第16話 夜這い

 訪問と居住は、似て非なるものだと思い知った。


 馬車を降り、見覚えのある石造りの屋敷を前にして、俺は小さく息を吐いた。 ここに来るのは三度目だ。だが今日は、陽が沈んでも帰る場所がない。この屋敷が、当分の住処になる。


 老執事のクロードが、正面扉の前で深々と頭を下げた。


「お待ちしておりました。影山様、有栖川様。ようこそレンバース伯爵邸へ。どうぞ、中へお入りください」


 隣に立つ有栖川は、その壮麗な建築を冷めた目で見上げ、「ふうん」と短く吐き捨てた。グランタリアで本物の上流階級として暮らしていた彼女からすれば、この程度の屋敷では驚きにすら値しないのだろう。


 俺たちはクロードの案内で屋敷の中へ入った。応接用のサロンへ続く道は、記憶に新しい。しかし今日はその角を曲がらず、さらに奥にある、磨き抜かれた廊下を進んだ。


 案内された部屋の扉が開かれた瞬間、俺は思わず足を止めた。


 視界に飛び込んできたのは、豪奢な刺繍が施された天蓋付きのベッドだった。壁際の一角には重厚な木製の本棚と書き物机が設えられ、大きな窓の外には、計算し尽くされた美しさを持つ庭園が広がっている。足元に敷かれた絨毯は、泥のついた靴で踏み込むのが申し訳なくなるほど上質だった。部屋の隅には、丁寧に薪がくべられた暖炉まで備えられている。


「……ここ、本当に俺が使っていいのか?」

「もちろんでございます。影山様のお部屋としてご用意いたしました」


 後ろからついてきたエレノアが、微笑み頷いた。


「うふふ。お気に召していただけましたか? もしご不満な点があれば、何なりと屋敷の者にお申し付けくださいませ。すぐに整えさせます」


 不満どころか、豪華すぎて落ち着かないくらいだ。安宿の硬い木の床に慣れきった身としては、こんな部屋では逆に眠れる気がしなかった。


 有栖川はためらいもなく室内へ踏み込み、ぐるりと見回して再び「ふうん」と鼻を鳴らした。


「王城の部屋の方が広かったわね」

「……お前は少し黙ってろ」


 次に案内されたのは、廊下を挟んだ向かいの部屋だった。


「有栖川様のお部屋でございます」


 クロードが部屋の扉を開くと、有栖川は不満そうに眉を持ち上げた。


「なんで別々なの?」

「客人には、お一人につき一部屋をご用意するのが当家の慣わしなのですわ」


 淀みなく答えるエレノアに対し、有栖川は睨みつけるように言い放った。


「そっちの勝手なルールを押しつけないでくれる? あたしは影山と同じ部屋がいいの。今すぐに向かいの部屋に荷物を運びなさい!」


 エレノアの翠色の瞳が、わずかに細められた。


「あらあら、それは流石に外聞というものがございますわ。未婚の男女を同室にするわけには――」

「うっさいわね。あたしが同じ部屋がいいって言ってるのよ? 客の希望を聞くのも、もてなしってやつなんじゃないの? それとも、伯爵家ってのは客の意向に沿わないことでも平気でやってしまうのかしら?」


