第3話 開封禁止

 封の端に指をかけた瞬間、風見梓の手が湊の手首を掴んだ。


 細い指だった。けれど驚くほど強い。


「開けないで」


「離してください」


「今のあなたじゃ駄目」


「俺宛てなんでしょう」


「だから駄目なの」


 風見の声は低かった。怒っているというより、切迫していた。

 湊は思わず動きを止める。


 その隙に、風見は封筒を奪おうとした。

 湊は反射的に半歩引く。


「それ、取り上げるつもりですか」


「預かるだけ。少なくとも今夜は」


「信用できません」


「当然ね」


 風見は掴んだ手首を離した。

 けれど視線だけは封筒から動かさない。


「じゃあ、説明する。返却便には順番がある。受け取る側の準備ができていない状態で無理に開封すると、内容が“届く”んじゃなくて“流れ込む”」


「何が違うんです」


「受け止めきれないってこと」


 湊は封筒を持つ手に力を入れた。紙が異様に冷たい。

 まるで氷の板を素手で握っているみたいだった。


「俺は知りたいんです。ひよりのことも、この仕事のことも、全部」


「知ることと、耐えられることは別」


「その判断をするのは、風見さんですか」


「違う。封筒が決める」


 意味のわからない答えだった。

 だがそのとき、湊の指先がびり、と痺れた。


 封の隙間から、冷気のようなものが漏れた気がした。

 同時に、視界の端に何かがよぎる。


 赤いランドセル。

 夏の夕暮れ。

 住宅街の角を曲がって、振り返る小さな女の子。


 ――お兄ちゃん、ちゃんと受け取ってよ。


「っ……」


 息が詰まる。

 脳の奥に直接、知らないはずの声が触れた。


 次の瞬間、風見が懐中時計を開いた。

 かち、と小さな音がして、室内の空気が一気に重くなる。


 視界が元に戻った。


「……今の、何ですか」


「前触れ」


 風見は懐中時計を閉じ、はじめて少しだけ険しい顔をした。


「だから言った。まだ早いって」


 湊は返事ができなかった。

 たった一瞬だったはずなのに、胸の奥に鈍い痛みが残っている。


「預けて」


「嫌です」


「なら持ってていい。でも、今夜は開封しない。約束して」


「約束なんて――」


「しないなら、あなたを帰さない」


 静かな声だった。

 冗談ではないとわかった。


 湊はしばらく黙り込み、それから封筒を胸ポケットの奥へ押し込んだ。


「……今夜だけです」


「十分」


 風見は短く息を吐くと、残る二通を持ち上げた。


「で、仕事。感傷に浸る暇はない」


「こんな状態で?」


「こういう状態の夜ほど、変な便が来る」


 彼女は二通のうち一通を湊に差し出した。

 表書きはこうだ。


 南口のコインロッカー、左から四番目へ


「宛先が場所になってる」


「受取人じゃなくて、返却先がそこなんでしょ」


「返却先?」


「今回のは、人に渡す手紙じゃない可能性が高い」


 湊は眉をひそめた。


「そんなことあるんですか」


「ある。手紙だけが未配達とは限らない」


     ◇


 若葉駅南口のコインロッカーは、終電後の人気が引いた通路の奥にあった。


 時計は午後十一時四十分。

 売店のシャッターは半分降り、床の光沢だけがやけに冷たい。

 左から四番目のロッカーの前で、湊は封筒を見下ろした。


「で、どうするんです」


「まず開ける」


「俺宛てのは止めたのに、これはいいんですね」


「配達物だから」


 風見は容赦なく封を切った。

 中から出てきたのは、便箋ではなく、小さなロッカーの鍵だった。古い真鍮製で、青いプラスチック札に47と書かれている。


 もう一枚、細長い紙片が入っていた。


 返してください。中身ではなく、預けた時間を。


「ますます意味がわからない」


「私も半分くらいしかわかってない」


「半分はわかるんですね」


「経験則で」


 風見は鍵をロッカーの鍵穴に差し込んだ。

 がちゃり、と重い音がして扉が開く。


 中には、何も入っていなかった。

 ただ、奥の壁に古い映画の半券が一枚、立てかけるように置かれている。


 日付は五年前。

 上映作品名は擦れて読めない。


「空っぽじゃないですか」


「たぶん、空っぽなのが問題」


 風見は半券をつまみ上げた。

 すると、すぐ背後で足音がした。


 二人同時に振り向く。


 通路の向こうから、スーツ姿の男が早足で近づいてきていた。四十代前半くらい。額に汗を浮かべ、何かに追われるような目をしている。


「……開いてる」


 男はロッカーを見るなり立ち止まった。


「やっと開いた……」


「あなた、このロッカーに心当たりが?」


 風見が問うと、男は警戒するように二人を見た。

 だが湊の持つ郵便局のバッグを見て、少しだけ顔色を変える。


「郵便局……? いや、そんなはず……」


「五年前、ここに何を預けましたか」


 風見の口調は事務的だった。

 男は唇を噛み、それから観念したように言った。


「指輪です」


 湊は目を瞬く。


「婚約指輪。渡すつもりで買った。でも、渡せなかった」


 男は開いたロッカーの中を覗き込み、空なのを見て、ひどく困ったように笑った。


「そうか……やっぱり、もうないか」


「相手の方は?」


「結婚したよ。別の人と」


 男は言った。声は平坦だったが、それがかえって諦めの深さを感じさせた。


「当たり前だ。俺が逃げたんだから。転勤の辞令が出て、プロポーズして、断られるのが怖くなって、それで……駅で渡すつもりだった指輪を、このロッカーに突っ込んだまま、何も言わずに街を出た」


