第30話 張り込み

 残念ながら、おれには吉田屋に行く金もなければ、藩に付け回す力もない。そこでおれは、吉田屋が見渡せる居酒屋で、幾松さんを囲いたい御仁の出待ちをすることにした。

 こんなときに懐の英語辞書は便利だ。英語を独学しながら、お銚子に肴を二・三品。このくらいは桂さんにつけておこう。一人手酌でちびちび飲みつつ、分厚い本を読んでいる二本差し。いかにも怪しい風体だが、たまの注文を陽気に頼んで軽口を叩いていると、店なんて目こぼししてくれるものだ。


 五つ過ぎ、幾松さんが出てきた。見送る相手は桂さんと、雰囲気から察するにお公家様。二人は幾松さんに別れの挨拶をすると、連れ立って消えていった。最近、公家の偉いさんへの天誅騒ぎがあったばかりだ。桂さんは護衛がてら、お公家様を屋敷まで送るのだろう。

 粘りに粘り、閉店間際の九つにならんとする頃、また幾松さんが出てきた。今度の相手は恰幅のいい旦那。旦那は幾松さんに、また来るよ、というようなことをいって、お付きの若者と連れ立って歩いていった。


 次の日も出待ちで五つ前に居酒屋に出向いた。五つ過ぎに幾松さんが桂さんをお見送り。しばらくするとあの旦那が現れた。今日は旦那を尾けてみよう。

 今宵は三日月で尾けるにはちょうどいい。九つに幾松さんと出てきた旦那は、三本木通りを出ると三条大橋の方へ歩いていった。橋を渡り川沿いを南に、四条の手前を八坂神社の方に曲がり、富永町通りを越えてすぐの商家の勝手に入っていった。

 旦那の店は河原町長州藩邸の川向いだった。近くて助かる。明日は旦那の店をのぞいてみよう。


 翌日、昼過ぎに旦那の店に行った。店は八坂神社の参道沿い、屋号は紅屋。小間物問屋のようで店先に色鮮やかなかんざし、櫛、手拭いなどが並べられていた。恰幅の旦那は奥の見台で帳簿か何かをつけていた。

「お武家はん、国元の奥はんへのお土産どすか?」

 奥から大年増の女将らしき声が聞こえた。

「これは女将さん、わざわざの御出まし、かたじけない。いえね、お座敷に手土産でもと思いまして。堅苦しくない感じのものはありませんか」

 おれはそういいながら、女将を観察した。歳の頃四十前、落ち着いた紺の着物に若作りの化粧。勝ち気な口元と切れ目で男っぽい美形。昔はさぞや、ちやほやされただろう。

「あらまあ、お洒落なことで。京の芸妓も、お武家はんみたいなお気遣いには、ほんに参ってしまいますわ」

 女将が勧めてくるのは値が張るものばかり。なんのかんのといい交わして、秋らしい山吹の手拭いを一枚所望して店を出た。これも桂さんに払ってもらおう。


 夜はいつもの居酒屋。桂さんもだが、旦那も毎晩顔を出している。幾松さんはこの二人しか客にとっていないのだろうか。

 さて、桂さんの競争相手は紅屋の旦那と決まった。どう蹴落としてやろうか。居酒屋で辞書を差し置いて、そればかり考えていた。


 四日目。この日は暮れ六つに藩邸を出て、紅屋に向かった。今日は旦那を入りで待ち伏せしよう。

 案の定、旦那は五つ過ぎに屋敷を出てきた。おれは後を尾け、三条大橋の手前で旦那に声をかけた。

「紅屋の旦那、ちょっといいですか」

 旦那は、突然後ろから武家に声をかけられて、少し驚いている様子だった。

「旦那、これから吉田屋でしょう。吉田屋に上る前に、そこの茶屋で少しお話しをさせてもらえませんかね」

 吉田屋に行く途中であることが知られて、旦那は少し動転したようだ。おれはそんな旦那と、怪訝な様子のお付きを、たもとの茶屋に引っ張り込んだ。

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