ニュート・カフェで
バード=ソムチャイ
プロローグ
ニュート・カフェへようこそ
肌に張り付くような熱気と、スパイスの入り混じった下水の匂いが、古びた配管の隙間や排水溝を遡って四人部屋のドミトリーにしみ出している。壁からぶら下がる年代物のクーラーは不機嫌な猛獣のように低い唸り声を上げて、今では禁止されたフロンガスを使っているから冷え込むくらい涼しかった。窓ガラスを隔てて、触媒を忘れたマフラーから吐き出される排気音と無秩序に鳴らされるクラクションが絶え間なく響き、この街が決して眠らないことを証明していた。
僕は安ベッドに寝転んだまま、カーテンに跳ね返って明滅するネオンサインの極彩色をぼんやりと眺めていた。安っぽいピンクや緑の光がひび割れた天井にサイケデリックな模様を描き出しては消えていく。
通りを歩く人影は実に様々だ。人間の姿もあれば、額から立派な角を生やした男、スカートの後ろから鱗に覆われた尻尾を覗かせている連中も、ごく当たり前のように肩を並べて歩いている。ここはヒトとマモノが入り乱れる特別行政区だ。かつては人間が管理していた熱帯の都市は色々な歴史の潮流と政治的な妥協の果てに魔族の手にも委ねられ、今や世界でも稀に見る混沌とした街ができあがった。
手の中で転がすアルミ缶は表面にびっしりと結露を浮かべているものの、刻一刻と確実に冷たさを失い、常温の不愉快な液体へと変わりつつある。
今しがた、僕の上のベッドに寝泊まりしていた住民はチェックアウトを済ませて出て行った。アイルランド人のバックパッカーの次にやってきた同郷の大学二回生だった。二ヶ月間の長い夏休みが終わり、日本へ戻るのだという。
圧倒的な物価差を利用して屋台の安飯を食らい、昼間は殺人的な日差しから逃げるようにクーラーの効いた薄暗い部屋で薄味のローカルビールをだらだらと飲み、日が落ちて少しだけ気温が下がれば、ネオンとハロゲンが毒々しく輝く歓楽街へと繰り出す。彼にとってこの街での日々は語学留学というもっともらしい名目で手に入れた気安いモラトリアムだ。帰る場所がある人間の、ひどく贅沢な時間潰しだった。
僕は彼が餞別だと言って押し付けてきた、水のように薄いビールを喉に流し込む。アルコールは完全な日没後という自分なりのルールを設けていたつもりだったが、今日は少しばかりそれを破ってしまった。この安宿の冷蔵庫は三階の共用ラウンジにしかなくて、このぬるい気候の中で冷たさを保ったまましまい込むなら、自分の胃の中に入れるのが一番早かった。
不意に、ノックもそこそこに安っぽい木製のドアが開いた。
「入るよー?」
ゲストハウスのオーナーが、こちらの了承も得ずに入ってくる。水泳の授業を思い起こさせるような紺色のシンプルなデザインの水着に、すり減った安物のビーチサンダルという代わり映えしない格好で、青みがかった黒髪からはポタポタと水を滴らせていた。水辺を住処にするイモリの魔族特有の、常に極薄の水膜を張ったような鮮やかな肌からも絶え間なく水滴が落ちている。
彼女が歩くたびに、ホコリっぽい床に点々と水溜まりができるが全く気にしない。なぜなら、この建物のすべては彼女のものだ。ゲストハウスなのに、裏庭には彼女専用のプールまで備え付けられている。
「新しい客が来るんだけどさ」
オーナーは気怠そうに、濡れた髪をかき上げながら言った。本来なら四人でシェアするはずのこの薄汚れた客室で、今のところ滞在者は僕一人だけだ。残りの三人分も払えと脅してこないだけ、彼女は十分すぎるほど優しい部類に入る。
「女の子なんだよね」
「僕より、その人がどうかだろ。こんなむさい男の部屋に放り込まれるなんて」
「あっちはどんなルームメイトでも構わないから、とにかく今すぐ泊めてくれって言ってるのよ」
「待てよ。わざわざ僕に聞いてきたってことは……」
相手が人間だったら僕は今まで一度だって同室を断ったことがないし、問題を起こしたことは無い。相部屋なんて、ここでは日常茶飯事だ。
「うん、人間じゃない」
