ナイトマーケットの相似形
特区の空が、毒々しい赤紫色から深い藍色へと沈んでいく。
ニュート・カフェの裏庭を照らしていた太陽光が完全に失われると、壁に設置された農業用のLEDライトが放つ紫色の光が、より一層明瞭で刺々しい陰影を植物の葉に落とし始めた。プールの水面は妖しい蛍光色を反射し、水上でまどろむオーナーの姿を非現実的な絵画のように浮かび上がらせている。オーナーが飲み干したグラスはプールサイドに着岸していた。
僕は錆びたベンチに深く腰掛け、すっかり氷まで溶けきった空のグラスを指先で弄ぶ。僕のポリエステル混紡のシャツを着たリリーが、隣で洗濯機から取り出されてつり干しにされている自分の服を眺めている。
「……ヨウさん」
不意に、リリーが静かな声で口を開いた。
「ん?」
「外に、出てみたいです。美味しいところに、連れて行ってくれませんか」
僕はグラスから手を離し、ゆっくりと彼女の方を向いた。彼女は紫色の光が映り込む目で真っ直ぐに僕を見つめている。
「……マジで? こないだあんなにぶっ倒れてたのに」
この特区の夜は昼間よりもはるかに濃密で厄介だ。数多の種族が入り乱れ、欲望と暴力と享楽が渦巻いている。他者の精気を皮膚呼吸のように吸収してしまうサキュバスの彼女にとって、夜の街は文字通り致死量の毒になり得るはずだ。
だが、リリーはふるふると首を横に振った。
「大丈夫です。口の閉じ方が、なんとなく分かってきた気がするんです」
「口の閉じ方?」
「はい。こう……息を止めるわけではなくて、感覚のフィルターを一枚挟むというか。耳を塞ぐ代わりに、少しだけ遠くの音を聞くようにする感覚、と言うのでしょうか」
彼女は自分の胸元に手を当て、小さく息を吸い込んだ。
僕にはその器官が無いから分からない。だけど極めて生理的で物理的な感覚のチューニングだった。この数日間、狭いドミトリーの中で僕や他の住人たちの気配を感じながら、彼女なりに特区の空気に適応しようと試行錯誤していたのだろう。
「……美味しい夜ご飯、食べたいです」
彼女はもう一度、念を押すように言った。その声には箱入り娘の世間知らずな我儘ではなく、自分の足でこの街を歩いてみたいという、ささやかだけれど確かな意志が宿っていた。
僕は短くため息をつき、膝を叩いて立ち上がった。
「分かったよ。じゃあ着替えてきて。十分後に一階のカフェで」
リリーの顔に、パッと花が咲いたような笑みが広がった。熱帯の生ぬるい夜風に吹かれながら、名残惜しく僕たちは沈黙の時間を共有していた。そんな風のおかげで服もどうにか、もう乾いているみたいだった。
準備も整って大通りに出ると、むせ返るような排気ガスと香辛料の匂いが肺に流れ込んできた。
無秩序に鳴らされるクラクションと、歩道にはみ出した屋台の客引きの声が響き渡っている。頭上では極彩色を放つ巨大なホログラム広告が明滅している。
僕たちは人混みを縫うようにして歩き、高架を走るモノレールの駅へと向かった。
特区の動脈であるこの路線は昼時を除いてほぼ常に殺人的な混雑を見せている。自動改札にプラスチックのトークンをかざしてプラットホームへ上がると、冷房の効きすぎた車内から吐き出される人工的な冷気が、火照った肌を撫でた。
滑り込んできた銀色の車両に乗り込む。車内は額に角を生やしたビジネスマンや、鱗に覆われた腕を持つ若者、そして僕たちのような人間がすし詰めになっていた。
僕はリリーが押し潰されないよう、ドア横のスペースに彼女を立たせ、自分は壁に手をついて防御壁を作った。
「気分は悪くない?」
僕が少し身を屈めて尋ねると、リリーはこくりと頷いた。
「はい。……本当に、大丈夫みたいです。色々な人の欲望が渦巻いているのは分かりますが、自分の中に流れ込んでくる前に、シャッターを下ろせている感覚があります」
彼女の目は恐怖や混乱ではなく、窓の外を流れるサイバーな街並みへの好奇心に輝いていた。クーラーが過剰に効いた密室の中で、彼女は確かに『口を閉じる』術を実践できているようだった。
モノレールが幾つかの駅を過ぎ、目的地の駅に到着する。
改札を抜けて地上へ降りると、そこには特区でも最大規模を誇るナイトマーケットが広がっていた。
百以上も色とりどりのテントがひしめき合い、そこから立ち上る白い煙が街灯の光を乱反射して霧のように漂っている。肉の焦げる匂い、香草の青臭さ、油の爆ぜる音。そして、腹を空かせた多種多様な種族たちの強烈な熱気に満ちていた。
リリーは圧倒されたように立ち尽くしていた。
「はぐれないように、ついてきて」
僕が促すと、彼女は慌てて僕の背中を追ってきた。
