第24話「仮面の下」
応接間の時計が動いていた。恵美は瀬尾を見ていた。瀬尾も恵美を見ていた。リモコンの話が終わったところで、二人の間に言葉がなくなっていた。窓から差す光はさらに傾き、テーブルの半分が影に入っていた。
恵美が息を吸った。長い吸い方だった。肺の底まで入れるような。
「翌朝——リモコンを拾いました。電池を入れ直して、テレビを消しました。コーヒーは入れませんでした。ポットの水をそのまま流しに捨てて」
恵美の視線がテーブルの上を滑った。空のカップ。受け皿。スプーン。すべてが定位置にあった。
「警察に電話しようと思いました」
瀬尾の指が膝の上で止まった。
「受話器を取って、番号を途中まで押しました。一、一——そこで止まりました。三つ目が押せなかった。指が動かなかったのではありません。押す理由を、考えてしまったんです」
恵美の右手が膝の上で開き、閉じた。
「主人を殺したのは私です。それは変わりません。自首するのが当然です。でも——自首して、どうなるのか。裁判になる。動機を聞かれる。主人がしてきたことを、法廷で話さなければならない。水谷さんのことも、あの子のことも。名前の知らない人たちのことも。全部が、ニュースに流れる」
恵美が目を閉じた。二秒。開いた。
「受話器を戻しました」
恵美の声が落ちた。
「居間の椅子に座りました。何もしないで。テレビもつけないで。窓の外を見ていました。庭の木に雀が来て、鳴いて、飛んでいきました。それを見ていました。昼まで。ずっと」
恵美の手がスカートの布地を撫でた。皺を伸ばすような動作だった。
「あの数時間のことは、あまり覚えていません。薬が残っていたのかもしれません。頭がぼんやりして、自分が何をすべきかわからなくなっていました。受話器を置いたことだけが、はっきりしていました」
「昼のニュースを見ました」
恵美の声が少し低くなった。
「朝よりも詳しい報道でした。自首した男の名前が村瀬健一であること。四十八歳。会社員。橋本不動産の社長とトラブルがあったと。動機は——娘のことだと」
恵美の唇が一瞬引き結ばれた。
「知らない人でした。顔も名前も、何も知らない。でもニュースを聞いているうちに、わかったんです。この人は、主人が何をしたか知っている。そしてその被害に遭ったのが、この人の娘だということも」
瀬尾は黙っていた。恵美の言葉を遮る権利は、今の自分にはなかった。
「なぜ自首したのか。やっていないのに。それは——あの子を守るためでしょう」
恵美の声が静かだった。窓の外で鳥の声がした。
「私にはわかりました。自分が殺したのだから、犯人が別にいることは知っている。でもこの人は、自分がやったと言っている。娘が殺したと思っている。だから代わりに自首した。あの夜、主人の家に来ていたんですね。声が聞こえました。男の人の声。あれがこの人だったんだと」
恵美がカップに手を伸ばしかけ、空だったことを思い出したように手を引いた。
「卑怯だと思いました。自分が」
恵美の手は膝の上で動かなかった。自分を「卑怯」と呼ぶ声が、紅茶の注文のように淡々としていた。
「知らない人が、娘のために人生を捨てている。その陰に隠れることができる。自首しなくても、この人が犯人ということになる。私は——」
恵美の背筋が微かに曲がった。犯行を語ったときと同じ、あの姿勢の崩れだった。
「その陰に、隠れることを選びました」
瀬尾の左手が右手首を掴んでいた。指の力を意識的に緩め、膝の上に両手を戻した。
「恵美さん」
声が掠れた。咳払いをして、もう一度。
「一つ、確認させてください。以前——書斎のお話をしたとき、カーテンが閉まっていたとおっしゃいました。報道でご覧になったと」
恵美が小さくうなずいた。
「嘘でした。報道では見ていません」
瀬尾の呼吸が止まった。一秒。
「あの夜、書斎に入りましたから。カーテンは閉まっていました。主人はいつも、夜は書斎のカーテンを閉める人でした。報道で見た、と言ったのは——」
恵美が言葉を探すように視線を落とした。