「毒とか持ってないよな?」
「流石にそれだとアタシも断ってるよ。寝首を掻かれて後処理させられるのはご免だもの。じゃあいいのね。入っておいで」
彼女が背後を振り返ると、廊下の薄暗がりから一人の少女が静かに姿を現した。
オーナーが小柄なせいもあるが、横に並ぶと彼女のやや高めの背格好がこの狭い部屋の中で随分と映えた。そして何より目を引いたのは彼女の背後にある矢印のような尻尾と、平滑なケラチン質に頑丈そうな皮膜の張った、コウモリのような一対の翼だった。頭部には特徴的な巻き角が鎮座し、目の覚めるような美しい金髪と、妙に穏やかで人の良さそうなオリーブ色の瞳をしている。
「……サキュバス?」
僕は思わず呟いた。
身につけているのは市場で適当に見繕ったようなヨレヨレのTシャツに、サイズの合っていないチノパンという薄くて安っぽい見かけだ。だが、その佇まいからして、何も言わなくても隠しきれない品が匂い立っている。背筋の伸び方、視線の動かし方、すべてがこの安宿の空気と決定的に不和を起こしていた。
それでいて、荷物は少ないようで小さなボストンバッグが一つだけだった。こんな相部屋のドミトリーにポーターなんて気の利いたサービスがあるはずもないうえ、オーナーだって宿泊客の荷物を運ぶようなお人好しではない。
「え、うそ、ここ特殊な飲食も始めちゃうわけ?」
僕が軽口を叩いた瞬間、オーナーが素早い動きで僕の左の手の甲を掴み、容赦なく抓み上げた。
「痛い痛い痛い!」
僕はマットレスのクリーニング代を請求されないように、必死で右手を高く掲げてビールを避難させる。
「バカ言わないでよ。アタシの宿を変な店と一緒にしないで。それじゃ、あとは適当によろしく頼んだからね」
「待って待って」
踵を返した彼女の背を追い、僕はベッドから飛び起きて部屋を出た。彼女に話を聞かれたくなくてドアをバタンと閉める。廊下はクーラーの冷気が全く届いておらず、嫌でもまとわりつくような暑さを感じてしまう。
「絶対ヤバいって。あんなの、どう見ても素性の知れないトラブルメーカーだろ」
「でも、三ヶ月分きっちり前払いされちゃったのよね。しかもさ、残り二つのベッドの料金も全部まとめて払うって言うんだもの」
「カードで、だよな? こんなボロ宿でも良い値段するだろ」
「はッ倒してやろうか。現ナマよ。ピン札の束」
「やっぱ絶対ダメじゃん! 完全に逃亡者かなにかの動きだろ!」
僕は頭を抱えた。この特区で身分証の提示も渋りそうな相手が現金払いで長期滞在を希望するなんて、裏に何かあるに決まっている。色々と言い訳を並べ立ててみるけれど、オーナーにはのれんに腕押し状態だった。彼女からすれば、もし何か厄介事が起きても、三ヶ月以内に適当な理由をつけて追い出してしまえば丸儲けだからだ。
僕の抗議を遮るように、ガタン、と鈍い音が湿った空気を揺らした。薄い壁の向こう、つまり僕の部屋からだ。
さっきまでも、そして今も自分のベッドがある部屋のドアを開けるのにこれほど戸惑いを覚えたことはなかった。それでも意を決してノブをひねると、先ほどのサキュバスの少女が床に倒れ伏していた。どうやら僕と対角線になる上段のベッドへ這い上がろうとしてそのまま力尽きて滑り落ちたらしい。
不自然に投げ出された四肢はひどく滑らかで傷一つ見当たらなかった。砂ホコリと、自分を含め数多の客が残した正体不明のシミにまみれたこの安宿の汚い床に、その完璧に造形された肉体があまりにも不釣り合いで異物感を放っている。
「ねえ、大丈夫か?」
僕は慌てて屈み込み彼女の肩に触れた。その瞬間、思わず手を引っ込めそうになった。
異常なほど熱い。まるで高熱を発しているストーブに触れたかのようだ。こんなにクーラーを回しているのに。
「……あつ、い」
半開きの艶やかな唇からかすれた吐息が漏れる。焦点の合わない深緑色の瞳が虚空を彷徨い、微かに震える身体からは熟れすぎて今にも腐る寸前の熱帯果実のような、むせ返るほど濃密で甘い匂いが立ち昇っていた。普通の香水などではない、種族としての本能に直接訴えかけてくるような暴力的な甘さだった。
