第10話 未記録の配達人

「返事するなって、書いただろ」


 低い声だった。

 怒鳴ってはいない。けれど、反射で名前を呼び返しかけた喉が、その一言だけで止まった。


 通路の向こうに立つ人影――郵便配達員の制服、帽子、濡れた色の合羽。

 家族写真に写っていた男。

 返却便係の前任者、榛原蓮司。


 湊は無意識に一歩踏み出しかけた。

 だが風見梓が、腕を横に出してそれを制した。


「……本当にいるのね」


 風見の声は平静を装っていたが、いつもより少し低かった。


「いるさ。いなかったことにされてるだけで」


 榛原はゆっくりこちらへ歩いてくる。

 靴音ははっきりしているのに、足元には影が薄い。照明の角度のせいか、それとも別の理由かはわからない。


 距離が縮まるにつれ、顔が見えた。

 二十代後半から三十代前半くらい。家族写真のまま、ほとんど歳を取っていない。目元の疲れだけが、写真より深くなっている。


「榛原さん」


 風見が呼ぶ。

 今度は呼んでもよかったらしい。


「久しぶり、風見。……って言っても、おまえからしたら初対面みたいなものか」


「一方的にメモだけ残されてた相手を“初対面みたいなもの”で済ませるの、だいぶ乱暴ですね」


「返却便係に丁寧さを期待するな」


 そう言って、榛原はようやく湊を見た。


 真っ直ぐな視線だった。

 値踏みでも憐れみでもない。ただ確認するみたいな目。


「柊湊」


「……はい」


「俺の名前を呼ぶなよ、今はまだ」


「え?」


「おまえ、今“呼んだ方に引っ張られやすい”状態だ。

 相手が人間でも、名前から辿られる」


 湊は口を閉じた。

 この人も、風見と同じ種類のことを、少し違う言葉で言うらしい。


 榛原は視線を箱の中へ落とす。

 黄ばんだ伝票。

 二重記載された宛名。

 柊 湊 様 / 柊 ひより 様


「見つかったか」


「見つけたのはそっちでしょ」


 風見が返す。


「靴跡まで残して」


「急がないと間に合わなそうだったからな」


「何に」


「黒い封筒の開封猶予に」


 その単語が出た瞬間、倉庫の空気が少しだけ冷えた気がした。

 湊は反射的に、返却便係の机に残してきた黒い封筒を思い出す。


「榛原さん」


 思わず名前を言いそうになって、湊は言い直した。


「……前任者さん。あの黒い封筒、何なんですか」


「おまえ宛ての“訂正版”だ」


「訂正版?」


「最初に誤配された便の、本来の開封手順をやり直すための便」


 榛原は箱の中からもう一枚の伝票を抜いた。

 さっき風見が確認した二重宛名の下に、さらに薄く重なっていた別の印字があった。今まで見えていなかった文字だ。


 訂正便 / 再配達不可につき立会開封


「……見えてなかった」


 風見が低く呟く。


「見えないようになってたんだよ。

 こいつは“最初に間違えた係の中”では読めない」


「最初に間違えた係」


 湊が聞き返すと、榛原はわずかに口元を歪めた。


「返却便係だ」


 倉庫が静まる。


「柊家への一件目の誤配は、家に届く前に一回、係に引っかかってる。

 俺はそれを保留にした。受取人名が二重で危ないと判断したからだ」


「でも、翌日にはもう家のポストに入っていた」


 湊は記録簿の文をなぞるように言う。


「そうだ。俺が保留にした便を、誰かが勝手に流した」


「未記録の配達処理者」


 風見が続ける。


「それが誰なの」


 榛原は数秒黙った。

 答えた声は、さっきより少しだけ低い。


「“誰か”じゃない可能性が高い」


「は?」


「係そのものだよ」


 意味がわからなかった。

 だが風見は、すぐには否定しなかった。


「……自動補正」


「近い。

 返却便係は、人の手で運用してるように見えて、ときどき“未配達を減らす方向”に勝手に流れを作る。