 風見は半券を男に見せた。


「これは?」


「映画の半券です。渡す前に、一緒に観る約束をしてた。結局それも、行かなかった」


 湊はロッカーの中をもう一度見た。

 本当に何もない。指輪も箱も残っていない。


「でも、じゃあ何を返すんです」


 男は力なく首を振った。


「今さら返せるものなんてない」


「あるよ」


 風見が言った。


「あなたが預けたのは指輪だけじゃない。このロッカーに置き去りにしたままなのは、“断られるかもしれなくても、渡すはずだった時間”」


 男は呆然と彼女を見た。


「半券は、たぶんその印」


 風見は半券をロッカーの中へ戻した。

 そして湊に顎で合図する。


「閉めて」


「え?」


「いいから」


 湊は半信半疑のまま扉を閉めた。

 がちゃん、と音がして鍵が戻る。


「もう一回開ける」


 言われるまま鍵を回す。

 すると今度は、ロッカーの奥に小さな箱が置かれていた。


「な……」


 男が息を呑む。


 濃紺のリングケース。

 まるで最初からそこにあったように、静かに収まっている。


 男は震える手でケースを開いた。

 中には細い銀の指輪が一つ。年月を経ているはずなのに、きれいなままだった。


「どうして……」


「返却便は、失われた物を創るわけじゃない」


 風見は言った。


「置き去りにされたまま止まっていたものを、持ち主の時間に返すだけ」


 男はしばらく指輪を見つめていた。

 やがて小さく笑い、ぽつりと呟く。


「渡せなかったなあ……結局」


「今から渡しに行くの?」


 湊が思わず口を挟むと、男は首を横に振った。


「いや。もう相手の人生に割り込む気はないよ」


 その言葉に、どこか救われたような響きがあった。


「でも、これでやっと、あの夜を“渡せなかった夜”として終わらせられる」


 男は深く頭を下げた。


「……ありがとう。誰に言えばいいのかわからないけど」


「返却便係まで」


 風見が事務的に答える。

 男は苦笑して、指輪のケースをポケットにしまい、人の流れの消えた改札へと去っていった。


 その背中が見えなくなってから、湊はようやく息を吐いた。


「なんですか、今の」


「だから仕事」


「ロッカー閉めて開けたら指輪が出てくる仕事、普通じゃないでしょう」


「ここで普通を求める方が無理」


 風見はそう言って鍵を封筒に戻した。

 次の瞬間、真鍮の鍵は砂みたいに崩れて消えた。


「……消えた」


「返却済みだから」


 それを当然のように言われても、当然には見えない。


「これ、毎回慣れるんですか」


「慣れたら終わり」


 風見は歩き出した。

 湊も慌ててそのあとを追う。


     ◇


 駅前から地下道へ降りる途中、湊はようやく気になっていたことを口にした。


「さっきの人、どうしてあのロッカーに来たんでしょう」


「呼ばれたのよ」


「誰に」


「置いてきた自分に」


 風見は振り返らないまま答えた。


「返却便の夜は、ときどき関係者の足が勝手に向く。本人は偶然だと思う。たいていは“なんとなく気になって”来るだけ。そういう形でしか、受け取れない人もいるから」