「熱中症じゃないか? おい、どうする、これ」
「アタシが医者に見える?」
ドア枠に寄りかかったまま、オーナーは冷たく吐き捨てた。部屋の中に入って様子を見ようとすらしない。
「表通りにある薬局にでも放り込んで来なさいよ。死ぬならせめて敷地外で死んでほしいわ。こんなところで死なれて事故物件にしたくないからね」
「……冷たいな」
「変温動物だもの」
それは冗談でもなんでもなく、路地裏の泥水に浸って生き抜いてきた彼女の冷徹で合理的な無関心だった。それでも、オーナールームがある四階の安全地帯まで、薄いビーチサンダルをパタパタ鳴らして逃げ帰るような真似をしなかっただけ彼女なりの情なのだろう。
僕は重い溜息をつき、腹を括って倒れている彼女の脇の下に腕を入れ強引に引きずり起こした。見た目の華奢さ以上に物理的な質量と密度を感じる。熱を帯びた柔らかな肉体を肩に預けられると、その甘い匂いが鼻腔の奥にべったりとへばりついて酷く頭がクラクラした。
異様な熱と早鐘のように打つ心臓の拍動が薄いTシャツ越しに僕にも伝わってきた。
えっちらおっちらと狭い階段を下りる。一階はカフェ・バーになっており、たむろしている客たちから送られる好奇の目と下世話な視線を背中に受けながら自動ドアを掻い潜る。
途端に、生ぬるい夜の風が頬を撫でた。
蒸し返すような夜の路地はむせ返るような屋台の匂いと、行き交う人々の熱気で満ちていた。肩にのしかかる重みと熱に耐えながら人波を抜け、二十四時間営業を表明する原色のLEDサインが明滅する薬店へとなんとか転がり込む。
この特区では金持ちが受ける高度な美容整形でもない限り、まともな医者にかかるまで数週間は平気で待たされる。だから、夜遅くまで開いているモグリすれすれの薬局がこの街の住人にとっての最前線の医療機関なのだ。
冷房の効きが悪い店内だった。奥のカウンターでは顔を突っ伏して豊かな胸を机に押し付けるようにして店主のラミアが泥のように眠りこけていた。
「シズ先生、起きてくれ! 急患だ」
僕はカウンターをゴツゴツと強く叩く。
「うおえええああああ!?」
たちまちにシズは奇妙な悲鳴を上げて跳ね起きた。パニックを起こした彼女の太い蛇の尾が猛烈な勢いで背後の陳列棚を薙ぎ払う。
プラスチックの乾いた音とともに、楕円形の青い錠剤が詰まった三十日分のボトル、いかにも怪しげな青い菱形の錠剤のシート、そして抗生剤の紙箱が床一面に散乱した。
「なんだ、ヨウさんか……ちょっとは労ってよ、マジで心臓止まるかと思った……って、おいおい、サキュバスか?」
シズは充血した目をこすりながら僕の肩でぐったりとしている女を一瞥した。歓楽街が近いこの店では夜の商売をしている彼女らのトラブルなど日常茶飯事だ。
「ヨウさん、遂にそっちの店に手を出したんだ。とりあえず、そこ座らせて」
診察用のベッドなんてあるはずもない。僕は言われた通りカウンター横のパイプの丸椅子に彼女を座らせて壁に寄り掛からせた。
カウンターから身を乗り出したシズは慣れた手つきで彼女の額に非接触式の体温計を向けた。ピッと短い電子音が鳴る。それから直接首筋に手を当てる。シズもヘビの魔族であり変温動物寄りだから、その手はヒンヤリと冷たいのだろう。触れられたサキュバスの唇から熱を逃がすような淡い声が漏れた。
「まず、熱中症ね。サキュバスにしたって体温が高すぎる」
シズは手慣れた様子で業務用の冷蔵ケースから経口補水液のペットボトルを取り出し、ストローを挿して彼女の口元に近付ける。サキュバスは本能的にそれにすがりつき、喉を鳴らして飲み始めた。シズはそれを確認すると、同時に床に散らばった錠剤のボトルを尾の先端を使って器用に拾い集めていく。
「あと……その、ヨウさん、よろしくした?」
「いやいやいや! 新しいルームメイトで……あっ、ちょっと語弊があるな。全然、そんな関係じゃない。出会って三分だぞ」
