第11話「父の怒り」
千鶴退職——1週間——橋本殺害。
ノートの文字が、昨日書いたときより黒く見えた。瀬尾はペンの尻でその行を叩き、止めた。田辺の証言、藤川の証言。二人の言葉は違うのに、浮かび上がる形は同じだった。「急に元気がなくなった」「春と秋で別人だった」。千鶴に何があったか。それはもう、言葉にしなくてもわかる。
問題はそこではない。
村瀬がそれを知っていたのかどうか。知っていたとすれば、いつから。面会室で千鶴の名前が出るたびに握られた右手。初めて会ったときからあった反応の意味が、今は違って見える。
瀬尾はペンを置き、椅子の背にもたれた。事務所の窓から差し込む光が、ノートの上に四角い影を作っている。村瀬に会う。千鶴の話題を正面から出せば壁を作られる。これまでと同じだ。だが橋本不動産の名前を出したことはない。千鶴の側からではなく、橋本の側から切り込めば、反応が変わるかもしれない。
コーヒーカップに手を伸ばした。中身は冷えていた。飲まずに立ち上がり、コートを手に取った。
拘置所の受付で面会の手続きをしている間、瀬尾は自分の指先が冷たいことに気づいた。三月に入ったが、朝の空気にはまだ冬の名残があった。指先を握り込み、左手で右手首を掴んだ。
面会室のドアを開けると、いつもと同じ蛍光灯の白さが目に入った。アクリル板の向こうに村瀬が座っている。短く刈られた白髪交じりの髪、目の下の隈。いつもの几帳面な姿勢で、両手を膝の上に置いている。瀬尾が椅子に座ると、村瀬が軽く頭を下げた。
「村瀬さん、橋本不動産という会社をご存じですか」
挨拶を省いた。意図的だった。間を与えない。
村瀬の手が動かなかった。顔も動かなかった。ただ、息を吸うタイミングが一拍遅れた。
「……存じません」
嘘だった。これまでの面会で、村瀬が知らないことを聞かれたときは「わかりません」と言った。「存じません」は丁寧さの中に距離を入れる言い方で、村瀬が壁を作るときの言葉だった。
「千鶴さんがそこでアルバイトをされていたことは」
膝の上の右手が、指一本ずつ折れるように拳を作った。村瀬は瀬尾の目を見ていた。視線を合わせたまま、何も言わなかった。
瀬尾はノートを開かなかった。手元に目を落とせば、村瀬が壁を閉じる時間を与えることになる。
「千鶴さんは橋本不動産で事務のアルバイトをされていました。途中から橋本社長の近くで仕事をするようになった。社長の直接の指名だったそうです。総務には事後報告で」
村瀬の拳が白くなった。指の関節が浮いている。
「秋頃から千鶴さんの様子が変わったと、複数の方が証言しています。挨拶のときの笑顔がなくなった。目を合わせなくなった。給湯室で泣いていたのを見た人もいます」
村瀬の喉が動いた。唾を飲み込む音が、アクリル板越しにかすかに聞こえた。
「同僚の方が目撃しています。橋本さんが千鶴さんの肩に手を置いていたところを。千鶴さんは笑っていたけれど、体は固まっていた、と」
「先生」
声が低かった。面会室で聞いたどの声とも違った。喉の底から出てきたような、押し殺しきれなかった声だった。
「もう——」
「村瀬さん」
瀬尾は遮った。自分でも驚くほど静かな声だった。
「橋本さんが千鶴さんに何をしていたか、ご存じだったんですね」
村瀬の目が変わった。穏やかさが消えた。唇が開いた。声は震えていた。
「あの男は——」
言いかけて、止まった。歯を食いしばるように顎が引かれ、首筋に筋が浮いた。アクリル板に映る蛍光灯の光が、村瀬の額の汗に反射した。右の拳が膝を叩いた。音はアクリル板に遮られてくぐもっていたが、衝撃で村瀬の上半身が揺れた。
瀬尾は動かなかった。息を止めていた。
村瀬の口が開いたまま、言葉が出なかった。喉が何度か動いた。何かを飲み込むのではなく、何かを押し戻しているように見えた。目は瀬尾を見ていなかった。アクリル板も、蛍光灯も、面会室の壁も見ていなかった。ここではないどこかを——千鶴の肩に手を置いた男の姿を見ていた。