 人が保留にしても、帳尻を合わせるみたいに、別の形で押し出してくることがある」


「そんなの、めちゃくちゃじゃないですか」


 湊が言うと、榛原は淡々と頷いた。


「めちゃくちゃだよ。

 だから人間が立ち会う。

 立ち会って、間違いを“これは違う”って言い続ける必要がある」


 その言い方は、まるで失敗談を語る人間の声だった。


「……言い続けられなかったんですか」


 湊がそう聞くと、榛原は視線を逸らした。


「一回だけ、目を離した」


「それが柊家」


「そうだ」


 木箱の中の郵袋が、かさ、と小さく鳴る。


 榛原はその袋を持ち上げた。

 古い灰色の郵袋。口は紐で固く閉じられている。タグには番号だけ。


 0-26-A


「これ、まだ開けてなかったんですか」


 風見の問いに、榛原は短く答える。


「俺一人じゃ開かなかった」


「前任者でも?」


「むしろ前任者だからだよ。

 最初に誤配を見た人間は、訂正便の立会人にはなれても、単独開封者にはなれない」


 湊は頭を押さえたくなった。

 ルールが多い。細かい。しかもどれも後出しだ。


「つまり、どういうことですか」


「つまり」


 榛原は郵袋を見たまま言う。


「この袋の中に、黒い封筒の“前身”が入ってる可能性が高い。

 おまえの一件目の訂正に必要な、最初の差出記録か、差出人情報か、そのどっちか」


「じゃあ開ければいいじゃないですか」


「ここで開ける」


 風見が言った。


「今、三人いる。

 前任者、現担当、新規受取人。条件としてはかなり揃ってる」


 榛原が目だけで風見を見る。


「“新規受取人”じゃない。“本来受取人”だ」


「そうね」


「あと、“誤受取人立会”が欠けてる」


 湊の胸が詰まる。


「ひより……」


「完全じゃなくてもいいかもしれない」


 榛原はそう言い、湊の胸ポケットあたりを見た。


 何も入っていないはずなのに、そこに視線を留める。


「ガラス玉、持ってないのか」


「引き出しに……返却便係の机です」


「それでいい。あれで充分繋がってる」


 風見が懐中電灯を棚に掛け、倉庫の床を少し空けた。

 木箱を横にずらし、郵袋を中央へ置く。


「ここでやるなら、簡易立会線を引く」


「またあの白い紐ですか」


「またあれ」


 風見はポケットから白い紐を取り出し、三人を囲むように円を描いた。

 倉庫の埃の上に細い線が置かれるだけ。

 だがそれだけで、外の棚の気配が少し遠のく。


 榛原は郵袋の口を見つめる。


「開いたら、まず中身の確認。

 名前が読めても、勝手に口にするな。

 差出人欄が見えても、先に反応するな。

 おまえが“ああ、そうか”と思った瞬間がいちばん危ない」


「心当たりがあるんですね」


 風見が言う。


「ある。だから今ここにいないことになってる」


 それは冗談みたいな口調だった。

 でも、冗談では済んでいない。


「開けるぞ」


 榛原が郵袋の紐を解く。


 ぎ、という乾いた音。

 袋の口がゆっくり開いて、中から出てきたのは、封筒ではなく薄い透明袋だった。証拠品を入れるようなビニール袋。中に数枚の紙が入っている。


 一番上は、配達前の仕分け票。

 その下に、半分に折られた白い便箋。

 さらに、その下に――


「写真?」


 湊が目を細める。


 小さなスナップ写真だ。

 ポストの前に立つ子ども二人。

 幼い湊と、ひより。

 夕方の、例の日らしい。二人とも制服姿で、ひよりが何か白い封筒を持っている。


「なんでこんな写真が」


「差出人添付か、現場記録か……」


 風見が言いかけたとき、榛原が手を止めた。


「動くな」


 低い声だった。


「何ですか」


「仕分け票の下」


 透明袋の中で、白い便箋の端が、ひとりでにぴくりと動いた。


 風もない。誰も触っていない。

