第9話 第零保管列

 地下の返却便係の床に残った泥の靴跡は、ひとつだけではなかった。


 最初に見えた一歩の先、蛍光灯の角度を変えてよく見ると、薄く続きがある。

 乾きかけた土の粒が、棚の奥へ、奥へと点々と伸びていた。


「……入ってきたんじゃなくて、出ていった跡なんですよね」


「そう見える」


 風見梓はしゃがみ込み、指先で床を軽くなぞった。すぐに鼻を寄せる。


「雨の土じゃない」


「わかるんですか」


「少なくとも今夜の外の匂いじゃない。もっと古い、倉庫の土」


 倉庫。

 その言葉に、さっき落ちてきた伝票が頭をよぎる。


 閲覧場所:中央郵便倉庫 第零保管列


 湊は反射的に、部屋の奥を見た。

 番号札つきの棚が並ぶ保管室の最深部。普段は使っていないはずの壁際へ、靴跡はまっすぐ続いている。


「追いますか」


「追う」


「即決ですね」


「向こうがわざわざ痕跡を残したなら、見つけてほしいってことか、見つけても問題ないってこと。どっちにしろ放置は悪手」


 風見はそう言うと、机の上の母の手紙と鍵束、家族写真をまとめて封筒に入れた。

 黒い封筒だけは、白い紐の中に置いたままにする。


「それ、持っていかないんですか」


「今動かす方が危ない」


「ここに置いておいて大丈夫ですか」


「大丈夫じゃない。でも、まだ部屋の方がマシ」


 湊は頷くしかなかった。


     ◇


 保管棚の奥は、普段ほとんど入らない場所だった。


 古い段ボール箱。

 宛先不明の束。

 廃棄予定のラベルプリンタ。

 その隙間を、泥の靴跡は迷いなく進んでいく。


 途中で、ふっと匂いが変わった。

 紙と埃の乾いた匂いの中に、かすかに混じるガソリンと雨具のにおい。


「……バイク」


 湊が呟くと、風見が短く頷いた。


「昔の配達員の匂い」


「わかるものなんですね」


「何年も地下にいると、嫌でも」


 靴跡は行き止まりに見える壁の前で途切れていた。


 灰色のコンクリート壁。

 配線のない蛍光灯。

 何の変哲もないはずなのに、近づくと空気が少しだけ冷たい。


「ここで消えてる」


「消えたんじゃなくて、入ったのかも」


 風見は壁を指先で叩いた。

 こん、こん、と鈍い音。

 だが端の方だけ、わずかに響きが浅い。


「隠し扉?」


「たぶん昔の搬送口」


「こんなところに」


「昔の局舎って、改築のたびに変な通路が埋められるの。

 使わなくなったからって、なくなるとは限らない」


 風見はしばらく壁を観察し、それから足元の床に目を落とした。

 泥の粒が一か所だけ、半円を描くように擦れている。


「ここ」


 彼女が壁際の古い消火器箱をずらす。

 その裏に、赤錆びた小さなレバーがあった。


「レバー……」


「郵袋搬入口の解放装置か何かね」


 風見が引く。

 がこん、と低い音がして、壁の一部がゆっくり奥へずれた。


 冷たい空気が流れ出る。


 その向こうは、細いコンクリートの通路だった。

 照明はなく、天井近くの非常灯が何個かだけ、弱い橙色を落としている。


「……ほんとにあった」


「だから言ったでしょ」


「言ってましたけど、毎回“ほんとにあるんだ”ってなるんですよ」


 風見は小さな懐中電灯を取り出して先を照らした。


「行くよ。足元気をつけて」


     ◇


 通路は下り坂になっていた。


 地上から地下。

 返却便係からさらにその下へ。

 コンクリートの壁には古い水染みが走り、所々に昭和のものらしい掲示板の跡がある。


 五分ほど歩いたあたりで、湊はようやく気づいた。


「……これ、中央郵便倉庫の方角じゃないですか」


「土地勘あるの?」


「局舎の地図を研修で見たときに。地上だと裏手の別棟の位置です」


