朝食にはお粥を

 ニュート・カフェの二階、風通しの悪い四人部屋のドミトリーには今日も重苦しい冷気が滞留していた。元々は四人詰めこまれるはずなのに、今は二人しか住んでいない。熱源の数からしてオーバースペックになっていた。

 カーテンの隙間からは既にギラギラと照りつける熱帯の太陽の光が細い筋となって床に落ちている。

 僕は軋むベッドの上で薄いシーツを蹴り飛ばし、重い体を起こした。一晩中もクーラーを入れていると喉が張り付くように乾く。枕元に置いてあるペットボトルを開けて、飲み口に口を付けず注ぐようにしてそのまま喉に流し込んだ。

 ふと視線を上げると、対角線上にあるベッドのシーツがみのむしのように丸まっている。部屋に漂う甘い香りにもすっかり鼻が慣れた。

 サキュバスの少女がここに転がり込んできてから二日が経つ。彼女は昼夜を問わず、ほとんどの時間をその薄汚れたシーツの中で過ごしていた。こないだ薬局で分けてもらった経口補水液などの飲料をサバイバル生活よろしく舐めるように摂取している。シャワールームが部屋に備え付けだから、ベッドから出るのはそのタイミングくらいだ。

 彼女の抱える厄介事に深入りするつもりはない。僕はただの人間で、こないだは仕方なく手を貸しただけだ。なるべく関わらないように静かに部屋を出ようとした、その時だった。

 盛大で、そしてひどく情けない音が響き渡った。丸まったシーツがビクッと跳ねる。

 僕はため息をついた。ドアノブにかけた手を離し、シーツの塊に向かって声をかける。

「……朝ご飯、どうです? 一緒に」

 数秒の沈黙の後、シーツの隙間から艶やかな金髪と警戒心に満ちた瞳が覗いた。彼女は何も言わなかったが、その耳まで真っ赤に染まった顔が全てを物語っていた。

 一階のカフェ・バーに続く薄暗い階段を下りている途中から不穏でぶしつけな声が聞こえてきた。

「ふざけんなバカ石ころ! なんだこのルートビアの惨状は! なんで原液を『ただの水道水』で割るんだよ!」

 良く通る声が朝の気怠い空気を切り裂く。発生源はアレックスだ。低い身長に無理をさせて席でがなり立てる彼女の背中では茶色の縞模様が入ったふさふさの尻尾が怒りで逆立っている。アライグマの魔族でニュート・カフェの常連だ。

 怒声の先にはフリルのついたメイド服を着た少女がカウンターに立っている。

 ニュート・カフェの雇われコック、ロカだ。一見すると華奢な人間の少女に見えるが、その正体はオーナーがどこからか買い取ってきたゴーレムである。

 ロカは悪びれる様子もなく、涙は出ないがとりあえず泣きそうな顔を作り、両手を胸の前で握りしめて反論した。

「タヌキのお客様、店内での大声はお控えいただいて……! マニュアルには『シロップ一に対して水四の割合で希釈する』って書いてありましたもん! 炭酸水にするなんて一言も書いてないです!」

 その言葉に、アレックスの顔面がみるみるうちに紅潮していく。

「誰がタヌキだ! 模様を見ろ、アライグマだ! ていうか常識で考えろよ! ルートビアは炭酸飲料だろうが! フロートのソフトクリームが悲惨なことになって沈んでるじゃねえか!」

 アレックスが指差したジョッキの中では濃褐色の不気味な液体の底に溶けかけたバニラアイスがドロドロの塊となって沈殿していた。確かに見るに堪えない。

「私、味覚機能ないですし……。それにこの『卵なしオムレツ』だって、完璧な処理手順です!」

 ロカはカウンターの上に置かれたもう一つの皿を指差した。

「タヌキのお客様がオーダーシートに『卵なし』って書いたから、レシピから卵要素をマイナスして、中の玉ねぎとピーマンだけを炒めて……最後に規定量通りパセリを振ったんです。手順になんのバグもありません!」

「だからタヌキじゃねえって言ってんだろ! そしてこれを世間じゃただの『野菜炒め』って呼ぶんだよ! オムレツのオの字もねえ! お前のオツムどうなってんだ!」

 アレックスが頭を抱え、ロカは徹底抗戦を崩さない。このまま放っておけばアレックスがカウンターを乗り越えて暴れるか、ロカの安全装置が働いて実力行使に出るか、どちらかの結末しか待っていないだろう。