 それなのに、紙だけが生き物みたいに震える。


 次の瞬間、透明袋の内側から、かり、と爪で引っ掻くような音がした。


「うわっ」


 湊が身を引く。

 風見はすぐに懐中時計を取り出し、蓋を開いた。


 かち、と小さく鳴る。

 止まっていた針が、零時九分から零時十分へ進む。


「……まだ増えるの」


 湊が呻く。


「進んでるうちはマシ」


 風見は短く言った。


 榛原は透明袋を押さえたまま、低く呟く。


「やっぱり生便か」


「生便?」


「まだ“終わった記録”じゃないってこと。

 昔の便に見えて、今も配達途中のまま生きてる」


「そんなのありですか」


「ありだから困ってる」


 透明袋の中の白い便箋が、ゆっくりと浮き上がった。

 袋の口は閉じているのに、紙だけが内側から表面へ張りつき、文字が透けて見えてくる。


 差出人欄。

 そこには、ぼんやりと二つの筆跡が重なっていた。


 一つは、大人の字。

 もう一つは、子どもの字。


 子どもの方は、ひよりの字に見えた。


「……差出人が二人?」


 湊が呟く。


 榛原が答える。


「たぶん“混ざった”。

 本来は別の便だったのに、ポストの前で同時に拾われたか、同時に呼ばれた」


「別の便……」


「家族便と、もっと前から流れてた係便」


 風見の声が少し硬くなる。


「だから一軒目からおかしくなった」


 透明袋の内側で、今度はスナップ写真がすっと裏返った。


 誰も触っていない。

 写真の裏に、赤いスタンプが押されている。


 配達中止


「中止?」


「俺が押した」


 榛原が言う。


「この写真を見て、家族を巻き込む確率が高いって判断した。

 でも中止にしたのに、翌日にはもう家のポストに入っていた」


「係が勝手に流した」


「そう」


 湊は透明袋の中の便箋を見た。

 その端に、幼い自分の字に似たものが見える。

 ひよりの字。

 母の字。

 いくつもの筆跡が少しずつ重なっているようで、まともに見続けると頭が痛くなる。


「これ、中を読めるんですか」


「読めるようにする」


 榛原は透明袋を円の中央へ置いた。

 風見が懐中時計を、湊は記録簿を、その左右に置く。


「おまえ、柊家旧宅の玄関を開けたときのことを思い出せるか」


 榛原が聞く。


「少しなら」


「“あとで一緒に開ける”って約束した瞬間を」


 湊は目を閉じた。


 夕立の前。

 空気が湿っている。

 ひよりが泣きそうで。

 自分は強がって、兄らしく振る舞おうとして。


「……思い出せます」


「そのまま、今の便に重ねろ。

 風見、時刻保持。

 俺が差出記録を引く」


「了解」


 風見が懐中時計の蓋に指を添える。

 榛原が透明袋の上から仕分け票を押さえる。


 そして、湊が白い便箋へ手を伸ばした、そのときだった。


 倉庫の奥の棚、0-25のあたりで、何かが崩れる音がした。


 ばん、と大きな落下音。

 三人同時に顔を上げる。


 棚の影から、白い封筒が一通、すうっと滑り出てくる。


 円の外。

 床の上を、こちらへ真っ直ぐ。


 止まった先は、湊の足元。


 表に書かれていたのは、見慣れた自分の名前ではなかった。


 柊 志保 様


 母宛てだ。


 だが、それだけではない。

 封筒の下に、もう一行、小さく追記があった。


 受取人死亡時代理開封可


 湊の血の気が引く。


「……母さんは」


 そこまで言ったところで、榛原が鋭く言った。


「まだ読むな」


 だがもう遅かった。


 封筒の裏面に、じわりと文字が浮かび上がってくる。


 柊志保は、すでに一度受け取っている。


 倉庫の照明が、一斉に落ちた。

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