第23話「限界」
恵美は黙っていた。応接間の時計が秒を刻んでいた。瀬尾は口を開かなかった。恵美の目はテーブルの上の紅茶にも、瀬尾にも向いていなかった。あの夜の書斎を、まだ見ている目だった。
窓の外で風が木の枝を揺らす音がした。恵美の肩が微かに動いた。息を吸い直す動作だった。
やがて恵美の唇が動いた。
「写真は——普通の写真でした」
声が低かった。
「顔写真です。証明写真のような。履歴書に貼るような大きさの。それが、万年筆のすぐ横に置いてありました。デスクランプの光の中に」
恵美の右手が膝の上で握られた。
「主人の机の上に、若い女の人の写真がある。それだけなら——それだけなら、まだ」
言葉が途切れた。恵美は息を吸い、吐いた。唇を閉じ、視線をテーブルの上に落とした。冷めた紅茶の水面が動かずにあった。
「私は水谷さんのことを知っていました」
瀬尾の背中が冷えた。水谷沙織。橋本の前任秘書。千鶴の前に、橋本から同じことをされていた女性。
「水谷さんが会社を辞めたとき、主人は何も言いませんでした。私も聞きませんでした。聞かないことにしていたんです。ずっと。何年も」
恵美の声は平坦だった。窓の外を向いたまま、事実を並べるように話していた。
「でも知っていました。主人がどういう人間か。若い女性を近くに置いて、何をするか。水谷さんだけではありません。その前にもいました。名前も知らない人たちが。私が知らないだけで、向こうにはそれぞれ名前があって、生活があったのでしょうけれど」
恵美が初めてカップに手を伸ばした。持ち上げ、口をつけた。冷めた紅茶を一口飲み、カップを戻した。磁器が受け皿に当たる音が、静かな部屋に響いた。
「関わらないことにしていました。前にもお話ししましたね。主人のことには、関わらない。それが私のやり方でした」
瀬尾は小さくうなずいた。前回、恵美が同じ言葉を口にしたときの声を覚えていた。
「写真を見たとき、わかりました。あの子にも同じことをしていたんだと。村瀬さんの娘さんにも」
恵美の指がカップの取っ手から離れた。
「あの子はまだ二十代でしょう。水谷さんもそうでした。主人はいつもそうだった。若い子を選んで、逃げられないようにして」
恵美の背筋が、ほんの少し曲がった。この部屋に来てから初めてのことだった。
「私はそれを知っていて、何もしなかった。何年も。水谷さんのときも、その前のときも。目を閉じて、朝を待って、何事もなかったような顔をして。そういう妻でした」
「写真を見て、机から目を上げました」
恵美の声が変わった。速度が落ち、言葉と言葉の間に隙間ができた。瀬尾は椅子の上で背筋を伸ばした。
「主人がこちらを向いていました。椅子を回して、こちらを見ていました。何か言ったと思います。私の名前を呼んだのか、どうして起きてきたのかと聞いたのか——覚えていません。薬が、頭の中をぼんやりさせていて。主人の口が動いているのは見えるのに、言葉が遠かった」
恵美の目が瀬尾を通り越していた。この部屋ではなく、あの夜の書斎にいた。
「足が重かった。廊下を歩いてきたときと同じです。床に足が貼りついているような。でも手は動きました」
恵美の右手が膝の上でゆっくりと開き、何かを掴むように閉じた。無意識の動作だった。瀬尾はその手を見ていた。
「机の横に、ブロンズの像がありました。主人が海外の出張で買ってきたもので、ずっとあそこに置いてあったんです。女の人の像です。三十センチくらいの。重い像でした」
瀬尾の呼吸が浅くなった。膝の上の両手が、無意識に握られていた。
「持ち上げたとき、冷たかった。ブロンズの冷たさが手のひらに伝わって——そこだけはっきり覚えています。手が冷たいと思ったんです。それ以外のことは、あまり覚えていません。主人の顔も、自分が何を考えていたかも。ただ、手が冷たかった」
恵美が言葉を切った。応接間の時計が三秒を数えた。
「一回です」
瀬尾の指が膝の上で白くなった。
「一回だけ、振り下ろしました」
恵美の声に抑揚はなかった。
「音がしました。鈍い音です。その音が——ずっと耳に残っています。今でも、静かな部屋にいると聞こえることがあります」
恵美の右手が膝の上で開かれた。手のひらを見るように。すぐに閉じた。
「主人は椅子から崩れました。床に。また音がしました。さっきとは違う音です。人が倒れる音というのは、ものが倒れる音とは違うんです。もっと重くて、もっと長い」
瀬尾は何も言えなかった。恵美の言葉を受け止めること以外に、この場でできることはなかった。応接間に差す午後の光が、二人の間のテーブルを斜めに横切っていた。