 有栖川の声は驚くほど穏やかだった。だが、その声音には反論を許さない威圧感が滲んでいた。


 エレノアが困ったように俺を見た。

 それは露骨な助け舟の視線だった


 俺は小さく息を吸い込み、有栖川に向き直った。


「有栖川」

「なに」

「せっかく用意してくれたんだ。部屋を別々にするくらいいいじゃないか」

「嫌」


 即答だった。


 俺だって一人部屋の方がいい。


「俺は一人部屋がいい」

「あんたの意見は聞いてない。あたしはあんたを守るためにここに来たの。目が届かない場所にいられたら、いざという時に守れない」


 さすがに伯爵邸内で襲われることはないだろう。だが、そんなことを言ったところで、有栖川が「はい、そうですか」と引き下がるとは思えない。


 有栖川は真っ直ぐに俺を見据えていた。そこには一片の迷いがなく、一度言い出したら決して譲らない強情さが宿っていた。


 俺は仕方ないと息を吐き出し、まるで鉛でも持ち上げるように、ゆっくりと右手を上げた。


 そこには、絶対的な『主人の証』が刻まれている。廊下を照らす魔道具の灯りに、その禍々しい紋様がくっきりと浮かび上がった。


 有栖川の視線が、刻印に吸い寄せられるように動いた。


 刺すような沈黙の中、有栖川が絞り出すように言った。


「……卑怯」

「そうだな」

「最低」

「ああ」

「……分かったわよ。勝手にすれば」


 有栖川は吐き捨てるように言うと、不機嫌を隠すことなく部屋に入っていく。

 軽く室内を見回した後、「悪くはないわね」とだけ言い残し、そのまま扉を叩きつけるように閉めた。


 ――ドンッ!


 エレノアが安堵と困惑の混じった小さな息を漏らした。


 俺は、自分の右手に視線を落とした。


 奴隷紋を掲げる行為は、有栖川を脅しているようでやりたくなかった。


 右手の刻印が、妙に重く感じられた。



 ◆



 翌朝、庭に出ると、そこにはすでに有栖川の姿があった。


 濃い朝靄が立ち込める中、彼女は外套を脱ぎ捨て、動きやすい軽装でひとり静かに佇んでいた。手には抜身の『朧月』。


 彼女が刀を振るたび、朝靄の空気が鋭く裂かれる。霧の中に、見えない斬撃の軌跡だけが残っていった。その一挙手一投足には一切の虚飾がなく、そこにあったのは、実戦だけを突き詰めた剣だった。


 俺は冷えた縁側に腰を下ろし、白濁とした霧の中で舞うその銀光を、ぼんやりと眺めていた。


 胸の奥には、昨夜の奴隷紋の一件が澱のように沈んでいた。状況を収めるためには不可避だったとはいえ、あの刻印の力を、彼女との対話に持ち込んだ自分が嫌でたまらなかった。


「影山様」


 背後から穏やかな声が掛かり、俺は思考の淵から引き戻された。振り返ると、エレノアが盆にカップを二つ載せて立っていた。


「朝がお早いのですね。夕べはよく眠れましたか?」

「お陰様で、よく眠れたよ」


 エレノアは俺の隣へゆっくりと腰を下ろした。

 俺は差し出されたカップを受け取り、温かな湯気越しに、一心不乱に刀を振るう有栖川を眺める。


「実は、影山様に折り入ってお願いがございまして」

「お願い? なんだ?」

「以前いただいた【シャンプーポーション】と【リンスポーション】――あれを、もう一度作っていただけないでしょうか」


 茶を口に運びかけた俺の手が止まる。


「自分で使用するためだけではございません。あれを社交界に集まる夫人がたにお披露目したいのです」

「……流通させるつもりか?」

「いいえ。明智様の店のように、広く世間に流布させるつもりはありません」


 エレノアは庭へ視線を向けたまま続けた。


「貴族たちの間で、秘密裏に、嗜好品として広めるのです。決して教会に目をつけられるような派手な売り方はいたしません」


 俺はカップをソーサーに置き、隣に座るエレノアの横顔を窺った。


「……何か、考えがあるのか?」

「はい。夫人がたが影山様のポーションをひとたび手にすれば、二度と手放せなくなることでしょう。そうなれば、影山様を無碍に扱えない者も増えていくはずです」


 エレノアの翠色の瞳が、真っ直ぐに俺を捉えた。


「レンバース伯爵家という一つの防波堤だけでは、教会の強大な圧力に対抗しきれる保証はございません。ですが、この国の有力貴族を『利益』で繋ぎ止め、味方に引き入れることができれば、万が一の際にも、教会が容易に手出しできない状況を作れます」