「じゃあ繋がってる」


 やがて通路は鉄扉に突き当たった。

 古いプレートがついている。ほとんど塗装が剥げて読めないが、懐中電灯を寄せると、うっすら文字が浮かんだ。


 中央郵便倉庫 保管列B-0


「B-0……」


「零列」


 風見が息を吐く。


「ほんとにあった」


「風見さんも初めてなんですよね」


「うん。見たくなかったけど」


 扉には鍵がかかっていない。

 押すと、重い金属音を立ててゆっくり開いた。


 中は、倉庫というより、忘れられた駅のホームみたいだった。


 細長い空間。

 左右に伸びる保管棚。

 天井からぶら下がる番号札は、0-1、0-2、0-3……と並んでいる。

 どの棚にも、封筒や小包ではなく、箱とも記録簿ともつかないものが雑然と収められていた。


 そして通路の脇に、一台の古い配達バイクが停まっている。


「……これ」


 赤茶けた車体。

 郵便局のマーク。

 前カゴには雨合羽が丸めて置かれ、サイドバッグは半分開いていた。


 ついさっきまで誰かが使っていたみたいに、妙に生々しい。


「榛原さんの……?」


「たぶん」


 風見はバイクのナンバーを見る。

 眉がわずかに動いた。


「間違いない。局内管理番号、私の資料で見たやつ」


「資料、残ってたんですか」


「ほんの一部だけ」


 湊が近づくと、ハンドルに紙片が挟まっているのが見えた。

 小さく折られた、業務連絡メモ。宛名はない。


 広げる。


 風見へ

 やっと気づいたな。遅い。


「……いきなり感じ悪いな」


「榛原さんらしい」


「らしいんですか」


「会ったことはないけど、残ってたメモはだいたいこんな文体」


 メモの続きを読む。


 柊家の件は家族便だけじゃない。係の最初の引き継ぎから混ざってる。

 黒い封筒はまだ開けるな。俺が立ち会っても、たぶん一回じゃ足りない。

 零列の最後尾を見ろ。“一軒目”が残ってる。

 俺を見つけても、先に返事をするな。


 最後の一行に、二人とも黙った。


「先に返事をするな、って」


「向こうから呼ばれる可能性があるってことね」


「“俺を見つけても”って、生きてる前提みたいな書き方ですけど」


「そう見せたいだけかもしれない」


 風見はメモを畳んでポケットに入れた。


「でも最後尾へ行くしかない」


     ◇


 零列の棚は、見れば見るほどおかしかった。


 普通の郵便物はない。

 代わりに、未送信と書かれた携帯電話、差出人のない年賀状束、宛名欄だけ切り取られた婚姻届、鍵のない鍵束、開封済みなのに中身のない祝儀袋。

 どれも“届かなかったもの”の抜け殻みたいだった。


「……ここ、全部」


「返却不能の一歩手前か、そのもっと奥」


 風見の声も少し低い。


 棚の番号は進む。

 0-19。

 0-20。

 0-21。


 最後尾に近づくほど、空気が重くなる。

 歩くたびに、どこかで紙が擦れる小さな音がする。誰もいないのに、倉庫全体が呼吸しているみたいだった。


「風見さん」


「なに」


「さっきから、誰か歩いてません?」


 言った瞬間、音が止む。


 風見も足を止め、懐中電灯を横の通路へ向けた。

 誰もいない。棚の影が長く伸びているだけ。


「……いるかもしれない。でも見つけても、向こうから話すまで呼ばない」


「榛原さんだったら?」


「それでも」


 二人はまた歩き出す。


 やがて、一番奥の棚が見えた。

 0-26。

 そこだけ、他の棚と違ってラベルがない。代わりに、古い木箱が一つだけ置かれている。


 蓋つきの薄い箱。

 上面に朱色のスタンプが押されていた。


 初回誤配記録


「……一軒目」


