第5話「前任者」
映像を見直したのは、朝の九時だった。
安西から届いた画像データをノートパソコンの画面に表示し、瀬尾真帆はモニターに顔を寄せた。駐車場の端、舗装が歩道に変わる境目。人の輪郭。頭部、肩、片方の腕。もう片方の腕は暗がりに溶けて判別できない。体格は——わからない。服装も、画角の端では色すら読み取れなかった。
画像編集ソフトで明度を上げてみた。ノイズが浮き上がるだけで、顔の造作は潰れたままだ。コントラストを変えても同じだった。元の解像度が足りない。管理会社のカメラは防犯用であって、鑑識用ではない。
瀬尾は椅子の背にもたれた。ペンを回す。この映像だけでは先に進めない。
ノートを開いた。三つの引っかかりの下に、昨日書き加えた一行がある。復旧直後、駐車場を横切る人影。四つの項目を眺めた。どれも物的な手がかりだ。ブロンズ像の位置、恵美の態度、カメラの空白、人影。しかし物証は、それ自体では語らない。物を動かした人間がいる。カメラを止めた人間がいる。駐車場を歩いた人間がいる。
人を調べるしかない。
瀬尾は村瀬健一の経歴資料を引き出しから取り出した。国選弁護の受任時に裁判所から渡された書類一式。村瀬の戸籍、住民票、勤務先の情報。何度か目を通したものだが、今は読む角度が違う。村瀬本人ではなく、村瀬の周囲に目を向ける。
家族構成のページで指が止まった。村瀬千鶴、二十四歳。現住所、職歴。職歴の末尾に一行だけ記載がある。
橋本不動産株式会社。事務アルバイト。
瀬尾は書類を持ったまま動かなかった。橋本不動産。殺された橋本雄一郎の会社だ。被害者の会社で、容疑者の娘が働いていた。
拘置所の面会室で千鶴と顔を合わせたときの声が蘇った。「父のことは、父に聞いてください」。あの短い言葉を、父親を信じる娘の当然の反応だと受け取っていた。だが千鶴自身が橋本と接点を持っていたのなら、あの壁の内側にあったのは信頼ではなく、別のものかもしれない。
村瀬が千鶴の話題で右手を握った場面が重なる。千鶴のアルバイト先を知っていたのか。知っていたなら、あの反応の意味が変わる。
瀬尾は書類をコピーし、ノートに「千鶴——橋本不動産」と書いた。橋本不動産の所在地を調べた。隣の駅のロータリーに面した雑居ビルの四階。電車で十五分。
コートに手を伸ばしかけて、やめた。弁護人が直接オフィスに乗り込めば、相手は構える。社長が殺された会社だ。村瀬の弁護人と名乗った時点で、壁ができる。
別の入り口を探す。退職者なら、会社への義理はない。橋本不動産の求人情報を検索し、過去の社員レビューが載ったサイトをいくつか開いた。口コミの投稿者に元社員がいるかもしれない。三十分ほどかけて、一件だけ手がかりを見つけた。口コミの文面に「経理担当の田辺さんにはよくしていただきました」と名前が出ている。田辺。経理。まだ在籍しているかわからないが、橋本不動産の代表番号に電話して確認した。「田辺は本日出勤しております」。電話を切り、コートを取った。
ビルの一階にあるコンビニのイートインで、昼休みの時間を待った。缶コーヒーを開けたが、二口で飲むのをやめた。甘すぎる。窓の外にロータリーのバスが見える。排気ガスの匂いがガラス越しにも漂ってくるような気がした。
十二時を過ぎた頃、ビルのエレベーターから数人が降りてきた。スーツ姿の男性二人と、グレーのカーディガンを羽織った女性。女性はコンビニに入り、サンドイッチと紙パックのお茶を手に取った。レジの前で財布を探す手つきが落ち着いていて、ここで昼食を買うのが日課だとわかる。レジを通過した女性に、瀬尾は声をかけた。
「すみません。橋本不動産の田辺さんでしょうか」
女性が立ち止まった。三十代前半。丸い目が警戒の色を帯びたが、瀬尾が名刺を差し出すと表情が変わった。
「弁護士さん。村瀬さんの件ですか」
「お話を聞かせていただけませんか。お昼の時間をいただくことになりますが」
田辺は少し迷ってから「ここじゃなくて」と言い、ビルの裏手にあるカフェに瀬尾を連れて行った。路地に面した小さな店で、昼時だが席は空いていた。窓際の二人席に向かい合って座る。田辺はサンドイッチの包装を開けたが、すぐには口をつけなかった。
