第25話「手紙の宛先」
恵美から電話があったのは、三日後の午前だった。
「手紙のお話をしたいと思います」
それだけだった。瀬尾は午後の予定を動かし、橋本邸に向かった。電車の窓に映る自分の顔がぼんやりしていた。恵美の最後の言葉が、三日間ずっと頭の中にあった。村瀬さんに伝えてください。ありがとうございました、と。申し訳ありませんでした、と。あの声に、瀬尾はまだ返事をしていない。
橋本邸の門を入り、玄関のチャイムを押すと、恵美はすぐに出た。前回と同じ紺のカーディガン。髪はきちんと整えられていた。応接間に通され、椅子に座ると、テーブルの上にはカップもポットもなかった。いつもの紅茶の支度がなかった。恵美は台所に立とうとしなかった。
「今日はお茶を出しません。すみません」
恵美が向かいの椅子に座った。背筋は伸びていたが、両手は膝の上に重ねられたまま動かなかった。窓からの光はテーブルの半分を照らしていた。空のテーブルの上には何もなかった。
「あの手紙を持ってきました」
恵美が立ち上がり、廊下の奥へ消えた。瀬尾は一人で応接間に残された。時計が秒を刻んでいた。書斎から持ってくるのだろう。あの引き出し。書きかけの手紙が見つかった、あの引き出しの奥から。
一分ほどして恵美が戻ってきたとき、右手に便箋を持っていた。一枚。折り目のない、白い便箋。テーブルの上に置かれたそれを、瀬尾は見た。
青いインク。万年筆の字だった。几帳面で、行間が均等で、一字一字に力が入っている。あのとき引き出しの奥で見つけたものと同じだった。最初の行に「恵美へ」と書かれていた。
「宛先は、私でした」
恵美の声が低かった。
「瀬尾さんがあの引き出しから見つけたとき——文面の最初の部分は、お読みになりましたか」
瀬尾はうなずいた。「長い間、隠し通せると思っていた」。その一行目は記憶していた。だが宛先がなかったため、誰に書いたものか断定できなかった。
「主人の字です。あの人の字は、何十年見てきてもすぐにわかります」
恵美の視線がテーブルの上の便箋に戻った。
「あの夜——書斎に入ったとき、主人は机に向かっていました。万年筆で何か書いていた。机の上にあの子の写真があった。私は写真のほうに目が行って、手紙のことは見えていませんでした。像を手に取って、振り下ろして。それから——」
恵美の右手が膝の上で開き、閉じた。前回の告白のときと同じ仕草だった。
「机の上にあったものを引き出しに押し込みました。写真と、この手紙と。読んでいません。何が書いてあるか、見てもいなかった。ただ、目に入るものを全部しまいたかった。片付けたかったんです。なかったことにしたかった」
瀬尾は黙って聞いていた。
「瀬尾さんがあの引き出しから手紙を見つけたと聞いたとき、何が書いてあったか聞こうと思いました。でも聞けなかった。読みたくなかったんです。主人が最期に何を書いていたか——知るのが怖かった」
恵美がテーブルの上の便箋に手を伸ばしかけて、止めた。指先がテーブルの縁に触れていた。
「でも、もう逃げません」
恵美が便箋を見た。
「今日、読みます」
恵美が便箋を手に取った。両手で持った。指先が白かった。
沈黙が長かった。恵美の目が便箋の上を動いていた。左から右へ、少しずつ。瀬尾は待っていた。窓の外で風が木の枝を揺らし、葉擦れの音だけが応接間に入ってきた。
恵美の唇が微かに動いた。声にはならなかった。便箋の上を目が往復し、最初から読み直しているようだった。
便箋を持つ手が震え始めた。恵美はそれを抑えようとしなかった。抑えることを忘れているようだった。
「……読みます」
恵美の声が小さかった。自分に言い聞かせるような調子だった。
「恵美へ」
恵美が息を吸った。
「長い間、隠し通せると思っていた。お前には言えなかった。何年も、何年も。自分が何をしてきたか、ここに書く」
恵美の目が便箋の上で止まった。吸い込むように読んでいた。次の言葉が出るまで、数秒かかった。
「水谷さんのこと。あの人には取り返しのつかないことをした。その前にも——名前を書くのは卑怯かもしれない。だが書かなければ意味がない。そして、村瀬さんの娘さんのこと」
恵美の声が硬くなった。口元が引き結ばれ、すぐにまた開いた。「村瀬さんの娘さん」という言葉を読んだとき、恵美の目が便箋から一瞬だけ外れた。
