午前零時の返却便

フロントナンバー

第1話 宛先のない手紙

 午前零時ちょうど、止まっていたはずの区分機が動き出した。


 地下の返却不能郵便保管室に響くのは、古い機械が無理やり息を吹き返したみたいな、濁った駆動音だった。

 柊湊は仕分け棚の前で手を止め、蛍光灯の白すぎる光の下、ゆっくりと振り向いた。


「……停電でもないのに、勝手に動くなよ」


 今日が夜勤バイト初日。

 案内されたのは本局の窓口でも配達課でもなく、地上の職員ですら存在を知らないような地下の一室だった。扉のプレートには、かすれた字でこう書かれている。


 返却便係


 ここに回ってくるのは、宛先不明、転居先不明、受取拒否、保管期限切れ。

 本来なら「届かなかった」で終わる郵便物ばかりだと、昼間に総務の職員は言った。

 それにしては、妙に口ごもっていたが。


 区分機の吐出口から、青い封筒が一通だけ滑り落ちた。


 湊は眉をひそめて拾い上げる。切手はない。消印もない。差出人の名前もない。

 表に書かれている宛先は、住所ですらなかった。


 若葉駅 三番線の彼女へ


「なんだこれ」


 いたずらかと思った。けれど封筒はひどく冷たく、紙のくせに、雨に打たれた金属みたいな感触があった。


 裏返した瞬間、背後で声がした。


「開けて」


 驚いて振り向くと、そこに黒いスーツ姿の女が立っていた。

 長い髪を低い位置でひとつに結び、眠たそうな目つきのまま壁にもたれている。昼間、引き継ぎで名前だけ聞いた上司だ。


「風見さん……脅かさないでください」


「脅かしてない。あなたが気づかなかっただけ」


 風見梓は欠伸を噛み殺しながら顎で封筒を示した。


「それ、今日からあなたの仕事だから」


「返却不能便の整理じゃなくて?」


「整理だけで夜中に一人増やすわけないでしょ」


 言い方は雑だったが、声には妙な真剣さがあった。

 湊は封を切った。中には便箋が一枚だけ入っている。


 書かれていたのは、たった二行だった。


 午後五時二十分、花村紗季は落ちる。

 返してください。


「は?」


 意味がわからず見返す。

 便箋の下から、もう一枚、小さな白封筒が滑り落ちた。こちらには宛名がある。


 花村紗季 様


「こっちが本物の手紙?」


「半年前に差出人不明で戻ってきたもの。住所不備。再配達不能。普通なら保管して終わり。でも、ときどき向こうから催促が来るの」


「向こうって、どこですか」


 風見は少しだけ考える顔をして、それから面倒そうに言った。


「届かなかったものが溜まる場所」


 説明になっていない。

 だが彼女はそれ以上言わず、湊から白い封筒を取り上げ、中身を確認した。


「……父親からだね。生きてるうちに渡せなかったやつ」


「午後五時二十分に落ちるって、事故の予告ですか」


「たぶんね」


「たぶんって」


「絶対なんて、この仕事にないから」


 風見は便箋を畳み直し、湊の胸ポケットに差し込んだ。


「明日の夕方までに、その子に渡して。方法は問わない。でも、未来をそのまま喋るのは駄目。受け取るべきものを、受け取るべき形で返す。それがルール」


「いや、ちょっと待ってください。個人情報も何も――」


「台帳に載ってる」


 彼女は古びた記録簿を開いた。

 そこには確かに、花村紗季 十七歳、旧住所、転送履歴、保管番号が並んでいた。最後の欄だけ、赤いインクでこう書かれている。


 返却猶予:明日 17:20


「……本気なんですか」


「こっちはいつも本気」


 風見はそう言って、部屋の時計を見た。秒針の音だけがやけに大きい。


「失敗したら?」


「今回はたぶん、落ちるだけで済まない」


「“だけ”って言い方やめてもらえます?」


「じゃあ、ちゃんと言う。失敗したら、その子の明日が一部欠ける」


「明日が……欠ける?」


「死ぬこともあるし、生き残っても、何かが戻らないままになることもある」


 風見はそれだけ告げると、保管室の照明を一列消した。

 急に部屋が広く、寒く感じた。


「帰って寝て。明日は配達日和じゃないから、早めに動いた方がいい」


「配達日和じゃない?」


「雨。届かないものは、だいたい雨の日に増える」


 その言葉どおり、翌日の夕方、若葉駅には重たい雨雲が垂れ込めていた。


 花村紗季はすぐに見つかった。

 制服姿で、三番線の端。誰とも話さず、黄色い線のすぐ内側に立っている。スマホの画面は割れていて、何度も何度も、同じメッセージ画面を開いては閉じていた。


 湊は息を整え、ゆっくり近づく。


「あの、花村さん?」


 少女は振り向く。目の下に薄い隈があった。


「誰ですか」


「郵便局の者です。あなた宛ての手紙を、お届けに来ました」


「今さら?」


 刺すような声だった。

 それでも湊は封筒を差し出した。


「今さらでも、今日じゃないと駄目だったみたいです」


 少女は怪訝そうに受け取り、差出人欄を見た瞬間、表情を止めた。

 指先が震える。


「……うそ」


 封を切り、便箋を読む。

 たった数行。けれど読み終える前に、彼女の目から涙が落ちた。


「これ……お父さんの字……」


 ホームに電車の接近音が響く。

 風圧が先に来る。少女の足が、ほんの少し前に滑った。


 反射的に湊は腕を掴んだ。


「危ない!」


 次の瞬間、銀色の車体が轟音とともに通過する。

 花村紗季のスカートの裾が大きく煽られ、彼女はその場にしゃがみ込んだ。


 手紙を胸に抱えたまま、泣きながら、何度も首を振る。


「私、昨日、消そうとしたんです。お父さんの連絡先も、写真も、全部……もう思い出したくなくて。でも、ほんとは……」


 湊は何も言わなかった。

 言えることなど、たぶん最初からなかった。


 ただ、届くべきだったものが、ぎりぎり間に合った。

 それだけはわかった。


 その夜。

 地下の返却便係に戻ると、風見は湯気の消えた紙コップを片手に言った。


「顔見ればわかる。間に合ったみたいね」


「……あの手紙、父親はもう亡くなってるそうです」


「そう」


「そう、って」


「届かなかったものに、生死はあまり関係ないから」


 風見は記録簿を開き、花村紗季の欄に黒インクで一線を引いた。

 返却済


 それで終わりのはずだった。


 だが、ぱらりと勝手にページがめくれた。


 湊はその名前を見て、息を止めた。


 柊ひより


 見覚えのある、いや、忘れたくても忘れられない字面だった。

 自分の妹の名前だ。

 けれど家族も役所の記録も、誰一人としてそんな人物は知らないと言った。湊の記憶にだけ残っている、消えた名前。


 その欄の右端には、赤いインクでこう書かれていた。


 返却不能継続中


「どうして……」


 声がうまく出なかった。

 風見梓は記録簿を閉じず、静かに湊を見た。


「だから言ったでしょ」


 彼女の眠たげな目だけが、妙にはっきりしていた。


「ここは、届かなかったものの最後の窓口だって」

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