第10話「橋本の裏の顔」

ノートを開いたまま、瀬尾はコーヒーを淹れ直した。


昨日書いた恵美に関するメモが目に入る。「22:00 睡眠薬」「恵美——何も知らない。村瀬の来訪も?」。あの目。口元は穏やかで、目だけが別の温度をしていた。引っかかりは消えていない。だが恵美に再度会いに行って何を聞くのか。睡眠薬の正確な時刻を問い詰めたところで、「十時頃」以上の答えは出ないだろう。


ページをめくった。数日前の記述がある。


千鶴——橋本不動産アルバイト。前任秘書・水谷——突然退職、所在不明。


田辺の声が耳に戻ってきた。「社長の近くで仕事をするようになって」「秋くらいから、急に元気がなくなって」「事件の一週間くらい前に、突然辞めた」。そして「橋本社長と何かあったらしい」。田辺はそれ以上言わなかった。サンドイッチを潰していた指の力が、言葉の代わりだった。


千鶴の事務所訪問を思い出す。「父は犯人じゃない。でもこれ以上調べないで」と言った千鶴の視線が、机の上のノートに落ちた瞬間があった。「千鶴——橋本不動産アルバイト」の行が見えたかもしれない。


田辺だけでは足りない。橋本不動産にいた別の人間に当たる必要がある。


瀬尾はノートパソコンを開き、橋本不動産の登記情報と過去の求人を改めて検索した。社員レビューサイトを遡り、投稿者のプロフィールを一つずつ確認する。三十分ほどかけて、総務にいたという男性の投稿を見つけた。藤川。半年前に退職。レビューの文面は淡々としていたが、「職場環境」の評価だけが低い。投稿のプロフィールからSNSのアカウントを辿り、そこに記載されていた連絡先を見つけた。藤川俊介。


電話をかけた。四回のコールで出た声は低く、慎重だった。村瀬健一の弁護人であること、橋本不動産の職場環境について話を聞きたいことを伝えると、長い間があった。


「明日の昼なら」


藤川が指定したのは、橋本不動産のビルから二駅離れたチェーンのカフェだった。古い会社の近くでは会いたくない、ということだろう。平日の昼過ぎで客はまばらだ。奥の席に先に着いていた藤川は、四十代半ばの細身の男性で、紺のジャケットにノーネクタイ。コーヒーカップを両手で包むように持っていた。テーブルの上にはコーヒー以外何もない。鞄は椅子の横の床に置かれている。


瀬尾が名刺を渡すと、藤川は受け取って一度目を落とし、テーブルの端に置いた。名刺の角をまっすぐにしてから、顔を上げた。


「橋本不動産には八年いました。総務です。半年前に辞めて、今は別の会社に」


「辞められた理由は」


「いろいろあって」


藤川はコーヒーを一口飲んだ。その「いろいろ」を掘る場面ではない。瀬尾は頷き、ノートを開いた。


「村瀬千鶴さんのことを伺いたいんです」


藤川のコーヒーカップが止まった。口元に運ぶ途中で、そのまま静止した。二秒ほどしてからカップをソーサーに戻した。


「千鶴さん。ええ、知っています」


「橋本不動産でアルバイトをされていたと聞いています。勤務の状況を教えていただけますか」


藤川は背もたれに寄りかかった。窓の外に目をやる。通りを行く人の影がガラスに映っている。


「最初は事務のアルバイトでした。ファイリングとか、電話の取次ぎとか。普通の仕事です。でも二ヶ月くらいで、いつの間にか社長室に出入りするようになっていた」


「社長が指名したんですか」


「そうです。社長が直接。スケジュール管理と来客対応を任せる、と。総務には事後報告でした」


瀬尾はペンを走らせた。藤川は話しながらコーヒーに手を伸ばし、持ち上げ、飲まずにまた置いた。


「社長室で千鶴さんはどんな仕事を」


「スケジュール管理、と聞いてました」


聞いてました。伝聞の形だった。瀬尾はペンを止めずに待った。


「社長室は三階の奥にあって、総務からは見えない場所なんです。千鶴さんが何をしているか、正確には誰も把握していなかった」


藤川の指がテーブルを叩いた。一度だけ、軽く。無意識のようだった。


「千鶴さんが辞めた前後のことを教えてください」


藤川の視線が瀬尾に戻った。口を開きかけて、閉じた。コーヒーカップに手を伸ばし、今度は一口飲んだ。カップをソーサーに戻す音が、さっきより大きかった。瀬尾はペンをノートの上に置いたまま、動かさなかった。


