第8話 前任者の写真

 写真を持つ風見梓の指先が、ほんのわずかに震えていた。


 それを見たのは、たぶん初めてだった。


「……返却便係の、前任者」


 湊は写真を覗き込む。


 色褪せた家族写真。

 父、母、幼い自分、ひより。

 その端に、偶然入り込んだような角度で立つ、郵便配達員の制服姿の男。


 若い。

 二十代後半か、せいぜい三十代に見える。

 帽子のつばの影があるのに、目元だけがやけにはっきりしていた。笑っていないのに、こちらを見ている感じがする。


「でも、おかしいですよね」


 湊は言った。


「この写真、少なくとも十年以上前のはずです。前任者がこの年齢のままって」


「そこが、おかしいの」


 風見は短く答えた。


 夕闇の中、駐車場の隅の古い郵便受けだけが取り残されている。

 家はなく、塀も玄関もない。なのに写真だけが、そこから出てきた。


「名前は?」


「……榛原 蓮司」


「はいばら、れんじ」


「私が返却便係に入る前にいた人。正式な異動記録は残ってない。

 ここに来る人は大体そうだけど、その人は特に“いなかったこと”にされるのが早かった」


「いなかったこと」


 その言い回しに、湊は少しだけ寒気を覚えた。


 ひよりの記憶と重なる。


「じゃあ、その人は今どこに?」


「わからない」


 風見は写真から目を離さない。


「失踪扱いにもなってない。辞職にも死亡にもなってない。

 ただ、ある日から返却便係に来なくなって、代わりに私が入った」


「その人が、うちの家族写真に写ってる」


「そう」


「なんで」


「それを調べるのが次の仕事」


 写真を裏返す。

 裏面には、日付もスタジオ名もなかった。代わりに、青いインクで小さく一文だけ書いてある。


 誤配は一軒目から始まっていた。


 湊の喉が詰まる。


「一軒目……」


「最初の配達先、って意味かもね」


 風見は写真を鞄へしまった。

 茶封筒、家族写真、そして見えないまま積み上がる未配達。

 全部が一本の線になり始めていた。


「戻ろう」


     ◇


 地下の返却便係に戻ったころには、外はすっかり夜になっていた。


 古い蛍光灯。

 止まった区分機。

 机の引き出しにしまわれた青いガラス玉。

 いつもと同じ場所のはずなのに、今夜は少しだけ違って見える。


 湊が入ってすぐ、机の上の黒い封筒を確認する。


 まだある。

 白い紐に囲まれたまま、静かに机の中央に置かれている。


 銀色の文字は、前と同じく立会必須。

 だが、その下に新しい一文が増えていた。


 旧担当者照会中


「……喋る封筒より嫌なんですけど」


「封筒は最初から喋ってない」


「書き換わってる時点で十分怖いです」


 風見はそれに返事をせず、茶封筒を机に置いた。


 柊 志保 様

 未投函

 家族便・二通目


「これ、今日開けるんですよね」


「開ける」


「ひよりがいなくても?」


「本当は三人がいい。けど、今は待てない」


 風見は懐中時計を机に置いた。

 止まっていた針は零時九分。

 それが今日は、最初からごくわずかに震えている。


「家族便って、何ですか」


「一つの家の中で、渡らなかったものが連鎖してる便」


「普通の返却便より厄介そうですね」


「厄介」


 即答だった。


「一人に返せば終わるわけじゃないから。

 むしろ、どの順番で返すかを間違えると、残り全部が拗れる」


「じゃあ、なんで母宛てから?」


「二通目だから」


「理由になってません」


「一通目がすでに触られてるから」


 風見が言う。


「ひよりちゃんの件で、一通目――子ども側の誤受取は一部訂正された。

 次は保護者側。たぶん、お母さんが“出せなかったもの”を確認しないと、この家の誤配は閉じない」


 そう説明されると、少しだけ理屈があるように思えた。

 少しだけだが。