 湊の声が掠れた。


 箱の横には、差し込まれるように一冊の薄い記録簿が立てかけてある。

 表紙には、かすれた字でこうあった。


 返却便係 初期運用記録


「係の最初からって、これか」


 風見が慎重に手を伸ばす。

 が、触れる直前で止めた。


「待って」


「なんですか」


「箱の下、見て」


 湊が懐中電灯を下げる。

 木箱の下に、白い封筒がぴたりと敷かれていた。

 わざと挟んであるみたいに。


 表には、たった一行。


 返却便係 宛


 湊の背筋が冷える。


「……家じゃなくて、係そのものに?」


「“一軒目から始まっていた”の意味、これかも」


 風見は低く言った。


「柊家の誤配は、家に来る前に、ここへ一度入ってる」


「どういうことです」


「本来なら柊家へ行くはずの便が、先に返却便係へ誤着した。

 そこで処理を間違えたか、引き継ぎを誤ったか、そのどっちか」


「そのせいで、家族の誤配が長引いた?」


「可能性は高い」


 風見は一度目を閉じ、呼吸を整えた。


「箱は私。記録簿はあなた。封筒はまだ触らない」


「分担制なんですね……」


「一人で持つと偏るって言ったでしょ」


 湊は頷き、薄い記録簿を手に取った。

 紙は湿っているわけでもないのに、ひどく冷たい。


 表紙を開く。

 最初のページに、古い万年筆の文字が並んでいた。


 返却便係 試験運用 一日目

 担当:榛原蓮司


 その下の一文に、二人とも息を呑む。


 本日、通常便への混入一件あり。配達先は柊家。担当者判断で保留。


「……担当者判断で保留」


 湊が読む。


「榛原さんが止めた?」


「少なくとも記録上は」


 次の行。


 理由:受取人名が二重記載。兄妹いずれにも読める。誤配の危険あり。


「受取人名が、二重……?」


 そこで、ページの端に何か挟まっているのに気づいた。

 小さなメモだ。


 湊が引き抜く。

 そこには後から走り書きされたような文字で、こうあった。


 保留にしたのに、翌日にはもう家のポストに入っていた。


「……勝手に配達された」


 風見の声が硬くなる。


「誰が?」


 答えは、次のページにあった。


 配達処理者:未記録


「未記録?」


「そんなのあるんですか」


「普通はない」


 風見が木箱の蓋に手をかける。


「でも“ない”ものがあるのが、この仕事」


 彼女が蓋を開ける。

 中には、古い郵袋と、その下に束ねられた数枚の伝票が入っていた。

 一番上の伝票は黄ばんでいる。

 そこに印字されていたのは、見慣れた住所だった。


 若葉市潮見台三丁目一二番地 柊家


 旧宅の住所。


 だが宛名欄には、名前が二つ重なっていた。

 まるで最初からどちらにも読めるように印字されたみたいに。


 柊 湊 様 / 柊 ひより 様


「……そんな便、あるわけ」


「本来ならない」


 風見が伝票を持ち上げる。


「でも、これは“ある”」


 そのときだった。


 倉庫の奥、二人の背後で、かつん、と靴音がした。


 硬い靴底がコンクリートを踏む、はっきりした音。


 二人同時に振り返る。


 通路の向こう、薄暗い棚の間に、人影が立っていた。


 郵便配達員の制服。

 帽子。

 雨に濡れたような暗い色の合羽。

 顔は影になって見えない。


 だが、その立ち方だけでわかった。

 家族写真に写っていた男だ。


 風見が小さく息を呑む。


 湊も思わず口を開きかけた。

 名前を呼びそうになった、その瞬間。


 人影の方が先に、低い声で言った。


「返事するなって、書いただろ」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る