テントとテントの間の狭い通路を歩く。両脇には山盛りの麺料理や、やや毒々しい色をした南国のフルーツなど、ありとあらゆる食べ物が並んでいる中には人間の子供の腕ほどもある巨大なムカデの素揚げや、得体の知れない爬虫類の丸焼きを吊るしている屋台もある。
ゲテモノの屋台の前を通り過ぎるたび、リリーの顔が微かに引きつるのが分かった。好奇心はあっても、流石に視覚的な暴力には慣れていないらしい。
「あんなの、食べるんですか……?」
「好きな奴は好きらしいけどね。僕も流石に毎日はキツい。今日はもっと王道なところに行こう」
僕は彼女を連れて、一際煙が立ち上り、行列ができている屋台の前で足を止めた。
ガラスケースの中には表面に細かい穴が無数に開けられ、きつね色に揚げられた豚バラ肉のブロックが山のように積まれている。
店主の男が、巨大な中華包丁を振り下ろす。タン、タン、タンというリズミカルな音とともに、豚肉が一口大に切り分けられていく。刃が皮に当たるたびに、ザクッ、というクリスピーな音が響き、中からは溢れんばかりの肉汁が滴り落ちていた。
僕は現地の言葉で手短に注文を済ませ、プラスチックの容器を受け取った。
少し離れた空きテーブルに移動し、簡単に布巾で食べかすなどを拭い取ったら容器を配列する。
「さあ、どうぞ」
僕が竹串を差し出すと、リリーは容器の中身を覗き込んで、綺麗な眉をほんの少しだけひそめた。
そこには油をたっぷりと吸った豚バラ肉の塊と、ビニール袋に入れられた粘り気の強いもち米、そしてどろりとした赤茶色のソースが添えられている。彼女の目には安っぽいジャンクフードにしか映っていないのだろう。
「これ……お肉ですよね。すごく、油っぽく見えますが」
「まあ、豚バラ肉を茹でてから、皮に細かく穴を開けて乾燥させて、最後に高温の油で二度揚げしてる。完全にカロリーの塊だ」
僕の身も蓋もない説明に、リリーはさらに及び腰になった。
「あ、あの……」
「騙されたと思って、一つ口に入れてみなよ。ソースをつけて。最初はちょっとずつね」
僕が苦笑しながら勧めると、リリーは渋々といった様子で竹串を手に取り、豚肉の塊をソースに浸した。
小さな口が開き、肉が放り込まれる。
ザクッ、と、周囲の喧騒の中でもはっきりと聞こえるほどの快音が響いた。
その瞬間、リリーの動きがピタリと止まった。信じられないものを見たかのように目が見開かれる。
「……え?」
彼女はゆっくりと咀嚼を始めた。ザクザクというクリスピーな皮の食感の後に、とろけるような脂の甘みが口いっぱいに広がる。だが、決してしつこくはない。
「このソース……酸っぱくて、甘くて、辛くて。お肉の脂を洗い流すような。それに、この皮の食感……どこかで……」
「タマリンドっていう果肉をベースにしたソースだ。そこに唐辛子と魚醤、ヤシ砂糖を混ぜてる。酸味と甘みと辛味で、豚の脂を中和するんだ」
僕は竹串で豚肉を一つ突き刺し、空に掲げるようにして言った。それは電球の光を受けてキラキラと輝いた。皮目の脱水のために食塩と酢酸を重ね塗りしているから宝石みたいになる。
「皮を限界までカリカリに焼き上げたローストポークに、酸味のあるアップルソースを添えたもの……そう考えれば、知ってる味覚の構造だろ?」
僕が種明かしをするように言うと、リリーはハッとして僕の顔を見た。
「そうです! サンデー・ローストです……!」
彼女の脳内で、目の前のきな臭い屋台飯と故郷で味わったであろう高級な伝統料理の記憶が結びついたのだ。
サンデーロースト、その最大の魅力はクラックリングと呼ばれる豚皮の極限のカリカリ感と、それを引き立てる果実のソースにある。見た目も部位も作られる環境も全く違うが、味覚の構造はこの特区の片隅にある屋台と完全に一致している。
「こんな……こんなところに。私の知っている料理と同じ理論が息づいているなんて……」
リリーは感動に打ち震えるように呟き、二つ目の肉を口に運んだ。今度はもち米も一緒に手でちぎり、ソースを拭うようにして食べる。自分が食べ慣れていたものに近しいと分かったなら、それからは早いものだ。
豚肉ともち米を平らげ、僕たちは再び熱気に包まれたナイトマーケットを歩き始めた。
すれ違う人々の欲望を器用に躱しながら、リリーの足取りは先ほどよりもずっと軽く、自信に満ちている。
「ヨウさん。そろそろ甘いものが食べたいです」
彼女が少しだけ弾んだ声で言う。その視線の先には黄色いフルーツが山のように積まれたデザートの屋台があった。
近づいてみると、甘いココナッツミルクの香りが漂ってくる。切り分けられた熟れたマンゴーと、ツヤツヤと輝くもち米をパックに詰め、その上から白いココナッツソースをかけている。
「もち米とマンゴーのデザートだ」
僕が説明すると、リリーは目を輝かせた。
