第17話 緊急クエスト

 レンバース伯爵邸の朝光が差し込む一室で、俺はテーブルに広げられた白い紙を手に取った。


 老執事が気を利かせて用意してくれた上質な紙だ。俺はその一枚を手繰り寄せ、指先に意識を集中させながら折り始める。


「こうやって、まず端と端を正確に合わせる。それから半分に折る。折り目をしっかりと、爪でなぞるようにつけるのがコツだ」


 向かいに座ったエレノアが、真剣な眼差しで俺の手元を追っていた。波打つ深緑の髪が朝の陽光を受け、仄かに輝いている。


「折り目、ですか。細部にまで気を配るのですね」

「そうだな。ここが甘いと、工程が進むにつれて少しずつ角がずれていく。最後には形にならなくなるんだ」


 エレノアは頷くと、慎重に紙を折った。几帳面な彼女らしく、折り目は鋭く正確だ。初心者にしては上出来だった。


 一方、俺の隣では有栖川が無言のまま同じ工程に挑んでいた。


「……」


 ふと彼女の手元に目をやる。


 紙はすでに妙な方向へひしゃげていた。


 いや、待て。


 まだ数回しか折っていないよな?


「それ、山折りと谷折りが逆だぞ」

「……分かってる」

「いや、明らかに分かってないだろ」

「うるさい! 分かってるって言ってるでしょ! これはあたし流のアレンジなのよ」


 絶対に分かっていない。


 しかし、それ以上の追及は諦め、俺は黙って自分の鶴を折ることにした。


 しばらくして、エレノアが「こうでしょうか」と、おずおずと紙を持ち上げる。左右の羽のバランスは少し崩れているものの、初めて折ったにしては上出来だった。


「悪くない。初めてにしてはかなり上手いな。その感覚を忘れないうちに何羽か折れば、もっと綺麗に作れるようになると思う」

「初めてのことに挑戦するというのは、とても楽しいですわね」


 エレノアの翠色の瞳が、子供のような輝きを帯びる。


「また、教えていただけますか」

「もちろん。こういう息抜きも大事だからな」


 有栖川が、俺とエレノアのやり取りを苦々しげに横目で見ながら、再び紙と格闘を始めた。


 やがて完成した俺の鶴をテーブルの中央に置くと、エレノアが感嘆したように小さく息を吐く。


「美しいですわ。影山様は本当にお上手なのですね。たった一枚の紙から、これほど見事な鶴が生まれるなんて」

「小さい頃から折り紙は得意だったんだよな」

「あたしだって、本気を出せばそれくらい楽勝よ」


 俺とエレノアの視線が、同時に有栖川の手元へ向かった。


 そこにあったのは、何とも形容し難い紙の塊だった。


「……有栖川様。失礼ながら、それは一体何を作られたのですか?」


 エレノアが、おずおずと尋ねる。


「は? 誰がどう見ても鶴でしょ。一緒に作ってたんだから、それくらい分かりなさいよ」


 俺とエレノアは顔を見合わせた。


「……そうですね」


 しばしの沈黙が流れる。


 エレノアは困ったように微笑みながら頷いた。


「よく見れば、鶴……のように見えなくもありませんわね。とても、その……独創的ですわ」


 俺は何も言わず、お茶を啜った。


「……ちょっと、今のなし! あたしはまだ本気を出してなかっただけだから!」


 有栖川は顔を真っ赤にして紙を放り出した。


「次は手裏剣を作るわよ!」

「手裏剣は二枚の紙を組み合わせるから、鶴より少し工程が複雑だぞ」

「あたしに難しいものなんてないわよ!」


 俺は新しい紙を二枚取り、再び折り始めた。複雑に噛み合う構造を説明しながら進めていくと、エレノアは一言も聞き漏らすまいと熱心に耳を傾けていた。


