第2話 返却便係のルール

 地下の返却便係には、時計が三つある。


 ひとつは壁に掛かった普通の丸時計。

 ひとつは区分機の上に置かれた、秒針のないデジタル時計。

 そしてもうひとつは、風見梓の机の奥にしまわれている、蓋つきの古い懐中時計だ。


 湊がそれに気づいたのは、妹の名前を見つけた翌朝ではなく、その直後だった。


「説明してください」


 閉じられた記録簿を前に、湊は立ったまま言った。喉が乾いているのに、紙とインクの匂いがやけに濃い。


「柊ひよりって、今ありましたよね」


「見たなら、あったんでしょうね」


「とぼけないでください。どうして妹の名前がここにあるんですか」


「妹、って認識してるのはあなただけ」


 風見は机の引き出しから懐中時計を取り出し、蓋を開いた。

 針は午前零時七分で止まっている。


「でも、その名前を見ても正気で立っていられるなら、適性はある」


「質問に答えてください」


「答えられることと、答えられないことがあるの」


 風見はようやく湊を見上げた。


「返却便係で扱うのは、手紙そのものじゃない。そこに託された“届くはずだったもの”よ。言葉だったり、気持ちだったり、決断だったり、最悪の場合は記憶そのもの」


 湊は黙った。


「未配達のまま放置されたものは、なくならない。行き場を失って澱む。そして一定量を超えると、人の時間や縁に干渉する」


「時間や縁って……」


「昨日の子は、父親の言葉を受け取れないまま、自分の中の何かを切り捨てようとしてた。あのままなら、たぶんホームから落ちた。助かっても、父親に関する記憶か感情の一部が抜けた可能性が高い」


 風見の言葉は淡々としていた。脅しではなく、事実の確認みたいな口調だった。


「それが“明日が欠ける”って意味」


「じゃあ、ひよりも……何かが届かなかったせいで」


「そこから先は、まだ仕事を覚えてから」


「まだって」


「新人に最初から自分の案件を触らせるほど、ここは優しくないの」


 風見は立ち上がると、部屋の奥の棚を開けた。番号札のついた箱がぎっしり詰まっている。その一番下の段から、薄い灰色の封筒を一通取り出した。


「次」


「次?」


「仕事よ。感情整理は業務後にして」


 封筒の表には、達筆とも殴り書きともつかない字でこう書かれていた。


 春日井珈琲店 最後の客へ


「また曖昧な宛先ですね」


「今日はまだ親切な方。店名があるだけマシ」


 湊は封を受け取りながら、つい記録簿の方へ目をやった。

 風見はその視線に気づいて、あっさり言った。


「気になるなら、続けなさい。ここで働く限り、嫌でも自分の番は来る」


 それは励ましではなく、宣告みたいだった。


     ◇


 春日井珈琲店は、若葉駅から二駅先の古い商店街の外れにあった。


 午後六時。空は曇っていたが、昨日ほどの雨気はない。

 木枠の扉、擦れた看板、ショーウィンドウに置かれた食品サンプルはどれも年季が入っていて、街の時間から少しだけ取り残されているように見える。


 店内を覗くと、客は一人だけだった。


 窓際の席に座る、五十代くらいの男。

 コーヒーには口をつけず、卓上のシュガーポットを何度も開けては閉じている。落ち着かない指先。帰る気配はないのに、長居を決めた人間の空気でもない。


 湊は扉を開けた。


 からん、と鈴が鳴る。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの内側にいた店主らしき老人が顔を上げる。白髪交じりの髪をきっちり撫でつけ、黒いベストを着ていた。


「すみません、少しお尋ねしたいことが」


「閉店まではまだ三十分あるよ」


「いえ、客じゃなくて……郵便局の者です」


 そう言って社員証代わりの臨時証を見せると、老人は目を細めた。


「郵便局?」


 窓際の男も、びくりと肩を揺らした。


 湊はすぐにわかった。

 この人だ。


 封筒の宛先は「最後の客へ」。今この店に客は一人しかいない。


「あの、こちらをお届けに」


 灰色の封筒を差し出すと、男は明らかに顔色を変えた。


「……俺に?」


「おそらく」


「誰からだ」


「差出人名はありません」


 男はしばらく受け取らなかった。逃げるように視線をそらし、やがて諦めたように手を伸ばす。


 その手の甲には、薄く古い火傷の痕があった。


 封筒の中には、小さなメモが一枚だけ入っていた。

 読み進めるにつれて、男の喉が動く。二行目で目を見開き、最後の行で、完全に息を止めた。


「お客様?」


 店主が怪訝そうに呼ぶ。

 男は立ち上がったが、椅子の脚が床を擦っただけで、言葉は出なかった。


「……マスター」


 絞り出すような声だった。


「はい」


「三年前、火事の日……俺、逃げました」


 店内の空気がぴたりと止まる。


 店主の眉がわずかに動いた。

 湊は思わず男を見た。


「厨房から煙が出たとき、俺、裏口を開けて、先に出たんです。あんたの奥さんがまだ中にいたのに。呼びもしなかった。怖くて、見捨てて……それで、そのまま二度と来なかった」