「考えてもいないのに口から出た言葉でした。瀬尾さんが書斎の話をされたとき、あの夜のことが頭に浮かんで、つい。あとから、しまったと思いました。報道にカーテンの話など出ていないことは、わかっていましたから」
瀬尾はノートもペンも出していなかった。恵美の言葉だけを聞いていた。カーテンの件——あの日の違和感を、ずっと追いかけてきた。恵美が犯行現場にいたから知っていた。それだけのことだった。
「葬儀のことも、お聞きになりたいでしょう」
恵美が瀬尾の目を見た。穏やかな目だった。
「泣けなかったんです」
声が少し細くなった。
「主人の葬儀で、妻が泣かない。参列者がどう思ったか、わかっていました。でも泣けなかった。悲しくなかったのではありません。悲しさとは違う何かが、胸の中にあって。泣く資格がないと思いました。殺した人間が、被害者の葬儀で泣いてはいけないと」
恵美の両手が膝の上で重ねられた。指は震えていなかった。
「だから同じ顔をしていました。誰に対しても。ありがとうございます、と。同じ声で。同じ目で。あれが精一杯でした」
瀬尾の頭の中で、葬儀のときの恵美の姿が蘇った。黒い喪服。背筋の伸びた立ち方。涙の気配のない目。参列者が一人ずつ頭を下げるたびに、同じトーンで「ありがとうございます」と返す声。あのとき瀬尾は、悲嘆を押し殺しているのだと思った。違った。泣かないと決めた人間の顔だった。
「なぜ今になって、話してくださったんですか」
瀬尾の声が低かった。弁護士の声ではなかった。
恵美が窓の外を見た。光が傾いて、庭の木々の影が長く伸びていた。
「瀬尾さんが来たからです」
恵美が瀬尾に視線を戻した。
「あなたが調べ始めたとき、いつかこうなると思いました。カーテンのことを聞かれたとき、もう長くないと。あなたは——止まらない人でしょう。村瀬さんもそうでした。止まらなかった。娘のために、止まらなかった」
恵美の声がほんの少し揺れた。指先が膝の上で動いた。
「あの人は——村瀬さんは、あの夜、主人の書斎に来ていたんですね。主人と言い合いをしていた。書斎から声が聞こえていましたから。そのとき、あの像に触ったのでしょう」
瀬尾の背中に冷たいものが走った。ブロンズ像。女の人の像。三十センチほどの。村瀬は訪問時にそれに触れていた。指紋が残っていた。
「凶器に残っていた指紋は、村瀬さんのものでもあった。動機もあった。あの夜、この家の近くにいた。自白もした。警察が信じたのは、当然だったと思います」
恵美が小さく息を吐いた。
村瀬が自白を構築できたのも、訪問時に書斎の配置を見ていたからだ。指紋も残っていた。ブロンズ像の位置だけが合わなかった——犯行で像が移動した後の位置を、村瀬は知りようがなかった。
瀬尾は恵美を見ていた。恵美も瀬尾を見ていた。応接間の時計が秒を刻んでいた。光がさらに傾いて、テーブルの上のカップの影が長くなっていた。恵美のカップも瀬尾のカップも、とうに空だった。
「あの手紙のことを——」
恵美が口を開きかけた。引き出しに押し込んだ、青いインクの手紙。恵美は目を閉じ、首を小さく横に振った。
「いいえ。今日はここまでにさせてください」
瀬尾はうなずいた。手紙の話は、まだ先にあった。
恵美が立ち上がった。瀬尾も立った。応接間を出るとき、恵美が背を向けたまま言った。
「村瀬さんに——伝えてください。ありがとうございました、と。それから、申し訳ありませんでした、と」
瀬尾は返事ができなかった。玄関の扉が閉まり、靴を履き直す間も恵美の声が耳に残っていた。
外は夕暮れだった。橋本邸の門を出ると、街灯がちょうど点き始めたところだった。住宅街の道を歩きながら、瀬尾の頭の中には一つの構図が組み上がっていた。
村瀬の指紋。村瀬の動機。村瀬の自白。そのすべてが真実の断片だった——殺していないという事実を除いて。警察が自白を疑わなかったのは、当然だった。
駅への道の途中で足が止まった。鞄の中のノートに手を伸ばしかけて、やめた。今日は何も書けなかった。
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