「二枚のパーツを組み合わせて一つにする……。非常に合理的で、面白い構造ですわ」

「折り紙って言ってな。俺の故郷――日本じゃ、子供の遊びの定番なんだ」

「日本……」


 エレノアが、その名を確かめるように繰り返した。


「影山様の故郷には、このような遊びがあるのですね」

「ああ……まあな」


 エレノアはそれ以上深くは追及しなかった。ただそっと紙へ視線を落とし、先ほどまで以上に真剣な手つきで折り続ける。


 まるで、俺が生まれ育った国の文化を少しでも理解しようとするかのように。


 有栖川は、先ほどの雪辱を果たすべく無言で手裏剣に挑んでいた。その横顔は、戦場で剣を構えている時よりも真剣だった。


「できましたわ!」


 エレノアは完成した手裏剣をテーブルに並べると、自分の作ったものと俺のものを見比べ、小さく首を振った。


「……やはり、角の処理ひとつで随分と印象が変わりますわね」

「折り目の問題だな。もう一回練習すれば――」


 その時、静寂を切り裂くように扉を叩く音が響いた。


 入ってきたのはクロードだった。いつもの冷静な表情には、隠しきれない緊張の色が混じっている。


「失礼いたします。エレノア様。……ギルドより使いの者が参っております。剣聖様――有栖川様に至急お会いしたいと」


 俺とエレノアは顔を見合わせた。


 有栖川もまた、手を止めてクロードへ視線を向ける。


 先ほどまでの和やかな空気が、一瞬にして張り詰めたものへと変わっていた。



 ◆



 客間に現れたギルド職員の顔には見覚えがあった。


 冒険者登録の手続きをしてくれた受付嬢だ。


 あの時の落ち着いた印象とはまるで違う。肩を激しく上下させ、額には大粒の汗が浮かんでいる。伯爵邸まで続く坂を全力で駆け上がってきたのだろう。


「有栖川様、よかった……。随分と探したんですよ」


 彼女は掠れた声でそう言うと、一度大きく息を吸い込んだ。


「そんなに慌てて、何かあったの?」

「ベルク森林で魔物の大規模氾濫スタンピードが発生しました。現在、事前調査に向かったBランクパーティが消息を絶ち――事態は一刻を争います。詳しい状況はギルドマスターから直接お伝えします。どうか、今すぐギルドへお越しください!」


 大規模氾濫スタンピード


 その言葉を聞いた瞬間、有栖川の表情から先ほどまでの気安さが消えた。


「行くわよ、影山」


 短く告げると、有栖川は迷いなく踵を返す。


 その足はすでに部屋の外へ向かっていた。


「……やれやれ。ようやく落ち着けると思ったんだが、しゃーないか」


 俺は深く溜息をつき、膝に手をついて立ち上がった。


 隣で見守っていたエレノアが、そっと俺の袖を掴む。


「影山様……」


 彼女の翠色の瞳には、不安を押し隠せない色が浮かんでいた。


「心配しなくてもいい。俺が戦うわけじゃない」


 俺は軽く頷き、ふとテーブルの上へ視線を向ける。


 そこには、作りかけの折り紙と完成した鶴が残されていた。


 折り紙の続きは、この騒動を片付けてからだ。


 無事に帰ってきたら、また続きをやればいい。


 俺は背を向け、先を行く有栖川の後を追って屋敷を飛び出した。



 ◆



 ギルドの重厚な扉を潜った瞬間、普段とは明らかに違う空気を感じた。


 いつもなら冒険者たちの笑い声や武勇伝が飛び交う広間は、今や重苦しい沈黙に包まれている。


 たむろしている冒険者たちは一様に声を潜め、不安げな表情で話し合っていた。掲示板には【緊急依頼】の羊皮紙が何枚も貼り出され、その前には険しい顔をした冒険者たちが集まっている。