十秒ほどして、村瀬は目を閉じた。長い息を吐いた。吐き切って、もう一度吸って、それからまた吐いた。両手を膝の上に戻し、指を一本ずつ開いた。目を開けたとき、村瀬の顔は元に戻っていた。ただし、完全にではなかった。目の奥に消えずに残っている光が、さっきまでとは質が違う。
「もう十分です」
声は平坦だった。だが喉の奥で、何かが軋んでいた。
瀬尾は引き下がらなかった。
「事件の夜、橋本さんに会いに行ったのは、千鶴さんのことがあったからですか」
村瀬は答えなかった。否定もしなかった。右手が再び握られかけて、途中で止まった。握ることすら意識しているのだと、瀬尾は思った。自分の反応が弁護人に読まれていることに、村瀬は今さっき気づいた。
「橋本さんのご家族とは、面識がありましたか」
反応が変わった。千鶴の話題のときとは違う種類の変化だった。村瀬の視線がわずかに逸れた。右でも左でもなく、瀬尾の肩のあたりに落ちた。拳は作っていない。手は膝の上で開いたままだった。
「……いえ」
声が低いのは同じだったが、力の入り方が違った。千鶴のときは内側から押し出されるような熱だった。今の声には熱がない。代わりに、何かから目をそらすときの硬さがあった。
「橋本さんの奥様にお会いしたことは」
「ありません」
早かった。ほかの返答と比べて、間がなかった。村瀬はこの話題を終わらせようとしていた。千鶴のことではそうしなかった。感情が溢れ出しはしたが、話題自体を打ち切ろうとはしなかった。家族の話題にだけ、別の反応がある。
瀬尾はその速さをノートに書かなかった。頭に入れた。
面会終了の合図が鳴った。村瀬が椅子から腰を浮かせかけて、止まった。
「先生」
瀬尾は立ち上がりかけた姿勢のまま、村瀬を見た。
村瀬の顔は、さきほど感情が溢れる前の穏やかさに戻っていた。だが目だけが違った。懇願の目だった。
「千鶴には……会わないでください」
命令ではなかった。最初に「調べないでください」と言ったときと同じ声の質だが、もっと剥き出しだった。丁寧語の奥から出てきた声だった。
「村瀬さん、千鶴さんを守りたいのはわかります。でも——」
「お願いします」
村瀬は頭を下げた。アクリル板に額が近づいて、止まった。白髪交じりの頭頂部が瀬尾の目の前にあった。その姿勢のまま、動かなかった。
看守が面会室のドアを開ける音がした。
拘置所の門を出ると、三月の風がコートの裾を揺らした。空は薄い雲に覆われていて、日差しはあるのに温度がなかった。瀬尾は歩道のベンチに座り、ノートを開いた。
村瀬の反応を、時系列で書き留めた。橋本不動産の名前——息を吸うタイミングが遅れた。千鶴のアルバイト——拳が作られた。橋本の行為——「あの男は」。膝を叩いた拳。目を閉じて呼吸を整える時間。「もう十分です」。
あの瞬間、村瀬は被告人ではなかった。娘を傷つけた男への怒りに震える父親だった。
事件の夜、橋本に会いに行った。自白の内容と一致する——村瀬は橋本邸を訪れ、書斎で橋本と対面した。自白では「ブロンズ像で殴打した」となっている。
だが、とペンが止まった。
村瀬の訪問は二十二時から二十二時四十分。監視カメラの空白は二十三時十分から翌零時十分。村瀬が去って三十分後にカメラが止まっている。村瀬が殺したなら、カメラを止める必要がない。村瀬にはセキュリティシステムを操作する手段もない。
村瀬は殺しに行ったのではなく、問い詰めに行ったのではないか。そして帰った後に、何かが起きた。
ペンを止めた。もう一つ。橋本の家族について聞いたときの村瀬の反応。千鶴のときとは明らかに違う反応。怒りではなく、回避。あれは何だったのか。
スマートフォンを取り出し、メモに打ち込んだ。
橋本の「家族」——村瀬が避けた話題。なぜ。
風が首筋に当たった。瀬尾はスマートフォンを握ったまま、バス停に向かって歩き出した。
村瀬は橋本が千鶴に何をしたか知っていた。事件の夜、橋本に会いに行った。それは自白通り。だが——殺したのは、本当に村瀬なのか。
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