 僕は背後のサキュバスの少女を庇うようにして、カウンターへと歩み寄った。

「アレックス、朝から元気だね」

「ヨウ! お前からもこのポンコツメイドに言ってやってくれよ!」

 アレックスがウンザリしたような目を向けてくる。僕はため息をつき、カウンター越しにロカと向き合った。

 ロカは僕の姿を認識するとパッと表情を明るくした。なんだか、底抜けな笑顔に僕も少し気分が和らぐ。

「ヨウさん! 今し方タヌキのお客様から理不尽なクレームを頂きまして」

「ロカちゃん、クレームはクレームだけど、向こうにも筋があってね」

 彼女の思考はゴーレムらしく融通が利かない。だからなるべく明瞭に伝えなければいけない。

「まず、アレックスの個体認識タグ。『タヌキ』じゃなくて『アライグマ』ね。アレックスはアライグマの魔族、いいね?」

「あ、はい! 個体認識タグ『アライグマ』に上書き保存、完了しました!」

 ロカが元気よく返事をすると、首の後ろのあたりから微かな電子音が鳴った。

「次。『ルートビアの希釈』の項目だ。ルートビアの割り材は『水』ではなく『炭酸化した水』だよ。サーバーの赤レバーで……それは給湯器の赤ね、ソフトドリンクの赤レバー」

「インプット完了です!」

「それから、料理についてだ」

 僕はカウンターに置かれた、全裸のオムレツに視線を落とした。

「『卵なしオムレツ』っていうのは、そういう料理名であって、文字通りじゃない。黄身を使わず卵白で作ったメレンゲだけで焼くっていうオムレツだ。オーダーが入ったら、卵黄分離プロセスが必要になる」

 パチパチと瞬きをして、それから合点がいったのかロカは手のひらを叩いた。

「なるほどぉ! 例外処理ですね! でもヨウさん、私、卵白だけでふわふわに焼く火加減のパラメーター、持ってないです」

 ロカは困ったように首を傾げる。僕がやった方が早いと思うけど、それでは彼女のためにならない。そもそも就労ビザを持っていないから仕事はできない。

 それでも彼女の「手」を借りて料理を完成させることはできる。頭の中に、完全な手順と温度が浮かび上がる。

「全卵三つを卵黄と卵白に分ける。どっちも捨てないで別の調理用ボウルに入れてね。ボウルに入ってる卵白を泡立て器で八分立て……かき混ぜ三十回ごとにチェックして」

 ロカの右手がブレるほどの速度で振られ、ぴったり三十回で一時停止、その繰り返しでボウルの中の卵白があっという間にきめ細かい雪のようなメレンゲへと変わっていく。

「フライパンの表面温度は百六十度。油はバターじゃなくて、オリーブオイルを引いてくれ」

 糸を引くように一切の無駄がない機械の滑らかさで、予備のフライパンを五徳に置いてコンロに点火する。

「そこから一気にフライパンへメレンゲを流し込む。五秒待って、ヘラを使って手前から奥へ巻き込んでくれ。ロカちゃんはスナップが硬すぎるから、ヘラの角度は三十度を維持してスライドさせるんだ。二十秒やってみて」

「二十秒! ヘラの角度、三十度でスライドですね! やってみます!」

 ジュッ、という小気味良い音が厨房に響く。ロカの手首は寸分の狂いもなく僕の指定した角度を保ち、真っ白な泡の塊を見事なアーモンド型へと成形していった。仕上げに微量の塩とホワイトペッパーが振られ、野菜炒めが盛られた皿の上へ滑り落ちる。

「完成ですぅ!」

 ロカが誇らしげに皿を差し出した。そこには表面に焦げ目一つない、純白のオムレツが鎮座していた。ナイフを入れれば中からシュワシュワと音を立てて半熟のメレンゲが溢れ出してくるはずだ。

 僕はその皿をアレックスの前に押しやった。

「ほら、アレックス。コレステロールゼロで高タンパク、健康志向なオムレツの完成だ」

 アレックスは忌々しげに鼻を鳴らした。

「最初からお前が厨房に立ってりゃいいんだよ。就労ビザがなんだってんだ、こんな裏通りで」

 文句を言いながらもアレックスは素早くフォークを手に取り、オムレツを切り分けた。一口食べた途端、彼女の丸みを帯びた耳がピクッと動き、機嫌を直したように尻尾の揺れが穏やかになる。

「そろそろ、お前が仕込んだ特製ルートビアシロップも底を突くぞ。アレがないと俺は仕事にならねえ。週末にはまた作ってくれよ」

「シズに言ってスパイスを取り寄せてもらうよ」

 僕は適当に返し、背後で所在なさげに縮こまっているサキュバスの少女を促して、窓際のテーブル席へと移動した。

 アレックスはオムレツを平らげるとすぐにノートパソコンを広げ、色々なところに不機嫌な通話を始めた。

 流暢な英語で話し始めたかと思えば、すぐに聞き取れないくらいハイペースな別の言語へ切り替わる。右から左へ、アレックスはタスクをこなしていく。

「だから、そのステムだとダメだって。重水素置換でも水素は水素だ。包括指定で――」

 こうやってたまに不自然なほど流暢な日本語まで飛び出す。彼女が言うには総合的な『コンサルティング』らしい。具体的に何の何をしているのか、僕は知らないし知るべきではないと思っている。この街では他人のシノギに首を突っ込むのは自殺行為だ。