「……なるほどな。でも、それなら若返りポーションの方が良いんじゃないのか」

「いいえ、あれは効果が強すぎます。教会の嫉妬と疑念を買いかねません。今はまだ、そこまで目立つべき時期ではございません」


 エレノアの判断は冷静で、そこには貴族らしい計算高さも滲んでいた。だが、その理屈はあまりにも現実的だった。


「……分かった。材料は手元にあるから、今日中にいくつか作っておくよ」

「感謝いたします、影山様」


 その時、庭の霧を切り裂いていた鋭い風切り音が、不意に止まった。


「何の話をしてるの」


 有栖川がいつの間にか刀を鞘に収め、こちらに向かって歩いてきていた。

 白い額には、うっすらと汗が滲んでいた。


「ポーションの話だ。社交界で夫人たちに売って、俺の後ろ盾を増やすんだとさ」

「ふうん」


 有栖川は歩みを止め、縁側に座るエレノアをじっと見下ろした。


「……多少は使えるわね」


 思わぬ言葉だったのか、エレノアは戸惑ったように瞬きをした。


「それは光栄ですわ」

「褒めてるんじゃないわよ」


 有栖川は乱暴に縁側へ腰を下ろし、自分の膝を抱えた。


「事実を口にしただけ。……あたしが斬れない相手を、あんたが言葉や金で黙らせる。そう分業するっていうなら、今はそれでいいわ」


 エレノアは何も言わず、ただ小さく微笑んで、カップに口をつけた。


 俺もまた、冷めかけた紅茶を一口飲んだ。


 朝の空気は少し冷たい。だが、この屋敷に来て初めて、穏やかな時間が流れていた。


 平和だ。少なくとも、今のこの瞬間だけは。



 ◆



 深夜の廊下は、張り詰めた静寂に包まれていた。


 高い窓から差し込む青白い月光が石畳に長い影を落としている。昼間の豪奢な装飾は闇に沈み、ただ冷厳な静止だけがそこにあった。


 エレノア・レンバースは、薄絹のネグリジェを纏い、一振りのろうそくの灯を頼りに忍び足で廊下を進んでいた。胸元が大胆に開いたその装いは、絹の光沢が肌の曲線を扇情的に浮き彫りにし、就寝用にしては、あまりにも肌を見せすぎていた。


 やがて、目的である影山の部屋の前に差し掛かった時、彼女は思わず足を止めた。


 扉の真鍮のノブに、すでに誰かの手がかけられていたのだ。

 エレノアの手もまた、導かれるように同じノブへと触れた。


「――――」

「――――」


 伸びた二人の手は触れ合わなかった。だが、至近距離で視線だけが火花を散らすように交差する。


 有栖川アリスが、そこに立っていた。


 彼女の頭には、あろうことか白い『ほっかぶり』が巻かれていた。動きやすさを重視した簡素な寝間着姿。右手にはエレノアと同じくろうそくを携え、その炎の揺らめきの中で、青い瞳が、じっとエレノアを見据えていた。


