ラウンドランドリー
彼女がこの部屋に転がり込んでからドミトリーの空気は特異な変化を遂げていた。
容赦なく熱を奪っていく古いクーラーの冷気の中に、カビ臭さと一緒に甘い匂いが混じって滞留しているのだ。そこに数日分の汗の匂いが微かにブレンドされている。
対角線上にあるベッドに目を向けると、彼女は行き倒れていたあの夜からずっと着の身着のままでいる。特区の熱気に当てられて高熱を出し、大量の汗をかいたはずなのに、ヨレヨレのTシャツとチノパンは一度も洗濯されていない。
すっかり慣れたはずの僕の鼻でも、この濃密すぎる芳香は脳の処理能力を狂わせる。それ以上に気にかかるのはこの不衛生な状態で身を縮めている彼女自身の居心地の悪さだった。
僕は軋むベッドから身を起こし、リリーのベッドへ近づいた。自然と手が鼻の周りに触れてしまっている。気配に気づいたのか、シーツの隙間から長い前髪に被された深い緑色の目がこちらを見下ろす。その視線にはまるで野良猫のような怯えが混じっていた。
「リリー。体調はどう?」
なるべく威圧感を与えないよう、僕は少し距離を置いて声をかけた。
「……はい。おかげさまで、熱はすっかり下がりました」
「そっか。良かった」
少しの間を置いて、僕は慎重に言葉を選ぶ。
「あのさ。もし良かったらなんだけど、服、着替えないか?」
リリーの肩がビクッと跳ねた。彼女は身をすくませ、シーツを口元まで強く引き上げる。その瞳がみるみるうちに潤み、そして顔中が真っ赤に染まっていった。
「あ……っ、わ、私……その、ヤな匂いが、しますか……?」
消え入りそうな声で、彼女はシーツに顔を埋めるようにして俯いた。
しまった、と思った。言い方が悪かった。彼女のように育ちの良さそうな女の子にとって、自分の体臭や不衛生さを指摘されるのはどれほどの羞恥だろうか。
「いや、そんなことはないよ。良い匂いだよ。……あっやばい語弊。いや、あのね、違うんだ」
僕は慌てて両手を振り、早口で弁解した。サキュバスに向かって『良い匂いがする』なんて、下手なセクハラか最悪の場合は欲情していると勘違いされかねない。
「ただ、さっぱりした方がリリー自身もよく眠れると思ってさ。ずっと汗かいたままだと、気持ち悪いだろ?」
僕が懸命に取り繕うとリリーは恐る恐る顔を上げた。その頬はまだ熱を帯びているようだったが、僕の言葉の裏にある気遣いを汲み取ってくれたのか小さく、本当に小さく頷いた。
「……でも、私、着替えなんて持っていなくて」
「ああそうか。良かったらこれ、使って」
僕は自分のクローゼット代わりになっているバックパックから洗いざらしのシャツを引っ張り出した。熱帯の強い日差しと質の悪い水で何度も洗われたせいで少しクタびれているが、洗剤の匂いがする清潔なものだ。
「僕の服で悪いけど、乾くまでの間だけ我慢してくれ。廊下に出てるから、ゆっくり着替えていいよ」
僕は彼女の隣にシャツを置き、それ以上は何も言わずに部屋のドアを開けて抜け出す。
一線を引くための、せめてもの誠意だった。背後でリリーが小さく「ありがとうございます」と呟くのが聞こえた。
廊下に出るとクーラーの冷気は全く届いておらず、生暖かい空気が肺を満たした。
壁に寄りかかってスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていると、数分ほどして控えめなノックの音とともにドアが内側から開いた。
「……お待たせしました」
そこに立っていたのは僕のオーバーサイズのシャツを身に纏ったリリーだった。
Tシャツは彼女の華奢な肩からずり落ちそうになっており、大きく開いた襟元からは危うく胸元が覗いている。袖は指先まですっぽりと隠れるほど長く、裾は太ももの半ばまで達していた。下には何も穿いていないのか、スラリと伸びた傷一つない脚が露わになっている。
そして、相変わらず魔族であることを表明する器官がシャツの背中から不器用に顔を出していた。そこはめくり上がってしまっていて、尻尾持ち用の服には遠く及ばない縫製の雑さを再認識させられた。
あくまでも計算されたものではない。ただの実用性から生まれた必然的な光景でしかない。だが、それがかえって彼女の隠しきれないプロポーションを強調し、言葉にできない破壊力を生み出していた。
僕は少しだけ眩暈を覚え、慌てて視線を彼女が両手で抱えている衣服の塊へと逸らした。
「貸して。下で洗ってくる」
僕が手を伸ばして受け取ろうとすると、リリーは首を横に振った。
「私も、行きます。ずっと部屋にこもっているのも、その……息が詰まるので」
怯えた野良猫のようだった彼女が初めて外に出る意思を見せた。僕は少し驚いたが、すぐに頷いた。
「分かった。じゃあ、こっちだ」