「千鶴さんのことを伺いたいんです。橋本不動産でアルバイトをされていたと聞きました」
田辺の指がサンドイッチの端を押した。パンが潰れる。
「千鶴ちゃんは——ええ、去年の春から秋口まで。半年くらいだったと思います。事務のアルバイトで入ったんですけど、途中から社長の近くで仕事をするようになって」
「社長の近く、というのは」
「秘書みたいな感じです。スケジュール管理とか、来客の対応とか。うちは小さい会社なので、秘書って肩書きはないんですけど。社長が直接指名して」
田辺はお茶のストローを刺した。指先の力が強くて、パックが凹んだ。
「最初は嬉しそうだったんです。任せてもらえた、って。でも秋くらいから、急に元気がなくなって。昼休みも一人でいることが多くなったし、社長の名前が出ると顔がこわばるようになった」
瀬尾は何も言わなかった。田辺が自分のペースで話すのを待った。カフェの奥でエスプレッソマシンが低い音を立てている。
「それで——辞めたんです。突然。事件の一週間くらい前だったと思います」
「理由は聞きましたか」
「聞いてません。というか、聞ける雰囲気じゃなかった。ロッカーの荷物だけ持って、挨拶もそこそこに出ていって」
田辺はサンドイッチをひと口齧り、窓の外を見た。路地を通る人の影が、テーブルの上を横切った。視線が瀬尾に戻るまでに数秒かかった。
「実は千鶴ちゃんの前にも、社長の近くで仕事をしていた人がいたんです。水谷さんっていう女性。その人も急に辞めたんですよ」
瀬尾のペンが止まった。
「水谷さん。いつ頃のことですか」
「千鶴ちゃんが入る半年くらい前。だから一昨年の秋くらい。三ヶ月くらいで辞めたって聞きました。私が入社したときにはもういなかったので、直接は知らないんですけど」
千鶴の前にも、同じポジションの女性が辞めている。
「水谷さんの連絡先はわかりますか」
「名前しか覚えてないです。水谷——下の名前は、なんだったかな。古い名簿にはあるかもしれないけど、会社のものだから私からは渡せないです」
田辺はお茶をひと口飲み、紙パックをテーブルに置いた。置き方が丁寧だった。両手でパックの位置を直し、それから瀬尾のほうを見た。
「橋本社長と何かあったらしい、って話は社内でもちらっと聞きました。でも誰もはっきりとは言わなかった。社長の会社ですから」
その一文の後、田辺は黙った。サンドイッチを持つ手が、テーブルの上で止まっている。
「ありがとうございます。十分です」
田辺は頷いた。サンドイッチの残りを包装に戻し、「千鶴ちゃんは——いい子でした」と小さく言った。
事務所に戻ったのは午後三時を回っていた。
コートを椅子の背にかけ、ノートパソコンを開いた。水谷。橋本不動産。検索をかけたが、ありふれた姓に会社名を足しただけでは該当する人物が絞れなかった。弁護士会のネットワークで橋本不動産の登記情報を確認し、過去の従業員名簿の開示を裁判所に請求できるか検討した。手続きには時間がかかる。
橋本不動産の代表電話にもう一度かけた。総務担当に繋がったが、退職者の個人情報は開示できないと断られた。想定通りだった。声のトーンが硬い。弁護人の名を出した時点で相手の態度が変わっていた。
SNSでも探した。「水谷」の姓で橋本不動産に関連するアカウントを探してみたが、該当する人物は見つからなかった。電話番号の案内サービスにもかけた。登録がない。
水谷という女性は、橋本不動産を辞めた後、連絡先ごと消えていた。
瀬尾はノートを開いた。四つの項目の下に、新しい行を書き加えた。
千鶴——橋本不動産アルバイト。前任秘書・水谷——突然退職、所在不明。
ペン先が紙の上で止まった。田辺の声が耳に残っている。「橋本社長と何かあったらしい」。はっきりとは言わなかった。言えなかった。だが田辺の指がサンドイッチを潰した力、お茶のパックを凹ませた力——言葉より正直だった。
瀬尾は水谷の名前の下に線を引いた。この人物を見つけなければならない。千鶴に何があったのかを知る前に、その前に何があったのかを知る必要がある。
ノートを閉じなかった。開いたまま、机の上に置いた。
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