第18話 ベルク森林の戦い
ネクロスパイダーの群れが、ついにその牙を剥いた。
森林の奥深く、陽光の届かぬ闇から巨大な影が次々と這い出てくる。一匹、二匹――数を数える暇もない。気づけば視界の先は毒々しい甲殻と無数の脚で埋め尽くされていた。
馬ほどもある巨体の蜘蛛たちが顎を鳴らしながら地を蹴る。そのたびに大地が震え、黒い濁流のような群れが冒険者たちへと押し寄せた。
「散開しろ! 囲まれるな! 毒糸と霧に注意を払え!」
バルボッサの怒号が戦場に響き渡る。
冒険者たちは迫り来る群れを迎え撃つべく左右へ散り、剣戟と魔法の閃光が森の闇を切り裂いた。
その最中だった。
有栖川が、一切の躊躇なく蜘蛛の大群へと飛び込む。
朧月が翻る。
銀閃が走った瞬間、最前列のネクロスパイダーが真っ二つに裂けた。
続く一撃で脚が宙を舞い、返す刃で頭部が砕け散る。飛び交う毒糸は頬を掠めることすら許されず、彼女は滑るような足運びで包囲網をすり抜けていく。
斬る。
躱す。
踏み込む。
その一連の動作に淀みはなく、まるで長年磨き上げた舞を披露するかのようだった。
緑色の体液が飛び散り、蜘蛛たちの断末魔が重なる中でも、その白銀の髪は乱れず、一滴の返り血すら身に纏わない。
死と毒が渦巻く乱戦の中心で、有栖川だけが別の理で動いているように見えた。
凍てつくほど冷ややかな碧眼は獲物を見据え、その奥では抑えきれない歓喜の炎が揺れている。
彼女にとって、この死線は恐怖の場ではない。
己の剣を振るうための舞台であり、命を懸けた狂宴そのものだった。
「……おいおい、あの嬢ちゃん。本当に人間か?」
バルボッサが迫り来るネクロスパイダーを大剣で叩き潰しながら、思わずといった様子で呟いた。
蜘蛛の甲殻が砕け散る。
だが、彼の視線は有栖川から離れない。
「だから言っただろ。見ればわかるって」
俺は苦笑混じりに答えた。
あれだけの大群の中に飛び込みながら、一方的に蹂躙している。味方である俺ですら時々信じられなくなるのだから、初めて見る人間ならなおさらだろう。
その時だった。
戦場を舞うように駆けていた有栖川の動きが、不意に止まる。
鋭く細められた碧眼が、森の奥を射抜いていた。
次の瞬間。
轟音と共に巨木がへし折れた。
倒木を押し退けながら現れたのは、他の個体を遥かに上回る巨躯を持つネクロスパイダーだった。
馬どころではない。
小屋ほどもある異形の怪物が、地面を震わせながら姿を現す。
そして、その禍々しい顎には一人の人影が咥えられていた。
銀髪のエルフ。
泥と血にまみれた身体は力なく揺れ、だらりと垂れ下がった腕には折れかけた弓が握られている。
死体――そう思いかけた瞬間。
「まだ息があるわ!」
有栖川が叫んだ。
同時に、その姿が掻き消える。
一歩。
いや、一瞬だった。
銀光が閃いた直後、巨大蜘蛛の顎が音もなくずれ落ちる。
遅れて断面から緑色の体液が噴き出した。
支えを失ったエルフの女が地面へ投げ出される。
その身体が地面に叩きつけられる寸前、バルボッサが駆け込んだ。
巨体からは想像もつかない俊敏さだった。
彼は女を抱き留めると、そのまま俺の方へ走ってくる。
「影山! こいつを頼む!」
そう叫びながら、バルボッサはエルフの女を俺の足元へ横たえた。
近くで見ると傷は想像以上に深刻だった。
「ひどいな」
衣服は裂け、全身に無数の裂傷と打撲痕が走っている。
露出した肌は毒によって紫黒く変色し、呼吸はかすかに胸を上下させるだけだ。今にも途切れそうな命の灯火が辛うじて残っているに過ぎない。
それでも、まだ生きている。
【朝焼けの翼】の弓士、シャネル=ココハンドル。
事前に叩き込んだ資料に記されていた人物に間違いなかった。
「……ちっ、手遅れか。毒が回りすぎてやがる」
バルボッサが苦々しく吐き捨てる。
「いや、まだ間に合う」
「は? 間に合うって……どう見ても助からねぇだろ!」
俺は答えず、腰のホルスターから二本の小瓶を引き抜いた。
一本目は解毒ポーション。
シャネルの顎を支え、強引に中身を流し込む。
続けざまに二本目――高品質回復ポーションの栓を抜き、そのまま飲ませた。
そして。