「やめようと思っている。もう誰も傷つけたくない。こんなものを書いたところで償いにはならない。だが書かなければ、自分は何も変わらない」
恵美の呼吸が浅くなっていた。便箋を持つ両手の震えが大きくなった。
「許してほしいとは言わない。ただ、知っていてほしかった。お前に隠していたことが、一番——」
恵美が止まった。便箋の文字が途切れているところだった。万年筆のインクが、最後の一画の途中で紙の上を滑っていた。
「ここで終わっています」
恵美が便箋をテーブルに戻した。両手で。丁寧に。指が震えていた。
「一番——の続きは、書かれていません」
恵美が自分の手を見た。
「私が書斎に入ったからです。この手紙を書いている途中で、私がドアを開けた。主人が顔を上げた。机の上の写真が目に入った。それから——」
恵美の声が途切れた。犯行の瞬間を再び語ろうとして、語れなかった。もう語る必要はなかった。
応接間に音がなくなった。時計の針だけが動いていた。恵美の顔が変わっていた。穏やかさが消えたのではない。穏やかさの下にずっとあったものが、浮き上がってきていた。
「変わろうとしていたんですね」
恵美の声が割れた。この家で、この女性の声が割れるのを、瀬尾は初めて聞いた。葬儀でも。告白のときでも。カーテンの件を認めたときでも。恵美の声は一度も割れなかった。
「あの人は——やめようとしていた。告白しようとしていた。私に。自分がしてきたことを、全部」
恵美の両手が膝の上で握られた。指の関節が白かった。
「変わろうとした夜に、私が殺した」
瀬尾の左手が右手首を掴んでいた。自分で気づいて、力を緩めた。
「読んでいたら、止まっていたかもしれない」
恵美の目がテーブルの上の便箋を見ていた。青いインク。几帳面な字。途切れた文。
「読まなかったから、殺しました」
瀬尾の喉が詰まっていた。何か言わなければならないと思った。弁護士として。あるいは、この場に座っている一人の人間として。言葉が出てこなかった。
恵美が顔を上げた。目が赤かった。涙は流れていなかった。
「許されないことをしたのは、主人も私も同じです。あの人は若い女性を何年も傷つけた。私はあの人を殺した。どちらも許されない」
恵美の声が静かに戻った。割れた声が、元の形に戻ろうとするように。
「でも——あの人は変わろうとしていた。やめようとしていた。その機会を、私が奪った。これだけは——誰のせいにもできません」
恵美が瀬尾を見た。まっすぐだった。
「瀬尾さん。あなたはこれを、どうされるんですか」
瀬尾の背中に冷たいものが走った。恵美は聞いている。瀬尾がこの告白をどう扱うのかを。鞄の中にICレコーダーがあった。前回の訪問から入れてある。恵美の声は、すべてこの中に録音されている。
「わかりません」
瀬尾の声が自分の耳に届いた。嘘ではなかった。
恵美が小さくうなずいた。
「そうですか」
恵美の口癖だった。受け入れるようで、距離を置く言葉。でも今日のそれは、少し違って聞こえた。受け入れるのでも、距離を置くのでもない。待っている声だった。
恵美が立ち上がった。瀬尾も立った。便箋はテーブルの上に残されたままだった。応接間を出て、家族写真のない廊下を歩き、玄関に着いた。
恵美が玄関のドアを開けた。
「お茶も出さずに、すみませんでした」
瀬尾は頭を下げた。何か言おうとして、やめた。靴を履いて、外に出た。
門を出ると、空は曇っていた。さっきまで吹いていた風が止んでいた。住宅街の道は静かで、自分の足音だけが聞こえた。
鞄が重かった。中身は行きと変わらないはずだった。ノート、ペン、書類の束、ICレコーダー。同じ重さのはずだった。
駅への道の途中で、鞄の留め具に右手が触れた。レコーダーの中に、恵美のすべてがある。橋本が変わろうとしていた夜のことも。読まなかったから殺した、という言葉も。村瀬の無実を証明するすべてが、この中にある。これを小山内に渡せば、事件は動く。村瀬は出てこられる。
変わろうとした加害者。限界に達した被害者の妻。娘のために人生を捨てた父。全員が何かを守ろうとして、全員が何かを壊していた。
瀬尾の手が、鞄の留め具の上で止まった。
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