 深夜の廊下に、重たい沈黙が落ちた。


「……」

「……」


 どちらも視線を逸らさず、言葉も発しない。ただ、小さく爆ぜるろうそくの音だけが、張り詰めた空気を辛うじて繋ぎ止めていた。


 やがて有栖川が、瞬き一つせずに口を開いた。


「影山が……知らない天井の下で、寂しがってるんじゃないかと思って」

「……この時間に、ですか?」

「悪い?」


 エレノアの視線は、有栖川の顔ではなく、その頭に巻かれた白いほっかぶりへ向いていた。月光に照らされた白いほっかぶりが、異様な存在感を放っていた。


「……その格好で、お会いになるつもりだったのですか?」


 有栖川の身体が、一瞬だけ硬直した。それから弾かれたように、ほっかぶりを勢いよく引き抜いた。抑え込まれていた金髪が、夜の空気の中でさらりと鮮やかに広がる。


「……見なかったことにして」

「残念ながら、しかとこの目に焼き付けてしまいました」


 深夜の廊下に、なんとも言えない沈黙が流れた。


「あんたこそ、こんな時間に何してんのよ」

「わたくし……ですか。……影山様の体調が気になりまして」

「今の間はなによ! あんた嘘が下手過ぎなのよ!」

「わたくしはただ、影山様が慣れぬ環境で疲れているのではないかと思っただけですわ」


 有栖川の視線が、エレノアの頭からつま先までをじろりと眺める。


「そんなエロい格好で、よくもまあ『体調が心配』なんて言えたものね。むしろ体調を悪化させに来たんじゃないの!」


 エレノアはわずかに視線を逸らし、頬を朱に染めながらも毅然と返した。


「あらあら、わたくしとしたことが、就寝前の格好のまま来てしまっていたようですわ。他意はございませんのよ」

「何が他意はないよ! あんた貴族のくせに言い訳が下手なんじゃない!」

「それはお互い様ではございませんか? 剣聖様」


 有栖川が口を噤む。エレノアはそれを好機と見て、一歩踏み出した。

 翠色の瞳がそっと細められる。


「そもそも、奴隷紋を刻まれた身でありながら、夜中にこっそり主人の部屋へ忍び込もうとするなんて――感心致しませんわね。飼い犬としての立場を、お忘れではなくて?」


 有栖川の目が、獲物を狙う猛禽のように細められた。

 だが次の瞬間、彼女の口の端が挑発的に、どこか勝ち誇ったように持ち上がる。


「そうよ」


 迷いのない、むしろ誇らしげな声だった。


「影山は、あたしにえっちなことがしたくてしょうがなくて、大金を積んであたしを買ったの」


 エレノアが、絶句した。


 放った皮肉が、想定外すぎる肯定によって完全に空を切ったのだ。


「だから――あたしが会いに行くのは当然なの。それは主人である影山が望んだことであり、何より奴隷としてのあたしの務めなんだから」

「……か、影山様はそのような御方ではありません! きっと奴隷として売られている同郷のあなたを見て、哀れに思われての行動に違いありませんわ!」

「それこそあんたの勝手な想像じゃない。あいつ、あたしには気づかれてないと思っているみたいだけど、しょっちゅうあたしの胸を見てるんだから」


 有栖川は平然と言い放ち、エレノアを正面から見据え直した。


「それに、あんたが知らない頃から、あたしはずっとあいつを見てきたのよ。長いこと引きこもってた年増が、ちょっと年下の男に優しくされたくらいで、舞い上がらないで。迷惑なのよ!」

「わ、わたくしは、決して舞い上がってなどいませんわ!」


 エレノアが震える声で反論する。


「わたくしは、誰よりも影山様の価値を理解しているつもりです。あの方は、ご自分がどれほど特別か分かっていない。わたくしはそれを、この世界の誰よりも高く評価し、支える準備ができているのです」

「評価、ね」


 有栖川の声が、地を這うように低くなった。


「あんた、あいつをただの商品みたいに見てるのね」

「そんな浅薄な意味で申してはおりません」


 有栖川が、一歩だけエレノアとの距離を詰めた。


 二人の持つろうそくの炎が激しく揺れ、廊下の影が大きく揺れた。


「影山の、影山自身の価値を、本当の意味で一番知っているのは――」


 それは、空気を凍らせるような、冷たい声だった。


「――あたしよ」


 エレノアは微動だにしなかった。

 その翠色の瞳で、有栖川を真っ直ぐ見返していた。


 有栖川はそれ以上何も言わず、踵を返した。自室の扉を音もなく開き、闇の中へと消えていく。


 静まり返った廊下に、エレノアだけが取り残された。

 手に持ったろうそくの炎が、彼女の乱れた呼吸に合わせて再び揺れた。


 エレノアは長い間、影山の部屋の扉を、その閉ざされた木の質感をじっと見つめていた。

 やがて、彼女もまたゆっくりと踵を返した。


 月光に照らされた横顔には、簡単には消えそうにない感情が滲んでいた。

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