第6話「最初の亀裂」

法廷は静かだった。


傍聴席には数人しかいない。国選弁護の殺人事件に注目する報道関係者はおらず、裁判官と書記官、検察官、そして被告人席の村瀬健一。空調の音が天井から降りてくる。瀬尾真帆は弁護人席で書類を揃えながら、村瀬の横顔を見た。背筋を伸ばし、膝の上に両手を置いている。いつもの几帳面な姿勢だった。拘置所の面会室でも、この人はいつもこの姿勢で座っていた。


「弁護人、どうぞ」


裁判官の声に立ち上がり、瀬尾は用意した資料を掲げた。


「被告人の供述調書において、凶器であるブロンズ像の位置に関する記述と、現場写真の記録との間に食い違いがあります」


検察官が顔を上げた。瀬尾はモニターに二つの画像を並べた。左側に調書の該当箇所、右側に現場写真。


「調書では、被告人は『ブロンズ像を書斎の机の右端に戻した』と供述しています。しかし現場写真では、ブロンズ像は机の左奥——本棚との境目に位置しています。距離にして約七十センチの差異です」


村瀬の右手が膝の上で動いた。指が布地を掴むように曲がり、すぐに戻った。瀬尾はそれを視界の端で捉えたが、視線はモニターに向けたままだった。


「被告人の供述が正確であるならば、殺害後に凶器を机の右端に戻したはずです。しかし実際の位置は左奥。この食い違いは、被告人が殺害後の現場状況を正確に把握していない可能性を示しています」


検察官が手を挙げた。四十代半ばの男で、法廷では声が低くなる。


「異議があります。被告人は犯行後の極度の緊張状態にあり、凶器を置いた位置について記憶の混同が生じることは十分に考えられます。七十センチの差異をもって自白全体の信用性を問うのは、論理の飛躍です」


裁判官がペンを動かした。「弁護人の指摘は記録に留めます。ただし、現時点ではこの一点をもって自白の信用性を否定する根拠としては不十分と判断します」


瀬尾は頭を下げた。想定通りだった。一回の指摘で自白が覆るとは思っていない。記録に残ること。それが今日の目的だった。書記官のキーボードを叩く音が止まり、法廷に短い静寂が落ちた。


村瀬の顔を見た。目が合った。村瀬はすぐに視線を落としたが、その一瞬、唇が何かを形作りかけた。言葉にはならなかった。額にうっすらと汗が浮いている。膝の上の両手は、さっきまで重ねて置かれていたのが、今は左右に離れ、それぞれが布地を掴んでいる。拘置所の面会室では、どんな質問にも崩れなかった姿勢が、法廷という場で初めて——ずれていた。


閉廷が告げられた。裁判官と書記官が退廷し、検察官が書類を鞄に入れる音がした。村瀬が廷吏に促されて立ち上がったとき、一度だけ瀬尾のほうを振り返った。何か言いたげな目だった。言葉にはならなかった。


接見室は蛍光灯の色が法廷より黄色い。アクリル板の向こうに座った村瀬は、さっきまでの被告人席とは別の場所にいるように見えた。法廷での姿勢の乱れは消え、背筋が戻っている。だが目の奥に、まだ何かが残っていた。


「なぜ、あんなことをしたんですか」


声が低かった。


「あなたの供述に矛盾があるからです。弁護人として、事実と異なる可能性がある供述を放置することはできません」


「矛盾なんかない。私は自分のやったことを話しただけです」


「ブロンズ像の位置が違います。七十センチ。犯行後に凶器を戻したと言うなら、その場所を間違えるのは不自然です」


村瀬は口を閉じた。右手が膝の上で握られているのが、アクリル板の下から見えた。アクリル板に蛍光灯の光が映り込んで、村瀬の表情の半分が白く飛んでいる。数秒の沈黙の後、村瀬が言った。


「先生に——迷惑をかけたくないんです」


瀬尾のペンが止まった。迷惑。自分の弁護人に迷惑をかけたくない。裁判で自分の無実を主張されることが、この人にとっては迷惑なのだ。弁護人解任ではなく、調査だけを止めてくれと言う。


