第12話「30分の真実」

殺したのは本当に村瀬か。


ノートの最後のページに書いた問いが、一晩経っても消えなかった。瀬尾はペンを持ったまま、その文字の上に視線を置いていた。隣の行には昨日書いた別の引っかかり——「橋本の『家族』——村瀬が避けた話題」。二つの問いが並んでいる。どちらにも答えが出ない。


村瀬の感情は本物だった。千鶴の話題で露わになった怒り、「あの男は」と言いかけて止まった声。あれは演技ではない。だが怒りがあったことと、殺したこととは別の話だ。


ペンの尻で「家族」の文字を叩いた。あのとき村瀬が見せた反応は、千鶴のときとは質が違った。怒りではなく回避。何かを見ないようにしている目だった。だが今はここを追っても形にならない。


感情の先に進む。証拠で詰める。


瀬尾はノートを閉じ、携帯電話を手に取った。登録した番号を呼び出す。安西悟。橋本邸のセキュリティ管理を担当する管理会社の社員。以前、監視カメラの空白を「機器の不具合」として片づけた男だ。三月の朝の光が事務所の壁に当たって、白い四角を作っていた。


三コールで出た。


「安西さん、以前お話を伺った国選弁護人の瀬尾です。監視カメラの空白の件で、改めてお聞きしたいことがあります」


電話の向こうで息を吐く音がした。


「あれは不具合だとお伝えしましたけど」


「ええ。ですが弁護人として、技術的な裏付けが必要になりました。ログデータを確認できる方をご紹介いただけませんか。正式な依頼書をお出しします」


安西は黙った。依頼書という言葉が効いたのだろう。数秒の間があって、「うちの技術担当に確認します」と言った。声に渋りはあったが、拒否はしなかった。


電話を切り、瀬尾はノートを開き直した。カメラの空白。二十三時十分から翌零時十分。村瀬が橋本邸を去ったのが二十二時四十分。村瀬が帰って三十分後に、カメラが止まっている。この三十分の間に何が起きたのか。不具合でないなら——誰かが意図的に止めたことになる。


その「誰か」を特定できれば、事件の形が変わる。


翌日の午後、瀬尾は管理会社のオフィスにいた。会議室というには狭い部屋で、窓がなく、蛍光灯の光だけが白い壁を照らしている。換気口からかすかに機械音が漏れていた。テーブルの上にノートパソコンが一台。画面に向かっているのは野崎という技術者だった。四十代半ば、眼鏡の奥の目が画面の文字列だけを追っている。安西が紹介したとき、「ログなら読めます」とだけ言った男だった。


瀬尾はテーブルの端に座り、ノートを開いていた。野崎の指がキーボードを叩く音が、換気音の隙間を埋めている。安西は部屋の隅の椅子に座っていた。足を組み替える音が、ときどき聞こえた。


「該当日のログ、出ました」


野崎が画面を瀬尾の方に向けた。黒い背景に白い文字が並んでいる。タイムスタンプと、瀬尾には意味の取れないコードの羅列。野崎にとっては文章のように読めるのだろう。指が迷いなく一行を示した。


「ここです」


「二十三時十一分四十二秒。カメラ二番と三番に停止コマンドが送信されています」


「停止コマンド」


瀬尾はペンを握ったまま繰り返した。


「ええ。異常切断ではないです。正常な手順で停止命令が出ている。機器の不具合でカメラが止まった場合、エラーログが残ります。それがない」


野崎が画面の別の行を指して、エラーログが記録される領域を見せた。該当時刻の前後に、エラーの記録は一つもなかった。


「つまり、誰かが正規の手順でカメラを止めたということですか」


「そうです」


野崎の声に感情がなかった。事実を読み上げているだけだった。瀬尾は書いた。「23:11:42——停止コマンド。エラーログなし。正規手順」。


「復旧はどうなっていますか」


野崎が画面をスクロールした。


「翌零時十分。自動復旧です。停止コマンドには有効期限があって、期限が切れるとシステムがデフォルトの動作状態に戻る。約一時間で切れる設定になっています。復旧側には操作の痕跡がないので、止めた人間が手動で戻したわけではありません」