僕は彼女に洗濯物を持たせたまま先を歩き始めた。
この辺りを根城にする長期滞在者たちの間で洗濯の手段といえばキロ・ランドリーが一般的だ。重量に応じて課金され、当日の朝に出せば夕方には洗濯表示を無視された無残な姿で帰ってくる。ニュート・カフェにも出入りの業者がいるから彼らに頼めばいい。
しかし、サキュバスの体臭が染み付いた服を不特定多数が出入りする地元の業者に出すのはリスクが高すぎると思った。
僕たちは一階に下りてそのままカフェ・バーを抜け、薄暗い廊下のさらに奥へと向かった。
そこには従業員以外立ち入り禁止と乱雑に手書きされたかすれたプレートが掛かった、重い鉄の扉がある。宿泊客は原則として立ち入り禁止の裏庭への入り口だ。
僕が扉を押し開けると、カルキのツンとした匂いと共に湿り気を帯びた熱気が押し寄せてきた。
ニュート・カフェの裏庭は周囲を高いコンクリートの壁に囲まれているため、昼下がりであってもひどく薄暗い。だが、その空間は決して殺風景ではなかった。
中央には安宿には到底不釣り合いな青いタイル張りの美しいプールが存在する。そしてプールの周囲には鬱蒼とした熱帯の植物、巨大な葉を広げるモンステラや壁を這うシダ類が所狭しと繁茂していた。
薄暗い裏庭でそれらの植物の生育を促しているのは壁のあちこちに設置された紫色のLEDライトだった。赤と青の波長を組み合わせた農業用の育成ライトが不気味でサイバーなイルミネーションとなって、水面と植物の葉を妖しく照らし出している。
あれは以前、オーナーに頼まれて僕がシズの薬局経由で調達したものだ。その際、シズからは犯罪ではなくなった植物の自家栽培だと完全に誤解されたままになっている。今度ちゃんと訂正しておきたい。
紫色の光に照らされた水面の中央にはピンク色のフラミンゴの形をした派手な浮き輪がぽっかりと浮かんでいた。
その上で、この宿のオーナーが仰向けになり、午後の昼寝を満喫している。
彼女は相変わらず、肌にぴったりと張り付く肩紐が太い紺色の水着姿だった。黒髪に散る赤い斑点が、紫色のライトの下ではより鮮明に見える。際限ない水の供給がある今はねっとりと光の乱反射を受けて肌がテカっていた。
プールサイドの隅に置かれ続けたが為に錆びついた二槽式の洗濯機へと足を進め、ガチャンと重い蓋を開ける音を響かせる。
その瞬間、水面に浮かんでいたオーナーがゆっくりと目を開けた。吸い込まれそうな赤い瞳が真っ直ぐに僕を射抜く。
「……ルール違反よ」
気怠く、感情の読めない平坦な声が水の上を滑ってきた。
「宿泊客は裏庭に出入り禁止だって知ってるでしょ」
「起こしたか。悪いな」
僕はどうにかかわそうとする。リリーに促して服を洗濯槽に入れてもらった。リリーは僕の背中に隠れるようにして、紫色の光に照らされたオーナーを恐る恐る見つめている。
「どうしても今すぐ洗いたいものがあってね。キロ・ランドリーに出すには、ちょっと具合が悪い代物なんだ」
オーナーはフラミンゴの浮き輪の上で身をよじり、僕の背後にいるリリーへ視線を固定した。
「……ああ、やっぱ世話見てくれてんのね」
彼女の嗅覚は人間よりもはるかに鋭い。洗濯機の中の服から漂う甘い匂いを、すでに察知しているのだろう。
「オーナーが『適当によろしく頼む』って言ったんだろ。言われたからやってるだけだよ」
「お節介ね」
オーナーは呆れたように、パシャリと水面を叩いた。
「まあいいわ。長期宿泊の特典ってことで、特別にいても良いことにしてあげる。でも、絶対にプールには入らないでよ。ここはアタシのお休みの聖域なんだから」
「分かってるよ。今度は水着で来るよ」
僕は備え付けの粉末洗剤を多めに計り入れ、洗濯機のダイヤルを回した。
ガコン、ガコン、と這いつくばるみたいな重苦しいモーター音が響き始め、洗濯槽の中で水と洗剤が混ざり合っていく。
僕はプールサイドに置かれたプラスチックのベンチを指差し、リリーに座るよう促した。彼女はこくりと頷き、僕のシャツの裾を気にしながら、ちょこんと腰を下ろした。
「ここで待ってて。少し飲み物を作ってくる」
「あ……はい」
僕は裏庭から続く従業員用の勝手口を抜けて、一階の厨房へと向かった。昼下がりのカフェ・バーは閑散としており、客がいないことを良いことにゴーレムのロカはカウンターの隅でスリープモードに入っていた。
僕は戸棚をごそごそと漁り、目当ての茶葉を見つけ出した。特区の市場で缶入りでよく売られている、強烈なバニラの香料で着香された紅茶だ。そのまま淹れると香りがキツすぎて頭が痛くなるくらいで、牛乳で割るかレモンを入れて飲む前提だ。
小鍋に湯を沸かし、茶葉を多めに放り込んで濃く煮出す。真っ黒に近い色になったところで火を止め、たっぷりのコンデンスミルクを注ぎ込んだ。煙が上がるように一気に液面が白濁し、へばり付くみたいな甘い香りが立ち上る。