 ベルク森林の大規模氾濫スタンピードが、すでに街全体へ影を落としているのだ。


 受付嬢に案内され、俺たちは最奥にあるギルドマスター室へ向かった。


 扉を開ける。


 そこには巨大な地図をテーブルいっぱいに広げたゼノンが立っていた。


 窓から差し込む逆光が、その顔に刻まれた深い傷跡を際立たせる。


 歴戦の戦士らしい厳しい表情は変わらない。

 だが今は、その表情に隠し切れない焦燥が滲んでいた。


「来たか、有栖川」


 ゼノンは視線を地図に落としたまま低く応じた。だが、その隣に立つ俺の姿を認めた瞬間、わずかに眉をひそめる。


「……お前まで来たのか」

「当然でしょ。影山はあたしの相棒なんだから」

「有栖川、今回は大規模な魔物氾濫スタンピードだ。Eランクの同行は――」

「影山が行かないなら、あたしも行かないわよ」


 即答だった。


 ゼノンは苦虫を噛み潰したような顔で、有栖川と俺を交互に見た後、改めて俺へ視線を向ける。


「……戦えるのか」

「戦えません」


 戦闘職のようには戦えない。だが、馬鹿正直に手の内を明かす必要もない。


 俺は無表情のまま続けた。


「ですが、後方支援なら任せてください。ポーションは揃っていますし、その場で調合も可能です。死ぬ気はありませんよ」


 ゼノンはしばらく黙り込んだ。


 やがて諦めたように短く息を吐く。


「……分かった。ただし、足手まといになるようならすぐに撤退しろ。これは命令だ」

「俺も怪我したくないんで、最初からそのつもりです」


 この街のために命を懸けるつもりはない。ただ、せっかく築いた拠点を失いたくもなかった。


「状況を整理する」


 ゼノンが太い指で地図の一点を指し示す。


「昨日の早朝、Bランクパーティ【朝焼けの翼】の六名がベルク森林北部へ調査に入った。熟練の連中だ。だが、予定時刻を過ぎても帰還せず、今朝に至るまで一切の連絡が途絶えている」