止めたまま放置した。あるいは、戻すことまで頭が回らなかった。


「この停止コマンドは、どこから送信されたものですか」


「コマンドのソースIDを確認します」


野崎がキーボードを数回叩いた。画面がスクロールして、別の表が表示された。野崎の指が止まった。眼鏡の奥の目がわずかに細くなった。技術者として、何か予想と違うものを見たときの反応だった。


「邸内のセキュリティ操作パネルからです」


「邸内」


「はい。リモート操作ではありません。橋本邸の玄関脇にある収納内に操作パネルが設置されているんですが、そこからの信号です。ソースIDが邸内パネルの固有番号と一致しています」


瀬尾のペンの先がノートの上で止まった。「邸内操作パネルから」と書き、その下に線を引いた。


「不具合じゃないですね、これ」


野崎が言った。声は変わらず平坦だったが、事実として誤りを訂正する技術者の口調だった。隅の椅子で安西が身じろぎした。


「野崎さん、この操作パネルは訪問者でも使えますか」


野崎は首をかしげた。技術的な問いとして受け取り、技術的に答えた。


「場所を知っていて、暗証番号を知っていれば、物理的には可能です。ただ、暗証番号は契約時に住人にだけ通知されます。管理会社の人間は業務用の別コードで操作しますので、住人用の暗証番号は管理会社でも使いません」


「暗証番号を住人以外が知る方法は」


「住人が教えない限り、ないです。パネル自体が玄関脇の収納の中に隠れているので、存在を知っている人間も限られます。設置工事の担当者と、住人と、管理会社の担当者。それだけです」


瀬尾はノートに書き足した。「暗証番号——住人のみ通知。管理会社は別コード。パネルの場所を知る者も限定的」。


「このログデータのコピーをいただけますか」


「書面で正式に依頼いただければ」


「今日中にお送りします」


野崎はうなずいて、画面に向き直った。瀬尾は椅子から立ち上がりかけて、もう一つだけ聞いた。


「停止コマンドを出した時刻——二十三時十一分。これは操作パネルの前に立って操作した時刻そのものですか。タイムラグは」


「ほぼリアルタイムです。パネルからの信号は数秒以内にサーバーに届きます」


二十三時十一分。誰かがあの家の中で、操作パネルの前に立っていた。


管理会社のビルを出ると、三月の風がコートの前を煽った。瀬尾は駅に向かう歩道を歩きながら、鞄からノートを取り出した。


不具合ではなかった。


安西が「機器の不具合です」と言ったあの空白。三年間の稼働で一度だけ起きた三十分の沈黙は、誰かが邸内の操作パネルからカメラを止めた結果だった。正規の手順で。暗証番号を入力して。


村瀬は二十二時四十分に橋本邸を去っている。カメラが止められたのは二十三時十一分。村瀬が帰った三十一分後に、邸内にいた誰かがセキュリティシステムに手を伸ばした。


村瀬にはできない。操作パネルの場所も暗証番号も、訪問者に知らされることはない。


信号が変わった。立ち止まって待つ間に、スマートフォンのメモに時系列を打ち込んだ。


22:00 村瀬、橋本邸訪問

22:40 村瀬、退去

23:11 セキュリティ停止コマンド(邸内パネルから)

0:10 カメラ自動復旧(有効期限切れ)


村瀬が去って三十一分後。邸内から。暗証番号を知る人間が操作した。


邸内にいたのは橋本雄一郎と、妻の恵美。橋本が自分でカメラを止める理由があったのか。深夜に、自宅の防犯カメラを。何のために。


恵美のことを考えた。「十時頃に睡眠薬を飲みました」「飲むと朝まで目が覚めません」。二十三時十一分に操作パネルの前に立つことは、あの証言と両立しない。


信号が青に変わった。瀬尾は歩き出しながら、スマートフォンの画面を消さなかった。


橋本本人が止めた可能性。恵美が起きていた可能性。あるいは、管理会社の人間が業務用コードではなく——いや、ログには「住人用パネルからの信号」と記録されている。業務用コードではない。


橋本か、恵美か。村瀬はそのどちらでもない。


駅の階段を降りながら、瀬尾はノートを鞄に戻した。ホームに立つと、線路の向こうから電車のヘッドライトが近づいてくるのが見えた。


村瀬はセキュリティシステムの操作方法を知らない。カメラを止めたのは、村瀬ではない。


では——誰が。

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