「村瀬さん。迷惑というのは」


「もう十分です」


村瀬は瀬尾の目を見た。視線を合わせたまま、右手が微かに震えていた。


「これ以上は、もう十分です」


瀬尾は立ち上がらなかった。村瀬の目を見返した。視線を合わせたまま嘘をつく人。ただし右手が震える人。この人は自白を壊されることを恐れている。自白が壊れた先にあるものを、法廷に引きずり出されることを恐れている。


「お時間をいただきました」


村瀬が小さく頷いた。瀬尾が立ち上がると、村瀬は視線をアクリル板の一点に固定したまま動かなかった。書類を鞄に入れ、接見室を出た。廊下の蛍光灯が白く、壁に自分の影が細長く伸びていた。裁判所の廊下は夕方になると人が減り、靴音がやけに響く。


事務所に戻ったのは午後六時を過ぎていた。


コートをハンガーにかけ、デスクの前に座った。ノートを開いた。ペンを持ったが、何も書けなかった。矛盾は記録に残った。だが村瀬の反応は、矛盾を突かれた犯人のそれではなかった。犯人なら矛盾を説明しようとする。記憶の混同だと自ら言い添えるはずだ。村瀬はそうしなかった。「なぜあんなことをしたんですか」と、弁護人を責めた。自白を守ろうとする人間の反応だった。


インターホンが鳴った。


時計を見た。午後七時を回っている。事務所に来客の予約はない。インターホンのモニターを確認した。暗い色のコートを着た女性が立っていた。カメラの角度で顔がよく見えない。瀬尾は受話器を取った。


「瀬尾法律事務所です」


「——村瀬千鶴です」


声が小さかった。受話器を置くまでに、一拍あった。瀬尾はオートロックを解除した。


階段を上がる足音が近づいてくる。ドアを開けると、千鶴は廊下に立っていた。拘置所で短く言葉を交わしたときと変わらない、年齢より幼い顔。化粧はほとんどしていない。暗い色のコートの前を合わせ、右手で左腕を掴んでいた。廊下の蛍光灯が切れかけていて、千鶴の顔が明滅していた。


「どうぞ、中へ」


千鶴は事務所に入ったが、椅子には座らなかった。入り口の近くに立ったまま、瀬尾のデスクの上のノートに目をやった。右手で左腕を掴む力が一瞬強くなり、すぐに視線を戻した。


「座りませんか」


千鶴は首を振った。瀬尾はデスクの前に立った。二人の間に三歩ほどの距離があった。


「父は犯人じゃない」


千鶴の声は低く、平坦だった。練習してきた言葉のように聞こえた。何度も頭の中で繰り返して、余計なものを削ぎ落とした後の声。


瀬尾は何も言わなかった。千鶴の次の言葉を待った。蛍光灯の微かな音だけが残った。窓の外で車が通り過ぎ、ヘッドライトの光が天井を横切った。


「でも——これ以上、調べないで」


千鶴の目が伏せられた。右手が左腕を掴む力が強くなり、コートの袖に皺が寄った。


父は犯人じゃない。でも調べないで。瀬尾の頭の中で、二つの文が並んだ。つながらない。犯人でないなら、調べることで無実が証明される。それを拒む理由がない。理由がないのに、千鶴はここに来た。


「お父さんが犯人でないなら、調べなければ——」


「お願いします」


千鶴が瀬尾の言葉を遮った。目は伏せたままだった。唇が薄く開いて、何か続きがあるように見えたが、何も出てこなかった。踵を返し、ドアに手をかけた。


「千鶴さん」


千鶴の背中が一瞬止まった。振り返らなかった。ドアが開き、閉まった。廊下を遠ざかる足音が、しばらく聞こえていた。


瀬尾は動けなかった。


父は犯人じゃない。でもこれ以上調べないで。


村瀬は「これ以上調べないでください」と言った。千鶴は「これ以上調べないで」と言った。同じ言葉だ。親子が、同じことを求めている。


だが千鶴は「父は犯人じゃない」と言った。村瀬自身は一度もそんなことを口にしていない。


ノートの上に、千鶴の視線が落ちた場所があった。「千鶴——橋本不動産アルバイト」と書かれた行。千鶴はそれを見ただろうか。見たとして、何を思っただろうか。


瀬尾はペンを取った。ノートの新しい行に書いた。


千鶴——「父は犯人じゃない。でもこれ以上調べないで」。


ペンを置いた。窓の外は暗かった。事務所の蛍光灯だけが白く、デスクの上のノートを照らしていた。

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