「開けるよ」


 湊が頷くと、風見は茶封筒を開封した。


 中には便箋が三枚。

 それと、小さな鍵束がひとつ。

 銀色の細い鍵が三本、輪っかでまとめられている。タグには、かすれた字でこうあった。


 物置 / 台所上 / 机右


「家の鍵じゃない」


「家の中の鍵だね」


 湊は見覚えを探る。

 物置。台所上。机右。

 どこも、たしかに旧宅にあった収納の名前だ。


「便箋、読んで」


 風見に渡され、湊は一枚目を開く。


 母の字だった。

 大人の、丁寧で少し硬い筆跡。


 蓮司さんへ

 この手紙を出すべきか、まだ迷っています。

 あなたの言う“誤配”が本当なら、うちの子たちに起きていることを、ただの思い違いでは済ませられません。

 でも、郵便局の人にそんな相談をして、どう思われるでしょう。

 それでも、ひよりがポストの前で知らない名前を呼ばれた日から、家の中の時計が時々おかしいのです。

 湊は覚えていることと忘れていることの境目が変で、私も夫も、その説明がうまくできません。


 そこで手が止まった。


「……榛原蓮司さん宛てだ」


「やっぱり」


 風見が低く言う。


「お母さん、前任者に相談しようとしてたのね」


 湊は二枚目をめくる。


 正直に言うと、私はあなたを信用しきれていません。

 配達のついでに“この家は誤配の匂いがする”と言われても、何を言っているのかわからない。

 でも、ひよりが拾った白い封筒のことを、あなたは見てもいないのに知っていた。

 あれが本当に“湊くん宛て”なら、なぜ妹の名前が先に読まれたのか。

 もしそれで子どもが巻き込まれるなら、私は母親として何をすればいいのか教えてください。


 湊は息を呑んだ。


「母さん、知ってたんだ……ある程度」


「少なくとも、異常には気づいてた」


 風見は淡々と返す。


「でもこの手紙は未投函。

 つまり相談しようとして、しなかった」


 三枚目。


 そこだけ、筆圧が乱れていた。


 もしあなたが言う通り、“先に受け取った側が代わりに記録される”のなら、私は――


 そこから先が、真っ黒に塗り潰されていた。


「読めない」


「消されてる」


 墨でも修正液でもない。

 最初から文字がなかったみたいに、そこだけ紙の繊維がざらついている。


 風見が便箋を受け取り、光に透かす。

 だが当然何も見えない。


「その続きが重要だったんでしょうね」


「母さん、何を書こうとしたんですか」


「推測はできる」


「聞かせてください」


 風見は少し迷ってから言った。


「“子どもの代わりに、自分が受け取る”とか」


 湊の背中が冷えた。


「そんなこと、できるんですか」


「できる便もある。

 保護者が代理受取人になるケースは、郵便事故としては珍しくない」


「じゃあ母さんは……」


「やろうとしたか、やった」


「どっちです」


「まだわからない」


 風見は鍵束を持ち上げた。


「でも、これが入ってたってことは、お母さんは何かを家の中に“しまった”。

 未投函の相談文と一緒に、証拠か、受取物か、あるいはその両方を」


 机の上に鍵が小さく触れ合う音が響く。

 物置。台所上。机右。


「旧宅、もうないのに」


 湊が言うと、風見は黒い封筒を見た。


「家そのものはなくても、“しまった場所”が残ってることはある」


「便利なのか不便なのか……」


「不便に決まってる」


 その返しに、少しだけ空気が緩んだ。

 だがすぐに、区分機が低く唸る。


 ごう、と重い音。


「また?」


「まだ勤務中だから」


「そういう問題ですかね」


 吐出口から落ちたのは、今度は封筒ではなく、小さな伝票だった。

 レシートのような細長い紙。


 風見が拾う。

 数秒読んでから、露骨に嫌そうな顔をした。


「なんて書いてあるんです」


「……閲覧申請」


「誰の」