「お米の、デザートですか? すごく美味しそうです!」
だが、僕は無意識のうちに少し顔をしかめていた。
「どうもこれだけは未だに納得できてないな。米が甘いって、どうしても脳がバグるというか、主食の延長に思える」
リリーは不思議そうに小首を傾げた。
「そうなんですか? お米をミルクで甘く煮たものなら、私は小さい頃からよく食べていたので全く抵抗がないのですが」
「まあ、食文化の違いだな」
僕は頭を掻き、ポケットから小額紙幣を何枚か取り出した。
「そうだ、ほら、ちょっと自分で買ってみなよ。せっかくだからさ」
僕が紙幣を彼女の手に握らせると、リリーは驚いたように僕と紙幣を交互に見つめた。
「わ、私が、ですか……?」
「言葉なんて適当でいいから、指差してこれ渡せば買えるから。行っておいで。お釣りもチップで渡しちゃって」
僕が軽く背中を押すと、彼女はゴクリと唾を飲み込み、意を決したように屋台の前に進み出た。
言葉の通じない人間の店主を前に、彼女は少し震える指でショーケースのマンゴーを指差し、たどたどしい現地の言葉で欲しいものを伝えた。店主が無愛想にパックを差し出し、彼女が紙幣を手渡す。
デザートが入ったプラスチックパックを受け取って戻ってきた彼女の顔には、まるで大きな任務をやり遂げたような、誇らしげな達成感が浮かんでいた。
「買えました……! 私、買えましたよ、ヨウさん!」
「お疲れ。じゃあ、あそこの空いてる席で食おうか」
僕たちは雑踏の隅にあるプラスチックの椅子に腰を下ろした。リリーは宝物でも扱うようにパックを開け、スプーンでもち米とマンゴーをすくい、たっぷりのココナッツソースを絡めて口に運んだ。
途端に、彼女の瞳が郷愁と幸福感で細められた。
「……美味しい。すごく、懐かしい味がします」
ココナッツミルクで炊かれた甘いもち米は彼女の記憶の中にあるライスプディングの温かさを強烈に呼び起こしたのだろう。それにマンゴーのフレッシュな酸味が加わり、完璧なデザートとして完成している。
自分で選び、自分の手で買った、初めての食べ物。それが故郷の味に似ていたという奇跡が、彼女の頬に自然な笑みを咲かせていた。
それを見ていたら、どうにも気になってきた。僕も先ほど、自分のウンチクを垂れて豚肉を食わせたばかりだ。ここはお互い様というやつだろう。
「ねえ。やっぱりそれ、ちょっと分けてもらえるかな」
僕がおねだりするように手を出して言うと、リリーはパチリと瞬きをして、それから悪戯っぽく微笑んだ。それこそ蠱惑的に。
「主食の延長に思えてしまうから、パスだったのでは?」
「気が変わった。食わず嫌いは料理人の恥だからな」
リリーは嬉しそうにプラスチックのスプーンでもち米とマンゴーをすくい、僕に差し出した。僕はそれを受け取り、少しだけ躊躇ってから口に放り込む。
マンゴーの強烈な甘みと酸味、それに絡みつくココナッツミルクのコク。そして、もっちりとした米の食感が口の中に広がる。
「……んー。やっぱり米が甘いのは脳がバグるな。でも、美味いか不味いかで言えば、悔しいけど美味い」
僕が複雑な顔をして咀嚼していると、リリーは声を立てて笑った。
「ふふっ。食文化の違い、ですね」
僕の放った言葉をそのままそっくり返され、僕は苦笑するしかなかった。相変わらず甘い米には納得がいかなかったが、隣で心底嬉しそうにパックをつつく彼女の横顔を見ていると、頼んでみて良かったなと、素直に思えた。
ナイトマーケットの喧騒を背に、僕たちは再び駅へと向かう道を歩いていた。夜風が少しだけ涼を帯びて吹き抜けていく。遠くのビル群のネオンサインが夜空に溶けて滲んでいた。
「ヨウさん。今日は本当に、ありがとうございました」
リリーが、隣を歩きながらぽつりと言った。
「気にすんな。僕も美味い豚肉が食えたしな」
「私……」
彼女は少しだけ立ち止まり、自分の両手を見つめた。
「私、この街のこと、少しだけ分かった気がします。口の閉じ方も分かりましたし、ご飯の買い方も覚えました」
彼女は顔を上げ、僕に向かって力強く微笑んだ。
「もう一人でも、出歩けるかもしれません」
その言葉には箱入り娘の虚勢ではなく、この夜の体験から得たささやかな自信が満ちていた。
僕は少しだけ目を細め、夜風に吹かれる彼女の高貴な横顔を眺めた。
「そうだな。歩き方さえ分かれば、案外、居心地の良い場所だろ」
僕は彼女の言葉を否定せず、軽く笑い返した。
少しずつこの街に馴染んでいく彼女の姿は僕にとっても悪くない変化に思えたからだ。この心地よい時間が、もう少しだけ続けばいい。本気でそう思っていた。
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