「辞める前の週に——」


藤川の声が低くなった。カフェの入り口が開いて、外の車の音が一瞬入ってきた。藤川はそちらを見て、入ってきた客が遠い席に座るのを確認してから、続けた。


「給湯室で千鶴さんが泣いていたんです。昼休みの終わりで、俺が入ったら急に顔をそむけて。声は出してなかった。でも肩が揺れてた」


「理由は聞きましたか」


「聞けなかった」


藤川はそこで黙った。瀬尾は何も言わなかった。カフェのBGMが小さく流れている。隣のテーブルに客はいない。


「社長は——」


藤川の声が出て、止まった。唇を一度舐めてから、続けた。


「人の距離感がわからない人でした」


言葉を選んでいる。一語ずつ、確かめるように置いている。


「俺が見たのは一度だけです。社長が千鶴さんの肩に手を置いているところ。三階の廊下で。千鶴さんは笑っていたけど——」


藤川の喉が動いた。


「笑ってなかった。目が。体が固まっていた。社長のほうは普通にしてて、そのまま社長室に戻って。千鶴さんはしばらく廊下に立ったままでした」


瀬尾のペンが紙の上を滑った。文字にはしなかった。ただ線を引いた。藤川は窓の外を見ていた。


「それを見たのは」


「辞める二週間くらい前です。あのときに、俺は——何もしなかった」


藤川の右手がテーブルの上で拳を作り、すぐに開いた。


「水谷さんのときも似たようなことがあったって、古い社員が言ってました。水谷さんは俺が入社する前にいた人で、直接は知りません。でも社長の近くで仕事をしていて、急に辞めた。話が出来すぎてるんですよ。同じことが二回起きている」


瀬尾はノートにペンを置いた。藤川の顔を見た。藤川は瀬尾の視線を受けて、それから目をそらした。


「千鶴さんに、橋本社長が不適切な行為をしていた可能性があると考えていますか」


藤川の手がテーブルの縁を掴んだ。指の関節が白くなった。


「俺の口からは言えません。見たのは肩に手を置いたところだけだから。でも——」


藤川はテーブルの上で両手を組み、すぐにほどいた。


「千鶴さんの顔が変わっていったのは事実です。春に来たときと、秋に辞めるときとで、別人でした。最初は挨拶のときに笑ってたんです。給湯室ですれ違うと『おはようございます』って。秋にはもう、目が合わなかった」


瀬尾は黙ってペンを取った。藤川の最後の言葉を書き留めた。春と秋で別人。藤川はそれを見ていたが、何も言わなかった。


電車の窓に自分の顔が映っている。


ノートを膝の上に開いた。藤川の証言を書き出す。社長室への異動、指名、給湯室、肩に手を置く行為、千鶴の表情の変化。田辺の証言と重なる部分がある。「急に元気がなくなった」「社長の名前が出ると顔がこわばる」。二人の証言は別々の角度から、同じ輪郭を描いている。


千鶴が辞めたのは事件の一週間前。田辺も藤川もその時期で一致している。


橋本が千鶴に何をしていたか、藤川は口にしなかった。田辺も言葉にはしなかった。二人とも、別の言い方を選んでいた。「社長と何かあったらしい」「人の距離感がわからない人だった」。直接的な言葉を避けている。


瀬尾はペンを止めた。村瀬の顔が浮かんだ。面会室で千鶴の話題になるたびに、右手を膝の上で握っていた男の顔。あの反応の意味が変わる。千鶴にされたことを、村瀬は知っていたのではないか。


千鶴が辞めて、一週間後に橋本が死んだ。


スマートフォンのメモに打ち込んだ。


千鶴退職——1週間——橋本殺害。


電車が駅に停まった。ドアが開き、冷たい空気が入ってきた。瀬尾は画面を消さなかった。千鶴が辞めた理由を、千鶴本人はまだ語っていない。周りの人間は言葉を選び、核心を避けた。千鶴が辞めてから事件までの一週間に何があったのか。その空白が、ノートの余白に重なって見えた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る