだったとは思えないほど、穏やかな時間だった。
賑やかだった。
たまには、こういうのも悪くない。
◆
数日後、俺はギルドへ顔を出した。
扉を開いた瞬間、いつもと空気が違うことに気づく。
受付へ向かおうとした時だった。
「おい、あれポーション生成士じゃないか」
カウンター近くにいた若い冒険者が俺を見つけた。
首に下げたプレートはCランクを示している。
「なんでこんなとこにいるんだよ。家に帰って薬草でも煮て――」
言葉は最後まで続かなかった。
男の背後で、ドガンがゆっくりと立ち上がったからだ。
全身に包帯を巻いたまま、その巨体が椅子から離れる。
何も言わない。
だが、それだけで十分だった。
周囲にいた仲間たちも次々と立ち上がる。
全員の視線が男へ向けられていた。
「……え?」
男の顔から余裕が消えた。
「ど、どうしたんですか」
誰も答えない。
「お、おれ……何かまずいこと言いました?」
沈黙だけが返る。
やがて男は居心地の悪さに耐えきれなくなったのか、逃げるようにその場を離れた。
ドガンは何事もなかったように席へ座り直す。
俺が受付へ向かうと、顔なじみの受付嬢がいつもより深く頭を下げた。
依頼票を受け取り、振り返る。
その時だった。
遠くの席からこちらを見ていたドガンと目が合う。
ドガンが小さく頷いた。
かつて向けられていた蔑みも敵意もない。
一人の冒険者に向ける敬意だけがそこにあった。
俺も軽く頷き返す。
言葉は必要なかった。
その時。
ギルドマスター室の扉が開いた。中から現れたゼノンが、真っ直ぐこちらへ歩いてくる。
やがて目の前で立ち止まった。
「影山」
「ん?」
「バルボッサから報告は聞いている」
ゼノンの鋭い視線が俺を捉える。
顔を走る古傷が、いつもより深く見えた。
「大活躍だったらしいな」
俺は何も答えない。
ゼノンも返事を求めなかった。
「……俺の見立てが甘かった」
短く吐き捨てるように言う。
そして。
「非礼を詫びる。すまなかった」
それだけだった。
ゼノンは踵を返し、そのままギルドマスター室へ戻っていく。
重い扉が閉まった。
ギルドの中が、一瞬だけ静まり返る。
誰もが、今のやり取りを見ていた。
ギルドマスターが頭を下げたのだ。
それだけの意味を理解していた。
やがて――
「よっしゃあ!」
誰かが叫んだ。
「飲むか!」
「今日は俺の奢りだ!」
堰を切ったように歓声が上がる。
馬鹿みたいに騒がしい。
俺は依頼票をポケットへ押し込み、出口へ向かった。
背後では、まだ騒ぎが続いている。
だが不思議と悪い気分ではなかった。
少しだけ口元を緩めながら、俺はギルドを後にした。
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