矛盾の糸

第7話「娘の嘘」

ノートを開いたまま、朝になっていた。


事務所のデスクに突っ伏して眠ったらしい。首の右側が痛む。蛍光灯は消えていて、ブラインドの隙間から差し込む光がノートの文字を照らしていた。瀬尾はまばたきを数回繰り返してから、自分が書いた行を読んだ。


千鶴——「父は犯人じゃない。でもこれ以上調べないで」。


その下に、昨夜の自分が何か書こうとした跡があった。ペン先が紙に触れただけの点が一つ残っている。書けなかったのだ。一晩経っても、整理がつかない。


ペンを取った。ノートの余白に二つの文を分けて書いた。


「父は犯人じゃない」——千鶴はこれを信じている。あるいは、知っている。

「これ以上調べないで」——調べられると困ることがある。


二つを並べると、一つの問いが浮かぶ。千鶴が犯人でないと知っている根拠は何か。目撃したのか。別の犯人を知っているのか。あるいは、事件の夜に千鶴自身がどこかにいて、父がそこにいなかったことを知っているのか。


ノートのページを戻した。「千鶴——橋本不動産アルバイト」の行が目に入った。昨夜、千鶴の視線がここに落ちた。見ただろうか。見たとして、瀬尾がこの事実を知っていることに千鶴は何を思っただろうか。


コーヒーメーカーの電源を入れた。水を注いでいる間に、携帯電話で村瀬健一の弁護資料を開いた。千鶴の連絡先は村瀬の身上調書に記載されている。番号をタップした。


呼び出し音が五回鳴り、留守番電話に切り替わった。瀬尾は何も言わずに切った。コーヒーメーカーが音を立て始めた。


電話が返ってきたのは三時間後だった。


「村瀬千鶴です。着信がありました」


声は前夜と同じ低さだった。瀬尾は余計なことを言わず、会えないかと聞いた。千鶴は数秒黙った後、駅前の喫茶店の名前を言った。


店は昼時で混んでいた。瀬尾が先に着き、窓際を避けて奥の二人がけの席を取った。注文したコーヒーが来る前に、入口のドアベルが鳴った。


千鶴は約束の時刻に三分遅れて来た。暗い色のコートを着ている。化粧はしていない。店内を見回す目が瀬尾を見つけて、一瞬だけ足が止まった。それから奥へ歩いてきた。右手で左腕を掴む仕草は前夜と変わらなかった。


椅子に座るまでに間があった。コートを脱がず、鞄を膝の上に置いたままだった。いつでも立てる姿勢だった。テーブルの上に瀬尾のノートが開いてあるのが見えたのだろう、千鶴の目がそこに吸い寄せられるように動いた。


瀬尾は水を一口飲んでからノートを閉じた。テーブルの上から退けて、鞄にしまった。千鶴の視線が窓のほうへ逸れた。ガラスの向こうを通り過ぎる人影をぼんやりと追っているようで、何も見ていない目だった。


「昨日、言ってくれたこと。お父さんが犯人じゃないと——」


「弁護士さんに聞いてほしくて言ったんじゃありません」


千鶴が遮った。声は平坦だったが、言葉の速度がわずかに上がっていた。


「では、誰に」


千鶴は答えなかった。テーブルの上のおしぼりの包装を見つめていた。店内の喧噪がしばらく二人の間を埋めた。隣の席で誰かがスプーンをカップの縁にぶつける音がした。


「千鶴さん。お父さんが犯人でないと、あなたは知っている。知っているなら、根拠がある。何を知っているんですか」


千鶴の視線がテーブルの表面に固定された。右手が左腕を掴む力が強くなるのが、コートの袖の皺でわかった。


「父のことは、父に聞いてください」


同じ言葉だった。拘置所で初めて会ったときと同じ。あのとき千鶴は瀬尾を一瞥しただけで背を向けた。今日は向かい合って座っている。それだけでも何かが変わっているはずだった。だが言葉は同じだった。


瀬尾は口を閉じた。論理で詰めても壁が高くなるだけだった。千鶴の前で、瀬尾は自分がどれだけ無力かを感じていた。手元にあるのはブロンズ像の位置のずれと、監視カメラの空白と、そして目の前の二十四歳の女性が吐いた矛盾した言葉だけだった。