「榛原蓮司」


 湊が固まる。


「それって、調べられるってことですか」


「普通なら内部記録を見るだけ。

 でも返却便係で“閲覧申請”が落ちてくるときは、大体ちょっと違う」


「違うって」


「本人に会うか、本人が残した記録に触るか」


「どっちなんですか」


 風見は伝票を裏返した。

 そこに一行だけ、追記が浮かんでくる。


 閲覧場所:中央郵便倉庫 第零保管列


 湊は眉をひそめた。


「第零って何ですか。零列なんて聞いたことない」


「私も入ったことない」


「え」


「存在しない扱いの保管列だから」


「存在しない扱い、多すぎません?」


「この仕事、そういうのばっかり」


 風見は伝票と母の手紙を重ねて机に置いた。

 そのとき、引き出しの中からかすかな音がした。


 ころ、ころ、とガラスが転がるみたいな音。


「ガラス玉?」


 湊が引き出しを開ける。

 青いガラス玉は、さっきしまった位置から机の手前まで転がってきていた。誰も触っていないのに。


 その下に、小さな紙片が挟まっている。


「こんなの、さっきありました?」


「なかったはず」


 紙片には、ひらがなで短く書かれていた。


 れんじさんは まってる


 ひよりの字だった。


「……ひより」


「呼びやすくなる、って言ったでしょ」


 風見は少しだけ表情を緩めた。


「完全には来られなくても、書き置きくらいはできるみたい」


「この状況で安心していいのかわからないですけど」


「少なくとも敵ではない」


 湊は紙片をそっと持ち上げる。

 その裏に、さらに小さな一文があった。


 しゃしんの うしろ


 写真の裏。

 さっき見た家族写真だ。


 風見も気づいたらしく、鞄から取り出して裏面をもう一度見る。

 誤配は一軒目から始まっていた。

 その文のすぐ下に、光の加減でしか見えなかった細い線がある。


「炙り出しみたい……」


 湊が呟く。


 風見は机のスタンドライトを近づけた。

 じわり、と見えなかった文字が浮かび上がる。


 配達記録は零列へ。鍵は家にある。


 室内がしんと静まる。


「……繋がった」


 風見が言う。


「お母さんの鍵束、零列の閲覧、そして前任者の写真。

 全部、旧宅にしまわれた“何か”を指してる」


「でも旧宅は――」


「だから、残ってる場所を探す」


 風見は鍵束を机の上で三本に分けた。


「物置。台所上。机右。

 明日はその“家の中の残り”を探す」


 湊は頷きかけて、ふと黒い封筒へ目を向けた。


 囲っていた白い紐の一本が、いつの間にか切れている。


「風見さん」


「……見えてる」


 黒い封筒の銀文字が、また書き換わる。


 立会必須

 その下に、新しい一文。


 前任者同席推奨


「推奨って何ですか」


「来られるなら来いって意味でしょうね」


「軽いなあ……」


 だが風見は笑わなかった。


「これ、笑えない。

 前任者が必要な便なんて、少なくとも私は初めて見る」


「つまり」


「榛原蓮司は、生きてるか、記録の形で残ってるか、そのどっちか」


 地下室の温度が、少しだけ下がる。


 区分機はもう止まっている。

 なのに、どこからか遠くで、古い配達バイクのエンジン音みたいなものが聞こえた気がした。


 湊が振り返る。


 誰もいない扉の前。

 その足元に、いつの間にか泥のついた靴跡がひとつだけ残っていた。


 濡れた土の色。

 大人の男物。

 そして、その向きは――


 外から入ってきたのではなく、室内から外へ出ていく向きだった。


 風見がその跡を見て、低く呟く。


「……もう来てたのね」


 湊の喉がひどく乾く。


「誰が」


 彼女は靴跡から目を離さず、答えた。


「榛原蓮司」

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