第13話「知りすぎた妻」

事務所のコーヒーメーカーが湯気を上げる音で、瀬尾は顔を上げた。ノートの時系列を開いたまま、いつの間にか止まっていたらしい。二十三時十一分、邸内のセキュリティ操作パネルから停止コマンド。暗証番号は住人にのみ通知され、管理会社は業務用の別コードを使う。村瀬は訪問者だ。パネルの場所も番号も知らない。


では誰が。


橋本雄一郎本人。被害者だ。自宅の防犯カメラを深夜に止める理由が見えない。村瀬を帰した後で、わざわざ。


管理会社。だが住人用パネルからの操作だとログに記録されている。管理会社の人間が住人の暗証番号を使った可能性はゼロではないが、野崎は管理会社が暗証番号を持たないと証言した。


恵美。暗証番号を知っている。パネルの場所を知っている。邸内にいた。だが「十時頃に睡眠薬を飲んだ」「飲むと朝まで目が覚めない」と証言している。二十三時十一分に操作パネルの前に立てるのか。


断定する材料がない。だが消去法の先に恵美がいる。


瀬尾はノートを閉じた。机の端に、田辺から昨日届いたメモがある。「水谷沙織さんの連絡先、見つかりました」。元同僚のつてを辿ってくれたものだった。前任秘書。藤川が「水谷さんのときも似たようなことがあった」と語った、あの女性。


二件の用事がある。恵美にもう一度会うこと。そして水谷に会うこと。


携帯を手に取り、橋本邸の番号を呼び出した。


恵美は前回と同じように瀬尾を居間に通した。テーブルの上に紅茶が二つ。湯気の立ち方で、瀬尾が来る前に用意していたことがわかった。


「何度も申し訳ありません」


「いいえ。お仕事でしょう」


恵美はカップを持ち上げた。指が安定している。化粧は薄く、髪はきちんとまとめられていた。カップをソーサーに戻す動作に迷いがない。この家の中にいる限り、この人の姿勢は崩れないのだろう。


「事件当日のことで、改めてお聞きしたいことがあります」


「ええ、どうぞ」


「ご主人が村瀬さんと会った夜のことです。村瀬さんが来たとき、恵美さんはすでに二階にいらっしゃったんですね」


「ええ。十時頃には薬を飲んで横になっていました。あの日は特に体調が悪くて——頭痛がしていたので、早めに」


「村瀬さんが来たことは」


「知りませんでした。翌朝、主人が亡くなっているのを見つけるまで、何も」


恵美の声は平坦だった。語られる内容の重さに対して、声が軽い。だが前回もそうだった。葬儀のときも。この人はそういう話し方をする。


「書斎のことをお聞きしてもいいですか」


「書斎」


「はい。ご主人はよく書斎で仕事をされていましたか」


「ほぼ毎晩。あの人は——仕事が好きでしたから。夕食を済ませると、すぐに書斎に行っていました。十時、十一時まで戻ってこないこともありました」


瀬尾は紅茶を一口飲んだ。温度がちょうどよかった。恵美が客を迎える手際には慣れがある。来客があることを前提にした暮らしを、長く続けてきた人の手つきだった。


居間は整っていた。前回来たときと何も変わっていない。飾り棚の処方薬のパッケージも同じ場所に並んでいる。この家には、橋本が死んだあとも変わらない日常がある。


「書斎はどんな部屋でしたか」


「窓が南向きで、昼間は明るい部屋です。机が窓の前にあって、本棚が壁を埋めていて。あの人のコレクションが飾ってありました。ブロンズ像や、絵画の小品。あの晩はカーテンが閉まっていたでしょう。暗い部屋だったと思います」


恵美が紅茶のカップをソーサーに戻した。小さな音がした。


「報道で見ました。書斎の写真が出ていたので」


瀬尾の指がカップの取っ手に触れたまま止まった。


カーテンの開閉。瀬尾は現場検証の資料を何度も読み返している。書斎のカーテンが閉まっていたという記述は、報道の中にはなかった。現場写真がテレビや新聞に出たことはあるが、カーテンの開閉を報じた記事があったか。記憶にない。