 サキュバスの少女はアレックスの姿や、厨房で正しいルートビアフロートを真面目に作り直しているロカの姿を、まるで異世界の生き物を見るような目で眺めていた。

「……すごい場所ですね」

 ぽつりと、彼女が呟く。その声は相変わらず鈴を転がすように澄んでいて、周囲の喧騒から完全に浮いていた。

「ただのカフェだよ」

 やがてロカがやって来て、僕と彼女の前にそれぞれ湯気を立てるどんぶりを置いた。

 鶏とホタテの出汁でとろとろになるまで煮込んだ白粥だ。その上には狐色に揚がった長細い揚げパンを一口大に切ったものがささやかに乗せられ、さらに細切りの生姜と青ネギが散らしてある。朝の胃袋に染み渡る、この特区における定番の屋台飯だ。

 だが、サキュバスの少女はどんぶりの中身を覗き込むと綺麗な眉を微かにひそめた。

「……ポリッジですか? 私、まだ病人扱いなのでしょうか」

 不満げな、それでいてどこか諦めたような響きがあった。ポリッジもお粥と言えばお粥だが、ミルクで甘くドロドロに煮込んだオートミールでできている。日本のお粥と似た立ち位置で、風邪を引いた時や胃腸が弱っている時に出される味気ない療養食なのだろう。

「いや、これは違うよ。オーツ麦じゃなくて、米のお粥だ。病人食なんかじゃない」

 僕は自分の分のどんぶりを引き寄せながら説明する。

「旨味の強いスープで生米から炊き上げてる。それに、上に乗ってるこの揚げパン……これをスープに浸して、ふやかして食うんだ。油をたっぷり吸ってるからカロリーの塊みたいなもんだよ。どうぞ、お口に合えば良いけど」

 促すと、彼女は恐る恐るレンゲを手に取り、スープをたっぷり吸ってクタッとなった揚げパンをすくい上げた。小さな口に運び、ゆっくりと咀嚼する。

 途端に、彼女の目がパッと見開かれた。ふやけた衣の食感と、隙間から濃厚な鶏出汁の旨味が溢れ出す。ジャンクでありながら、どこかホッとするような温かさが、彼女の味覚を直撃したのだろう。

「……美味しい」

「良かった。僕もお粥って病人食のイメージだったけどね。風邪の時にこんな胡椒とニンニクがキマってるの出されたらキレるでしょ」

 僕は自分の粥にレンゲを突っ込みながら、少しだけ口角を上げた。

 彼女は夢中になって二口、三口と粥を口に運んだ。最初の警戒心はどこへやら、どんぶりに向かうその姿は年相応の少女そのものだった。

 ふと、彼女の手が止まった。レンゲを持ったまま、彼女は何かを思い出したように顔を上げ、僕をまっすぐに見つめた。

「えっと、あの……」

「ん? 味変ならこの魚醤と黒酢がオススメかな」

「あ、ありがとうございます……いえ、そうではなく、お礼です。まだきちんと言えていませんでした。倒れていた私を、助けてくださって……改めてありがとうございます」

 改めて正面から向き合って礼を言われると、どうにも居心地が悪い。初対面のようなドギマギした感覚を覚え、僕は熱いお茶を啜って照れ隠しに視線を逸らした。

「気にしないでくれ。あのまま宿で死なれて事故物件になっても、オーナーも警察もうるさいし」

「それでも、です」

 彼女は真剣な眼差しで僕を見据えた。その目には初日の虚ろな色はなく、しっかりとした意志の光が宿っていた。

 ここでようやく、僕たちはマトモに向き合って会話をしていることに気付く。出会ってから数日、同じ部屋に寝泊まりしながらもろくに言葉を交わしていなかったのだ。奇妙な同棲生活の中で、これが初めての『初めまして』だった。

「名前言ったっけ……僕はヨウ。この宿でダラダラしてる。日本から来た」

 少しの気恥ずかしさを覚えながら、僕は短く名乗った。

 サキュバスの少女は小さく頷き、そして、少しだけ言葉を探すように間を置いた。

「私は……リリー、です」

 それはなんだか酷く砂を噛むような、無味乾燥な自己紹介だった。

「リリー。ただのリリー?」

「そうです。ただの、リリーです」

 彼女はきっぱりと言い切った。その声音にはこれ以上の詮索を拒絶するような硬い響きが含まれていた。家名がないのか、それとも名乗れない事情があるのか。この特区に流れ着く連中なんて、誰もが一つや二つ言いたくない事情を抱えているものだ。僕だって例外ではない。

「そうか。よろしく、リリー」

「はい。よろしくお願いします、ヨウさん」

 リリーは小さく微笑み、再びどんぶりに向かい合った。

 気怠い朝の空気の中、外から聞こえる通勤ラッシュのクラクションに混じって、小気味よく揚げパンを咀嚼する音が静かに響き続けていた。

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