 店主は何も言わない。


「でもこの手紙……」


 男の声が震える。


「“店の砂糖壺の下に、あなたが落とした時計を預かっています。返しそびれたまま、ごめんなさい。次に来たら返します”って……そんなの、そんなの……」


 そこで、湊も気づいた。

 男がさっきから何度も開け閉めしていたのは、シュガーポットだ。


 店主はゆっくりカウンターを出ると、窓際のテーブルへ向かった。そして、いつもの掃除をするような手つきでシュガーポットを持ち上げる。


 その下から、銀色の腕時計が出てきた。


「……本当に、あった」


 男は呆然と呟いた。

 店主は時計を見下ろし、深く息を吐く。


「家内はね、火事のあと、君のことを一度も責めなかったよ」


 男の肩が揺れた。


「ただ、預かったものを返せなかったのが心残りだって、ずっと言ってた」


「俺は……」


「人は、やったことは消せない」


 店主の声は静かだった。


「でも、受け取るべきものを受け取らないままだと、そこで時間が止まることはある」


 そう言って、腕時計を男の掌に乗せる。


「閉店だよ。今日は帰りなさい」


 男は頷けなかった。ただ何度も頭を下げ、泣きそうな顔のまま店を出ていった。


 扉の鈴が鳴り、静けさが戻る。


 湊が立ち尽くしていると、店主は不意にこちらを見た。


「君、地下の子だろう」


「……え?」


「昔はたまに来ていたよ。今は風見さん一人かと思ってた」


 心臓が強く鳴った。

 店主はそれ以上何も言わず、空になったコーヒーカップを下げる。


「伝えておいてくれ。返したいものがまだあるなら、うちはもう少しだけ店を閉めないでおく」


 湊は返事も忘れて頭を下げた。


     ◇


 その夜、地下に戻ると、風見は珍しく机の上に二つ紙コップを置いていた。

 片方は湊の分らしい。


「で、どうだった」


「……届きました」


「そう」


「ここの仕事、毎回ああなんですか」


「毎回違う。だから面倒で、だから放っておけない」


 湊はぬるいコーヒーを一口飲んだ。苦い。


「春日井珈琲店の店主、地下のことを知ってました」


「知ってる人はいる。少ないけどね」


「俺、聞きたいことが山ほどあるんですけど」


「質問は三つまで」


「小学生ですか」


「夜勤明けの脳みそは、それくらいが限界」


 湊は息を吐いた。

 そして、慎重に一つ目を選ぶ。


「返却便係には、ルールがあるんですよね」


「ある」


「教えてください」


 風見は指を一本立てた。


「一つ。未来をそのまま告げない」


 二本目。


「二つ。中身を勝手に抜き変えない」


 三本目。


「三つ。差出人を無理に暴こうとしない」


「……それだけですか」


「それだけ守れない人間が多いの」


 風見はコーヒーを飲み干し、紙コップを握り潰した。


「未来を知った配達人は、たいてい人を助けたくなる。中身を読めば、自分の都合で少し書き換えたくなる。差出人を追えば、“なぜ自分は受け取れなかったのか”を責めたくなる」


「それが駄目だと」


「返却便係は、神様でも裁判官でもない。ただの配達員だから」


 その言葉だけは、妙にまっすぐだった。


 湊はしばらく黙ってから、二つ目を口にした。


「ひよりの件は、その三つのルールに関わるんですか」


「関わる」


「どれに?」


「全部」


 即答だった。


「じゃあ最後の質問です」


 湊は無意識に拳を握っていた。


「俺の妹は、生きてるんですか」


 風見は少しだけ目を伏せた。

 それから、いつも通りの温度のない声で言った。


「その質問に今答えるのは、ルール違反」


 湊が何か言い返す前に、区分機が低く唸った。


 昨日と同じだ。止まっていたはずの機械が、午前零時ちょうどにひとりでに動き出す。

 吐出口から、今度は三通まとめて封筒が落ちた。


 一通目。南口のコインロッカー、左から四番目へ

 二通目。海の見える病室の少年へ

 三通目。


 湊はその封筒を見た瞬間、背筋が冷えた。


 表には、自分の名前がはっきり書かれていた。


 柊湊 様


 差出人欄は空白。

 だが封筒の紙質だけは、見覚えがあった。

 昨日、妹の名前が記された台帳をめくったとき、指先に触れた、あの異様に冷たい紙と同じだった。


 風見の顔から、初めてわずかに表情が消える。


「……それ、今は開けないで」


「なんでですか」


「まだ、あなたの順番じゃない」


 けれど湊は、もう封に指をかけていた。

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