「報道で、ですか」


「ええ。テレビだったか、新聞だったか——はっきりとは覚えていませんけど」


恵美の顔に動揺はなかった。思い出すように少し首をかしげて、それだけだった。嘘をつく人間の顔ではない。本当に報道で見たと思い込んでいるか、あるいは——。


瀬尾はそこで踏み込まなかった。今ここで追及すれば恵美は身構える。この違和感は持ち帰る。カップを持ち上げ、紅茶を飲んだ。


話題を変えた。


「ご主人のお仕事のことですが——会社では人望のある方でしたか」


「そうですね。社員さんにはよくしていたと思います。忘年会には必ず出て、若い社員の名前も覚えていましたし」


恵美は夫の話をするとき、自分のことを語らない。夫がどんな人間だったかは話すが、夫との間に何があったかは語らない。


「ご主人は——良い夫でしたか」


間があった。紅茶の湯気がテーブルの上でかすかに揺れていた。


「普通の夫婦でした」


前回と同じ答えだった。同じ言葉、同じ声のトーン。繰り返しではなく、最初からその答えしか用意していないように聞こえた。


「ありがとうございます。今日はこれで」


玄関まで見送られる途中、恵美が言った。


「あの人は——良い人でしたよ」


振り返ると、恵美は廊下の壁に手をついていた。家族写真のない壁。顔は穏やかだったが、「良い人」という言葉の末尾に、何か硬いものが混じっていた。


水谷沙織は、瀬尾が指定した駅前の喫茶店に五分遅れで現れた。三十代前半。髪を後ろで一つに束ね、紺色のコートを着ている。席に着くとき、鞄を体の前で抱えるように持っていた。


「お忙しいところすみません。電話でお話しした瀬尾です」


「はい」


水谷は椅子に浅く腰かけた。目が合うと視線を外した。コーヒーを注文してから、両手をテーブルの下に隠した。


「橋本不動産にお勤めだったとお聞きしました」


「三年ほど。事務で入って、途中から——社長のそばで仕事をするようになりました」


「秘書のような」


「そう呼ばれていました」


水谷の声は低く、抑揚がなかった。


「辞められた理由を伺ってもいいですか」


水谷はコーヒーに目を落とした。指がカップの縁をなぞった。


「合わなくなった、としか」


瀬尾は間を置いた。テーブルの横を店員が通り過ぎ、食器の音がした。


「水谷さん。お名前を出すことはしません。ただ、聞いていただきたいことがあります。橋本さんのもとで、水谷さんの後に秘書をしていた女性がいます。村瀬千鶴さんという方です」


水谷の指がカップの上で止まった。


「その方も、事件の一週間前に退職しています」


水谷が顔を上げた。目の奥に、瀬尾がこれまで見たどの表情とも違うものが走った。


「あの子も」


声が小さかった。


「詳細はお話しできません。ただ、橋本さんのもとで働いていた方が複数、同じように突然辞めている。その事実を確認しています」


水谷はテーブルの上に視線を落としたまま、しばらく黙っていた。喫茶店の窓の外をバスが通り、影がテーブルの上を横切った。


「辞めるしかなかったんです」


水谷が言った。


「誰にも言えなかった。言ったところで——あの人は社長で、私はアルバイトで。誰が信じるんですか」


瀬尾は何も言わなかった。


「具体的に何があったかは——すみません。まだ言葉にできません」


「無理にとは申しません」


水谷がコーヒーを一口飲んだ。カップを置く手が、わずかに震えていた。


「でも、あの子も同じだったんですね」


瀬尾はうなずいた。


水谷が息を吸い、吐いた。小さな呼吸だった。


「私がいなくなった後も、同じことを」


その言葉は瀬尾に向けられたものではなかった。窓の外の、もうここにいない誰かに向けられていた。


駅に向かう歩道で、瀬尾はノートを開いた。


恵美の言葉を書いた。「あの晩はカーテンが閉まっていたでしょう」。その下に、「報道で見ました」。


報道を確認する必要がある。事件を報じたテレビ番組、新聞記事。カーテンの開閉に言及したものがあったか。瀬尾の記憶にはない。現場検証報告書にも、カーテンの状態が記載されていたか。


もし報道にも検証報告にもなかったら。恵美はあの書斎を見た人間だ。カーテンが閉まっていることを、自分の目で確認した人間だ。


ペンの先がノートの上で止まった。「報道で見ました」。あの声が耳に残っている。嘘の気配はなかった。だからこそ引っかかる。


水谷の「あの子も」という声も、まだ消えていなかった。橋本は千鶴だけではなかった。その前にも同じことをしていた。そしておそらく、水谷の前にも。


恵美は「良い人でしたよ」と言った。あの言葉の末尾にあった硬さ。恵美は夫が何をしていたか、知っていたのではないか。


ノートを閉じた。事務所に戻ったら、報道記録と検証報告書を一つずつ確認する。


カーテンの状態は報道されていない——瀬尾の記憶ではそうだ。だが記憶は当てにならない。確認が先だ。

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