「手から像を離せませんでした。しばらく握ったまま立っていました。どのくらいだったか。一分か、五分か。薬のせいで時間の感覚がなくて。足元がふわふわして、自分がどこに立っているのかもよくわからなかった」
「気がついたとき、書斎の床に像を置いていました。いつ手を離したのか覚えていません」
恵美の語りが再び動き始めた。速度は遅いままだった。
「机の上を見ました。写真がありました。手紙もありました。主人が書いていた——さっき万年筆で書いていたものです。読みませんでした。読む余裕がなかった。写真と手紙を一緒に引き出しに押し込みました。下段の引き出しです。奥の方に」
瀬尾の頭の中で、あの書きかけの手紙が浮かんだ。青いインクの几帳面な字。「長い間、隠し通せると思っていた」——あの手紙を引き出しに押し込んだのは、恵美だった。
「机の上を拭きました。何で拭いたのか覚えていません。何かの布で。汚れていたわけではないんです。ただ、きれいにしなければと思って」
恵美が目を閉じた。三秒。開いた。
「それから廊下に出ました。玄関の脇にセキュリティの操作パネルがあるんです。カメラを止めました。暗証番号は——体が覚えていました。何も考えずに指が動きました。なぜカメラを止めたのか、そのときはわかっていませんでした。後から考えれば、誰かに見られることが怖かったんだと思います」
23時11分。管理会社の技術者・野崎が解析したログの時刻と一致した。
「外に出ました。玄関で靴を履いて、駐車場まで。裸足のままでは寒くて——いえ、寒かったからではありません。外に出なければと思ったんです。誰かに見られていないか確かめなければと」
恵美の声が少し速くなった。
「誰もいませんでした。駐車場にも、道路にも。街灯の下に自分の影だけがあって。それだけ確認して、戻りました」
24センチの足跡。恵美が裸足で廊下を歩き、玄関で靴を履いて駐車場に出た。あの足跡は、このときのものだった。瀬尾が何ヶ月もかけて追いかけてきた痕跡の正体が、恵美の言葉の中に収まっていった。
「靴を脱いで、階段を上がって、寝室に戻りました。手を洗いました。洗面台で、水だけで。それからベッドに入って、目を閉じました」
恵美の声が少しだけ遠くなった。
「眠れたのかどうか、わかりません。気がついたら朝の光が窓から入っていました。薬が、最後には効いたのかもしれません」
恵美はそこで言葉を止め、冷めた紅茶を一口飲んだ。カップを受け皿に戻す動作が、ひどく丁寧だった。
「翌朝、テレビをつけました」
恵美の声が変わった。平坦だった語りに、初めて細い震えが混じった。
「いつもの朝と同じようにリビングに降りて、カーテンを開けて、テレビをつけました。コーヒーを入れようとしたんです。ポットに水を入れて、スイッチを押して。そこまでは普通の朝でした」
恵美の手がテーブルの上で止まった。
「ニュースの音声が聞こえてきました。橋本不動産の社長が自宅で殺害され、容疑者の男が自首したと。私はキッチンからリビングに戻りました。画面を見ました。男の名前が出ていました。村瀬健一」
恵美の両手が膝の上で握られた。
「知らない名前でした。主人を殺したのは私です。なのに、知らない男が自首した。画面の中で、その男の名前と年齢と職業がテロップで流れていました。顔写真も。見たことのない顔でした。私はソファに座ったまま——」
恵美が瀬尾を見た。
「リモコンを持っていたんです。手の中に。でもニュースを見ているうちに、指の力が抜けて」
恵美の声が途切れた。窓から差す光の角度が変わっていた。二人がこの応接間にいる間に、午後が傾き始めていた。
「落としました。リモコンを。フローリングに当たって、乾いた音がして。電池の蓋が外れて、電池が一本転がっていきました。その音で——前の夜のことではなく——知らない人が、私の代わりに自首したのだということが、わかりました」
応接間が静まった。時計の秒針だけが動いていた。恵美は瀬尾を見ていた。穏やかな目だった。葬儀のときと同じ——笑っていない、泣いてもいない、ただそこにある目。瀬尾はその目を見返した。何かを言うべきだったのかもしれない。弁護士として。人間として。だが言葉は出なかった。左手が右手首を掴んでいた。
恵美が紅茶のカップに手を伸ばし、やめた。カップはもう空だった。
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