第19話 風になった少年

 時間の経過とともに、戦況は確実に悪化していた。


 ネクロスパイダーの群れは減らない。


 一匹を斬り伏せれば、その奥の闇から新たな個体が現れる。


 また一匹。


 さらに一匹。


 まるで森そのものが蜘蛛を生み出しているかのようだった。


 白濁した毒糸が縦横無尽に飛び交い、霧状の毒が戦場を覆う。


 冒険者たちは必死に応戦していたが、その動きは目に見えて鈍くなっていた。


「くそ……毒が回って……視界が……!」


 一人の剣士がよろめく。


 その直後、別の冒険者が膝をついた。


「足が……動かねぇ……!」

「誰か回復を! 頼む!」


 悲鳴と怒号が入り混じる。


 解毒薬を飲む者もいたが、効果は限定的だった。


 顔色は悪化し続け、震える手で武器を握るのが精一杯になっている者も少なくない。


 この遠征に教会の白魔導士はいない。


 誰かが倒れれば、そのまま戦線から脱落するしかなかった。


 そして脱落者が増えるほど、残った者へ掛かる負担は重くなる。


 悪循環だった。


 バルボッサが蜘蛛を叩き潰しながら舌打ちする。


「不味いな」


 砕けた甲殻が飛び散る。


「このままじゃ押し潰される。先にこっちの体力が尽きるぞ」


 俺も同じ結論に辿り着いていた。


 このまま戦い続ければ、いずれ誰かが崩れる。


 そして一人崩れれば、それを切っ掛けに戦線全体が瓦解する。


 なら、やることは一つだ。


「俺が回復支援に回る!」


 バルボッサが弾かれたように振り向いた。


「無茶を言うな! 戦闘能力のないお前が戦場を走り回れば、一瞬でスパイダーの餌食だぞ!」

「問題ない」


 俺は脚部のタクティカルホルスターへ手を伸ばし、一つの小瓶を引き抜いた。中で揺れているのは、不気味なほど鮮やかな黄色の液体。


「黄色い……ポーション?」


 シャネルが眉をひそめる。


「そんな色のポーション、見たことがない」


 俺は答えず、親指で栓を弾き飛ばした。


 そして、その中身を一気に喉へ流し込む。


「!」


 ――瞬間。


 灼熱の奔流が全身を駆け抜けた。


 心臓が激しく脈打つ。

 血液が沸騰したかのような熱が四肢の先まで行き渡り、視界が一瞬だけ白く明滅した。


 次の瞬間――世界が静止する。


 いや、止まったように見えた。


 空を飛ぶ毒糸。


 舞い散る木の葉。


 飛び散った緑色の体液。


 その全てが信じられないほど緩慢に流れている。


 迫り来るネクロスパイダーの脚運びも、冒険者たちが振るう剣も、バルボッサの大剣すらも――。

 まるで水の中で動いているようだった。


 思考だけが異様な速度で加速していく。


 周囲の情報が次々と脳へ流れ込み、全てを把握できる。


 敵の位置。


 毒糸の軌道。


 負傷者の場所。


 最短経路。


 一瞬で全てが組み上がった。


「――ちょっくら、行ってくる」

「おい! 待て、影山!!」


 バルボッサの制止が聞こえる。


 だが、その声すら遅い。


 俺は地面を蹴った。


 土が弾け飛ぶ。


 爆発じみた加速と共に身体が前へ飛び出し、俺は戦場という混沌の中へ躍り込んだ。



 ◆



 その後に起きた光景を、戦場にいた冒険者たちは後々まで語り継いだ。


 あれは風だった、と語る者がいる。


 ネクロスパイダーの大群が蠢く死地を、一筋の黒い残像が駆け抜けていた。


 猛毒を孕んだ糸が空を裂き、岩をも砕く鋭脚が四方から振り下ろされる。その全てを掠めるように躱しながら、黒い影は止まることなく戦場を疾走していた。


 誰も追えなかった。


 視線を向けた瞬間には別の場所にいる。辛うじて見えたと思えば、それはすでに通り過ぎた後の残像だった。


 Bランク冒険者ドガンは膝をつき、自らの死を覚悟していた。


「ここ、までかっ……」


 全身に毒が回り、視界は白く霞んでいる。裂かれた脇腹からは血が溢れ、目前では巨大なネクロスパイダーが顎を開いていた。


 次の瞬間。


 何かが強引に口の中へ押し込まれた。


 反射的に飲み込んだ液体は、搾りたての果汁を思わせる芳醇な甘みを帯びていた。


 それが喉を滑り落ちた刹那、全身を焼いていた毒が嘘のように消え去る。


「――っ!?」


 ドガンは目を見開いた。


 裂けていた脇腹が、見る間に塞がっていく。


 肉が繋がり、血が止まり、傷痕さえ残らない。


 まるで肉体の時間そのものが巻き戻されたかのような、常識を超えた治癒だった。


 呆然としたまま口元に手をやり、そこで初めて気づく。


 空になったポーション瓶が一本、無造作に咥えさせられていた。


 誰が飲ませたのか。


 いつ近づいたのか。


 そもそも、どうやって蜘蛛の群れを突破したのか。