次に冷蔵庫の奥にタッパーに入れて保存してあった、茹で置きのブラックタピオカを取り出す。これも特区の屋台では定番の食材だが、ただ茹でただけでは中心が硬く、味気ない。僕は別の小鍋に黒糖と少量の水を煮溶かし、そこにタピオカを放り込んで表面に照りが出るまで絡めた。やり過ぎるとそのまま溶けてしまうので素早く手短に済ませる。
大きめのグラスに温かい黒糖タピオカを入れ、その上から氷をたっぷり詰める。重ねるように茶こしで茶葉を除去しながら煮出したミルクティーを注ぐ。氷が溶けてカランと心地よい音を立て、液体が綺麗な層を描いた。
そして少しだけ工夫する。
スパイスの棚からナツメグのホールを取り出し、おろし金でほんの少しだけグラスの液面に削り落とした。
バニラの甘ったるい香りとコンデンスミルクの重い風味、そこにナツメグの持つウッディで少しほろ苦い香りが加わる。過剰な甘さを殺さずに、輪郭をくっきりとさせるための隠し味だ。
グラスを三つお盆に乗せて太いストローを添え、僕は再び裏庭へと戻った。洗濯機はまだ回り続けている。
紫色の育成ライトに照らされたベンチで、リリーは膝を抱えるようにして座っていた。抜けるように白い肌と、ブカブカのシャツが、幻惑的な光の中でひどく幻想的に浮かび上がっている。
「お待たせしました」
僕がグラスを差し出すと、彼女は目を丸くしながらも恐る恐るそれを受け取った。
「これ……タピオカミルクティー?」
「正解。まあありきたりだよね。オーナーも、どうぞ」
僕は彼女の隣に腰掛け、太いストローでミルクティーを啜った。黒糖のコクとバニラの香り、そしてナツメグの微かな刺激が、渇いた喉を心地よく潤していく。
リリーはグラスの中の黒い粒を不思議そうに見つめた後、ストローに口をつけた。
ちゅっ、と小さな音を立てて吸い込む。タピオカがストローを通り抜ける感触に少し目を瞬かせた後、彼女はゆっくりと咀嚼を始めた。
途端に、彼女の表情がパッと明るくなった。
「……美味しい。すごく、甘くて……でも、しつこくないです」
「茶葉にバニラの着香がされてるから普通に飲むと甘ったるいんだ。だから上に少しだけナツメグを削ってる。香りを締めるためにね」
僕が説明すると、リリーは感心したようにグラスに鼻を近づけた。
「ナツメグ……だから前飲んだものとはまた違うんですね」
「それで……あ、リリーのいた場所にもタピオカ屋があったのか」
「大学内のカフェで、ご友人たちと」
ぽつりとこぼれ落ちたその言葉に、僕はストローから口を離した。
「大学?」
「あ……」
リリーはハッとしたように口を噤み、グラスを両手で強く握りしめた。これ以上は語るべきではないと、自分にブレーキをかけているのが丸わかりだった。
サキュバスの少女が大学に通っていた。それだけでも彼女がこの特区のスラムや生々しい歓楽街の出身ではないという推測を裏付けるには十分すぎる情報だった。高等教育を受け、優雅にカフェでタピオカミルクティーを嗜んでいた少女が、なぜこんなきな臭い安宿へ逃げ込んできたのか。
だが、僕はそれ以上踏み込むつもりはなかった。無理に暴き立てるような無粋な真似はこの街の流儀に反する。
「そうか。どこの大学の近くにも、こういう甘いものを出す店はあるもんだね。僕はキャンパスライフってヤツを知らないけど」
僕があえて話を広げず、何事もなかったかのように紫色の水面へ視線を向けると、リリーはホッとしたように小さく息を吐いた。
プールの水音と、遠くから聞こえるクラクションの音と、背後で回り続ける洗濯機の規則的なモーター音が三者三様にリズムを重ね合わせては離れていく。
リリーの着ている僕のシャツからは彼女自身の甘い体臭がふわりと漂ってきた。だが、先ほどまでの刺さるような不快感はなかった。むしろ、冷たいミルクティーの香りと混ざり合い、この気怠い午後の時間にひどく馴染んでいるように感じられた。
「……あの、ヨウさん」
タピオカを咀嚼しながら、リリーが不意に口を開いた。少しだけ恥じらいを含んだ、柔らかい声だった。
「ん?」
「この服……やっぱり、少し大きすぎますね。袖が余ってしまって」
彼女は自分の太ももの半ばまであるシャツの裾を引っ張り、困ったように、けれどどこか嬉しそうに眉を下げた。襟元から、相変わらず無防備な白い肌が覗いている。
「だよね。でもここの天気ならすぐ乾くよ」
僕は残りのミルクティーを一気に飲み干した。氷の溶ける音が静かな裏庭にカランと響く。洗濯機が止まるまで、あと十五分はかかるみたいだった。
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