瀬尾はテーブルの下で自分の右手首を左手で掴んでいることに気づいた。離した。


「私も、わからないんです」


声が自分でも思ったより小さかった。千鶴の目が初めて瀬尾のほうを向いた。


「お父さんは、私が何を聞いても答えてくれない。矛盾を突いても『もう十分です』と言うだけ。あなたも、同じことを言う。犯人じゃないのに調べるなと。理由を聞いても答えない。私には——手がかりがないんです」


ウェイターがコーヒーを運んできた。千鶴のカップの前に小さなミルクピッチャーが置かれたが、千鶴は手をつけなかった。瀬尾は自分のカップを持ち上げて一口飲んだ。苦かった。砂糖を入れ忘れていた。


「父に聞いても、無駄です」


千鶴の声が小さくなった。窓のほうを見たまま、独り言のように続けた。


「何も答えない。あの人は——最初から、何も」


途中で言葉が切れた。千鶴は口を閉じ、視線をテーブルに落とした。それ以上は出てこなかった。


沈黙が長くなった。隣のテーブルで大学生らしい二人組が笑っている声が、妙にはっきり聞こえた。千鶴の視線が瀬尾の顔に戻り、またテーブルに落ち、もう一度瀬尾に戻った。何かを量っているような目だった。


「私が何を言っても——同じです」


千鶴が鞄の持ち手を握った。立ち上がろうとしていた。


「事件の夜。あなたはどこにいましたか」


千鶴の手が止まった。


鞄の持ち手を握ったまま、千鶴は動かなかった。右手が白くなるほど強く持ち手を握っている。目は伏せられていた。唇がわずかに開いたが、言葉にはならなかった。


二秒。三秒。


千鶴は鞄を持って立ち上がった。コートの裾がテーブルの角に触れた。瀬尾のほうを見なかった。


「ごちそうさまでした」


店を出ていく千鶴の背中を、瀬尾は追わなかった。ドアベルが鳴り、ガラス越しに暗いコートの背中が通り過ぎ、見えなくなった。テーブルの上に、千鶴が一口も飲まなかったコーヒーが残っていた。ミルクピッチャーの位置は、置かれたときのままだった。


瀬尾は自分のカップを持ち上げた。すっかり冷めている。飲まずに戻した。


事務所に戻った瀬尾は、コートもかけずにデスクの前に座った。


千鶴の反応を頭の中で再生した。「事件の夜」という言葉で手が止まった。目が伏せられた。答えなかった。


瀬尾は照会書を書いた。千鶴の携帯電話の通話記録。期間は事件当日の前後三日間。


回答が届いたのは翌日の夕方だった。


A4用紙二枚分の通話記録を、デスクの蛍光灯の下で広げた。事件当日の欄を指で追った。千鶴の発信記録は少ない。日中に一件、橋本不動産の番号への着信——自動音声のガイダンスだろう、通話時間が十秒で切れている。


指が止まった。


深夜一時三分。発信。相手番号は村瀬健一の携帯電話。通話時間、四十七秒。


深夜一時に、父に電話をかけている。四十七秒。


用紙の右端に、基地局情報の欄があった。通話時に接続した基地局のIDが記載されている。瀬尾はノートパソコンを開き、基地局の位置情報を検索した。


千鶴の自宅の最寄り基地局は、事務所の資料で確認できた。通話記録に記載された基地局IDと照合した。


一致しない。


深夜一時三分の通話で千鶴が接続していた基地局は、千鶴の自宅から直線で四キロ離れた場所にあった。地図アプリを開いた。基地局の位置にピンを立てた。そのピンから半径数百メートルの円を想像した。


円の中に、橋本邸があった。


瀬尾はノートを開いた。ページを遡り、監視カメラの空白を書いた行を見つけた。空白は二十三時十分から零時十分。千鶴の通話は深夜一時三分。カメラが復旧してから約一時間後。


ペンを持った。新しい行に書いた。


千鶴——事件の夜・深夜1:03、父に電話。基地局情報: 自宅ではない。橋本邸付近。


ペンを置いた。窓の外は暗くなりかけていた。喫茶店での千鶴の姿が浮かんだ。「事件の夜」と聞いたときの、鞄の持ち手を白くなるまで握った手。


千鶴は事件の夜、自宅にいなかった。

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