「俺も……そうなんですかね」


「何が」


「ここに来たの」


 風見の足が、ほんの一拍だけ止まった。


「さあ」


 結局、それ以上は何も言わなかった。


     ◇


 地下の返却便係に戻ると、時計は午前一時を回っていた。


 蛍光灯の下、古い区分機は沈黙している。

 けれど室内の空気は妙に張っていて、まだ仕事が終わっていないことだけはわかった。


 机の上には、残る一通。

 海の見える病室の少年へ


 風見がそれを手に取ろうとしたとき、湊の胸ポケットの奥で冷たさが強まった。


 自分宛ての封筒だ。


「……まただ」


「出して」


「今は開けるなって言ったの、風見さんですよ」


「開けない。確認するだけ」


 湊が封筒を取り出す。

 さっきよりもはっきりと、紙の表面に霜のような白い模様が浮かんでいた。


「こんな封筒、見たことない」


 風見は小さく舌打ちした。


「最悪」


「何がですか」


「急いだ方がいいってこと。あなたの便、待ってくれなくなってる」


「待ってくれない?」


「本来は本人の順番が来るまで保留できる。でも、外から干渉が入ると別」


 湊の背中が冷えた。


「外って」


 風見は答えず、記録簿を開いた。

 何ページかめくったところで、その手が止まる。


「……おかしい」


「何が」


「柊ひよりの欄、昨日と記述が違う」


 湊は反射的に机へ身を乗り出した。

 赤インクの文字は、確かに前夜とは変わっていた。


 昨日は、返却不能継続中。

 今夜は、その下に新しい一文が増えている。


 受取人側、開封準備中


「受取人って……俺?」


「たぶん」


「準備中ってなんですか」


「向こうが、あなたに届ける準備を始めたってこと」


 向こう。

 届かなかったものが溜まる場所。

 そう呼ばれた得体の知れない何かが、今、自分に向かっている。


 区分機が、何の前触れもなく起動した。


 ごう、と低い駆動音。

 吐出口から、見たことのない黒い封筒が落ちる。


 風見の顔色が変わった。


「触らないで」


 言われるより早く、封筒はひとりでに机の上を滑った。

 止まった先は、湊の目の前。


 表には差出人も宛先もない。

 ただ一言だけ、銀色の文字が浮かんでいた。


 開封許可


 室内の温度が、音もなく下がっていく。


「風見さん」


「だめ」


「でも――」


「それを開けたら、次の配達先はたぶん“病室の少年”じゃなくなる」


「どういう意味ですか」


 風見はゆっくり、記録簿の別のページを湊へ向けた。


 そこに載っていたのは、今夜の三通目の一覧。

 本来、自分宛ての封筒の記録があるはずの欄だ。


 だが記録番号の横に書かれていた配達先は、もうこうなっていた。


 柊湊 様


 受取人欄ではない。

 配達先欄に、自分の名前がある。


 湊が息を呑む。


 風見は低い声で言った。


「あなた、自分宛ての便じゃない。もう“回収対象”に切り替わり始めてる」

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