異変は、ほとんど瞬時に訪れた。
紫黒く染まっていた首筋から毒の痕が薄れていく。
まるで見えない何かが身体の内側から毒を削り取っているかのようだった。
「なっ……」
バルボッサが息を呑む。
変化は止まらない。
死人のように青白かった顔に血色が戻り、乾き切っていた唇が鮮やかな赤みを帯びる。
裂けていた皮膚がゆっくりと寄り合わさり、傷口が閉じていく。
深く抉れていた傷さえ、目に見える速さで塞がった。
やがて最後の傷が消えた時には、そこに傷跡すら残っていなかった。
まるで最初から怪我など存在しなかったかのように。
「……ありえねぇだろ、こんなの」
バルボッサは呆然と呟いた。
だが、次の瞬間には無理やり意識を切り替え、大剣を握り直す。
「俺から離れるんじゃねぇぞ、影山!」
バルボッサは俺たちの前に立ち塞がり、大剣を構えた。
左右から迫るネクロスパイダーを一撃ごとに叩き潰し、その巨体で俺とシャネルを守る。
蜘蛛の甲殻が砕け、緑色の体液が飛び散る。
だが、どれだけ敵が押し寄せようと、一匹たりともこちらへ近づけさせない。
その背中はまさに鉄壁だった。
やがて一分も経たないうちに、
「――っ!」
シャネルが大きく息を吸い込んだ。
閉じられていた瞼が開き、金色の瞳が震える。
「……わ、わたしは……まだ、生きて……?」
かすれた声が漏れる。
「ああ。もう大丈夫だ」
シャネルは呆然と自分の両手を見つめた。
指を曲げる。
腕を動かす。
肩に触れる。
そこにあるはずの激痛はどこにもなかった。
毒による痺れもない。
彼女は恐る恐る身体を確かめるように触れながら、ゆっくりと上体を起こした。
「そんな……」
信じられないものを見るような目が俺へ向けられる。
「聖人様……?」
「は?」
思わず聞き返す。
シャネルははっと我に返った。
「い、いえ……申し訳ない。だが、その……」
戸惑いながら俺と自分の身体を交互に見比べる。
「致命傷だったはず……。毒も全身に回っていた。あの状態から助かるなど、本来あり得ない」
「ポーションを飲ませたからな」
「ポーション……?」
シャネルの瞳が大きく見開かれる。
「聖水や神聖魔法の類ではなく、ポーション……?」
「ああ、ポーションだ」
「これが……ポーションの力……?」
彼女は震える指で自らの首筋に触れた。
紫色に変色していた皮膚は跡形もなく元に戻っている。
胸元の裂傷も消えていた。
「傷跡すら……残っていない……」
その呟きには、畏怖にも似た震えが滲んでいた。
「毒も、魔力阻害も完全に消えてる。……こんなポーション、見たことも聞いたこともない!」
信じられないものを見るような目で、シャネルが俺を見つめる。
その言葉を聞いたバルボッサが振り返った。
蜘蛛の返り血を頬に浴びたまま、その口元には獰猛な笑みが浮かんでいる。
「カカッ! 影山! やっぱりてめぇはとんでもねぇレア職じゃねぇか!」
「……だから、ただの生成士だって言ってるだろ」
俺が呆れたように返すと、バルボッサは一瞬ぽかんとした顔を見せた後、豪快に笑った。
「はははっ! 違ぇねぇ!」
俺が何か言い返すより早く、シャネルは傍らに落ちていた弓を拾い上げた。
「まだ使える」
折れていないことを確かめるように弦を鳴らし、そのまま滑らかな動作で立ち上がる。
先ほどまで死の淵を彷徨っていた人間とは思えない身のこなしだった。
金色の瞳には、絶望の色はもうない。
代わりに宿っているのは、鋭く研ぎ澄まされた戦意だった。
「助けてもらったこと、感謝する」
シャネルは俺へ深く頭を下げる。
そして顔を上げると、真っ直ぐに俺を見据えた。
「この恩、命に代えてもお返しする」
次の瞬間だった。
彼女は流れるような動作で矢を番える。
「――――ッ!」
放たれた一矢が風を裂いた。
俺の背後から忍び寄っていたネクロスパイダーの複眼を、寸分違わず射抜く。
悲鳴を上げる暇もなく巨体が地面へ崩れ落ちた。
その一射だけで十分だった。
彼女が【朝焼けの翼】を支えていた一流の弓士であることを証明するには。
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