 何一つ分からない。


 気づいた時には、すでにその姿はなかった。


 そして同じ奇跡は、戦場の至る所で起きていた。


 毒の霧に呑まれ、事切れる寸前だった冒険者が、突如として跳ね起きる。深手を負い戦線を離脱していた者が、何事もなかったかのように武器を握り直す。


 誰もが信じられないという表情で、自らの身体を見下ろしていた。


 全身を蝕んでいた毒は消え失せ、砕かれた骨は繋がり、裂けた肉は跡形もなく再生している。


 そして彼らは皆、滑稽なほど共通した事実に気づいた。


 自分たちの口には、空になったポーション瓶が一本ずつ咥えられていたのだ。


「……な、なんだ。今のは」


 ドガンが呆然と呟く。


 隣では、同じく死の淵から生還した仲間が、青ざめた顔のまま震える指を前方へ向けていた。


「み、見たか……? あのポーション生成士だ……!」

「何?」

「あ、あいつが、この中を走り抜けてたんだ……!」


 ドガンは反射的に視線を向けた。


 その先で、黒い残像が初めて足を止める。


 無数のネクロスパイダーが蠢く戦場の中心。


 そこに立っていたのは、指の間に幾本ものポーション瓶を挟み込んだ細身の少年だった。


 その姿を認めた瞬間、ドガンの顔色が変わる。


「……あいつ」


 見間違えるはずがない。


 数日前、ギルドで顔を合わせた少年だ。


 ポーション生成士など戦場では役に立たない。薬草でも煮ていろ。てめぇみてぇなのは足手まといになるだけだ!


 そう言って嘲笑を浴びせ、無能の烙印を押した相手。

 だが今、その少年は誰よりも危険な最前線に立っていた。


 幾千もの魔物がひしめく死地を駆け抜け、次々と冒険者たちの命を救い続けている。


 無能だと切り捨てた少年が。


 役立たずだと笑った少年が。


 今この戦場で、誰よりも多くの命を背負っていた。


「……くそっ……たれッ」


 ドガンの口から、掠れた声が漏れた。


 喉の奥に込み上げる何かを押し殺そうとしても、うまくいかない。


 数日前の自分を殴り飛ばしてやりたかった。


 周囲を見渡せば、立ち上がった冒険者たちもまた同じ顔をしていた。


 驚愕。


 羞恥。


 そして、どうしようもない後悔。


 しかし少年は彼らに一瞥もくれなかった。

 感謝を求めることもなければ、恨み言を口にすることもない。


 ただ次の救助者を探すように視線を巡らせる。


 そして。


 その姿が再び掻き消えた。


 黒い残像だけを戦場に残し、少年は蜘蛛の群れの中へ飛び込んでいく。


 死者を出さないために。


 命を拾い上げるために。



 ◆



 バルボッサは、唸りを上げる大剣を振るいながら、その光景を見ていた。


 ネクロスパイダーの群れを縫うように駆け抜ける黒い残像――影山玄兎だ。

 少年が通り過ぎた場所では、死を待つだけだった冒険者たちが次々と立ち上がっていく。


 毒に侵された者が息を吹き返し、致命傷を負った者が再び武器を握る。


 あり得ない光景だった。


 バルボッサは頬に飛び散った緑色の体液を腕で拭い、大きく口を歪める。


「カカッ! 期待以上だ! やっぱり只者じゃねぇと思ってたが、あの小僧! とんだバケモノだぜ!」


 隣ではシャネルが弓を引き絞りながら、次々と蜘蛛の複眼を射抜いていた。


「瀕死だった私を一瞬で治した時点で普通ではないと思っていたが……」


 放たれた矢が一匹の眼球を貫く。


「傷跡すら残さず完治させるなど聞いたことがない。それに、あの黄色いポーションも異常だ。あんな効果を持つポーションなど、伝承ですら聞いたことがない」

「違いねぇな!」


 バルボッサは笑った。


「だが理屈を考えるのは後だ! 今はあの小僧が作った流れに乗るぞ!」


 大剣を正眼に構える。

 次の瞬間、迫り来る三匹のネクロスパイダーへ突撃した。


「おおおおおッ!」


 暴風のような横薙ぎが蜘蛛の外殻ごと身体を粉砕する。

 緑色の体液が雨のように飛び散った。

 そのまま振り返り、バルボッサは戦場全体へ怒鳴る。


「まだ終わっちゃいねぇぞ! 立てッ!」


 腹の底から響く咆哮だった。


「影山が拾った命だ! ここで捨てるんじゃねぇ!」


 倒れていた冒険者たちが顔を上げる。


 一人が立ち上がり。

 続いてまた一人が武器を拾う。


 誰もが口に空のポーション瓶を咥えたまま、それでも獣のような眼で前を睨んでいた。


 戦場のあちこちで怒号が上がる。


 剣が振るわれる。


 矢が放たれる。


 崩れかけていた戦列が再び繋がり始めていた。




――――――――――――――――――――


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