「あ、そう? んー、でもこれ、明らかに食べすぎてる」
シズはあっけらかんと言い放った。
「限界までドカ食いしたら、胃腸に血が回って体が熱くなるよね? それと全く同じ症状」
僕はそれなりに特区で魔族と関わってきて、彼らの事情に通じている自負がある。ピンク色の光を受けて路地裏に整然と並ぶ彼女たちが冗談めかして、男の精が主食だと笑うのを聞いたことがある。つまりは、こんなにぐったりする程どこかで誰かを食い荒らしてきたのだろうか。
「……そういうことか? いっぱいやった、とか、いっぱい飲んだとか」
僕が顔をしかめて眉をひそめると、シズのボトルの片付け作業がピタリと止まった。
「ちょっと。それ場所によっちゃ立派なヘイトスピーチになるから気をつけて」
「え? そうなの?」
「サキュバスの主食が人間のソレだなんて、無知な人間が勝手に作った低俗な偏見さ。あの子達はね、私たちや人間と同じように普通に炭水化物もタンパク質も脂質も食べるんだよ。それに加えて、人間から立ち上がる『精気』や『欲情』という目に見えないエネルギーを皮膚呼吸みたいな感覚で吸収してカロリーの足しにしてるんだ。あと厳密に、というか生物学的にはサキュバスじゃなくて夢魔族ね」
シズは呆れたように鼻を鳴らし、拾い集めたボトルを棚に戻した。
「ここまで来るのに旧市街の歓楽街でも抜けてきたのかな。あそこは毎晩、何千人って人間のドロドロした欲望が文字通り渦巻いてる場所だし。あんな濃密な場所に慣れてない子が大口開けて突っ込んだら、あっという間に腹いっぱいでぶっ倒れるに決ま――」
そこまで言って、シズはハッとしたように口を噤んだ。
縦長の蛇の瞳孔が細く収縮し、壁にもたれかかって身体を弛緩させ荒い息を吸い吐きするサキュバスを射抜くように見つめた。
「……慣れてない?」
シズの声が急に一段、地を這うように低くなった。
「慣れてないサキュバス? え、嘘でしょ……そんな、欲望の処理にすら慣れてないようなサキュバスが、野良でこの街にいるの!?」
薬局の無機質で青白い蛍光灯の下でシズの顔からスッと血の気が引いていくのがはっきりとわかった。爬虫類特有の冷たさとは違う明らかな恐怖の色だ。
「そんな驚くことか?」
「この辺りのスラムや歓楽街の育ちじゃないってことだよ。すると……ヨウさんは人間だから魔族の政治事情なんて知らないかもしれないけど、この子、とんでもないレアキャラだ」
いまいちピンとこなかった。だが、背中を這い上がるような僕の嫌な予感はどうやら全面的に正しいらしい。シズは険しい表情のまま、薬局の奥にある冷凍庫から分厚いアイスパックを取り出し、タオルで包んでサキュバスの脇の下に両方から挟み込んだ。
「いい? この特区で、ただ道端に漂ってる程度の欲望に当てられてぶっ倒れるような箱入り娘なんて絶対にまともな身分じゃない。上流階級か、あるいは……」
その言葉に、僕まで背筋が薄ら寒くなるのを感じた。
ただのちょっとした人助けのつもりだ。行き倒れを見捨てられなかった、余計なおせっかいでしかない。法と暴力と欲望で三つ編みを作ったこの街で、得体の知れない厄介な事情を抱え込むことは致命的なトラブルに直結する。冗談抜きで命まで届きかねない。
「……オーナーに言って、叩き出した方がいいか? 三ヶ月分の前払い金は受けとってるみたいだし」
僕が深刻な声で尋ねると、シズは少しの間考え込んでからゆっくりと首を横に振った。
「できる? ヨウさんに、それ」
僕は丸椅子の上で眠りこけるサキュバスの顔を見下ろした。
苦しげな呼吸は少し落ち着き、無防備で、どこか神聖さすら感じさせる高貴な寝顔だった。
シナモンを入れ忘れた煮え切ってないコンポートのむせ返るような生臭い甘さが、薬局特有の消毒液や錠剤の化学臭に混じって僕の肺の奥底にまでべったりと纏わりついてくるみたいだった。
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