「……消息不明。最悪のケースも想定すべきね」

「ああ。さらに今朝、森林南部で大規模な魔物の氾濫が報告された。確認されたのはネクロスパイダーの軍勢。そして、その奥に『ブラッドオーガ』の存在が確認されている」


 ブラッドオーガ。

 かつて明智からその危険性を聞かされたことがある。

 傷を負わせれば負わせるほど筋力と再生能力が増していく、文字通りの人食い鬼だ。

 中途半端な攻撃は、相手を強化するだけで終わる。


「今回は緊急の合同クエストだ。お前たち以外にも、すでに複数のAランク、並びにBランクパーティへ招集をかけている。総勢二十名を超える討伐隊になるだろう」


 ゼノンが有栖川を真っ直ぐ見据えた。


「有栖川、お前には先陣を頼みたい」

「構わないわ。しばらく暴れてないから、ちょうどいい運動になるわね」

「頼んだぞ」


 そしてゼノンは最後に俺へ視線を向けた。


 その眼差しには、Eランクを戦力として数えていない冷淡さが滲んでいる。


「ポーション生成士。お前は精々、仲間の足を引っ張らないように立ち回れ」

「ええ、ご心配なく。最初から前線に出るほど命知らずじゃありませんから」


 ゼノンは鼻を鳴らした。


 どうやら、それでいいと言いたいらしい。



 ◆



 ギルドの正面広場には、異様な熱気と緊張感が入り混じった空気が漂っていた。


 集結した冒険者は二十名ほど。それぞれが武器の手入れをしたり、仲間と短く言葉を交わしたりしながら、出発の時を待っている。


「――ちょいと、通してくれ」


 その時、人垣をかき分けるようにして一人の大柄な男が近づいてきた。


 年の頃は四十半ばほど。日に焼けた精悍な顔には人懐っこい笑みを浮かべているが、その眼光は鋭い。背中に担いだ大剣には幾つもの傷が刻まれていた。


 男が一歩進むたび、周囲の冒険者たちが自然と道を開ける。


 それだけで十分だった。


 この場にいる誰もが、その男が歴戦の強者であることを理解していた。


「よう、お前さんが噂の新人ルーキー、Aランクの嬢ちゃんか。俺はバルボッサだ。よろしく頼むぜ」

「有栖川アリスよ」


 有栖川は、その威圧感に気圧されることもなく、淡々と名乗り返した。


「そっちの隣にいるひょろっこいのは?」

「影山玄兎。ランクはE、職業クラスはポーション生成士だ」

「AランクとEランクのコンビか。随分凸凹だな。それに……ポーション生成士? 聞いたことがねえ。そいつはひょっとしてレアだったりするのか?」


 バルボッサが豪快に笑った。


 見た目に違わず豪放な男だが、勘も鋭いらしい。


「さあな」

「まあいい。何だって無いよりは有った方がいい。いざって時は頼むぜ、影山」


 その時だった。


「おい、見ろよ。例のポーション生成士がいやがるぜ」


 嘲るような声が広場に響く。


 視線を向けると、そこには冒険者登録をした翌日、ギルドで絡んできた連中が立っていた。


 仲間を引き連れ、こちらを見てニヤついている。


「緊急クエストにEランク、それもポーション生成士が来るとか何の冗談だ? てめぇは薬草でも煮てろってんだ」


 俺は取り合わず、石畳に落ちる自分の影へ視線を落としていた。


 だが、その隣に立つ有栖川の空気が変わる。


 彼女がゆっくりと視線を向けた瞬間、嘲笑していた男の表情が凍りついた。


 顔から血の気が引き、肩がびくりと震える。


「……い、いや、まあ、その……俺たちに迷惑かけなきゃそれでいい」


 男は慌てて視線を逸らした。


 仲間たちも口を噤み、そそくさとその場を離れていく。


 それを見ていたバルボッサが苦笑した。


「相変わらずビビりだな、あいつら」


 有栖川は鼻を鳴らし、それ以上は何も言わなかった。


 やがて広場に重厚な鐘の音が響き渡る。


 出発の合図だった。


 二十人の冒険者たちが一斉に歩き出す。


 伸びた影が、ベルク森林へ向かって石畳の上を滑るように伸びていった。

 


 ◆



 ベルク森林へ向かう道中、バルボッサは俺の隣へとやって来た。


「影山、お前、本当に戦えないのか?」

「戦えませんよ」

「本当か? ……戦えないのに、こんな死地についてきたのか?」

「有栖川の援護ですよ。それに俺がいれば、怪我人をその場で治療できる。効率がいいでしょう」

「ほぉん」


 バルボッサは無精髭の生えた顎を撫でながら、興味深そうに俺を見た。


「ポーション、か。あの泥水を煮詰めたような、気休め程度にしか効かねえ代物だろ。傷跡は残るし、連用すりゃ正気も削られる。俺たち冒険者にとっちゃ、死ぬ間際の悪あがきでしかない」

「俺が作るポーションは違いますよ」

「へえ。大層な自信だな」


 バルボッサは鼻で笑った。


 だが、その言葉に嘲りの色はない。


 疑っているというより、見たことのない何かを前にした時の好奇心に近かった。


 老練な冒険者らしい目で、彼は俺を見ていた。


「そういや、一時期めちゃくちゃ効くポーションが売られてるって噂になってたな。……あれ、お前か?」

「さあ?」

「……ま、そういうことにしておいてやるよ。それより、あの嬢ちゃん、本当に強いのか?」


 俺は前を歩く有栖川へ視線を向けた。


「弱そうに見えますか?」

「恐ろしく気が強そうに見える」

「ですね」

「お前さんは、尻に敷かれるタイプだな」


 バルボッサが豪快に笑う。


「そういうあんたは、強いの?」


 前を向いたまま、有栖川が口を開いた。


「そこそこな」


 バルボッサは分厚い肩をすくめてみせる。


「少なくとも、この中じゃ一番長生きしてる自信はある」

「それが強さの証明になるの?」

「うーん、どうだろうな。でも、死なないってのは才能だと俺は思うわけだ。なあ、影山。お前もそう思うだろ?」

「……え、ああ。確かにそうだな」


 有栖川がわずかに口元を緩めた。


 俺はその横顔を視界の端に捉えながら、腰のホルスターと太腿に固定したポーチへ指先を伸ばす。


 解毒ポーション八本。回復ポーション十本。そして、ここぞという時のためのスピード、マッスル、ポテンシャル。


 足りるかどうかは、現地を見てから判断するしかない。


 やがて森林を覆う巨大な老木が見えてきた頃、先頭を進んでいた斥候が鋭く手を上げた。


 停止の合図だった。


 俺は足を止め、木々の隙間から前方を見据えた。


 森の奥から、地鳴りのような唸り声と、硬質な何かが擦れ合う不気味な音が響いてくる。


 暗がりのあちこちで、毒々しい赤い眼が蠢いていた。


 バルボッサが大剣の柄に手をかけ、低く口笛を吹く。


「……こりゃ、想像以上だな」


 その先には、ネクロスパイダーの群れが広がっていた。


 一匹一匹が小型馬ほどの巨体を持ち、八本の脚を鳴らしながら蠢いている。


 視認できる範囲だけでも百を超えていた。


 有栖川がそっと朧月へ手をかける。


 俺も無言でポーションケースへ指を伸ばした。


 次の瞬間。


 先頭の斥候が声を張り上げる。


「――来るぞ!!」

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