第29話 落籍

 長州の朝廷周旋は成功しているようだ。

 朝廷は、長州と薩摩は対等だと示すためか、長州に対幕交渉の勅を下した。そこで、藩では誰が勅を奉じて江戸に下るか、の協議が行われた。薩摩は藩主でもない国父を出した。ならば長州も、殿を下らせるわけにはいかない、というわけだ。結果、世子が江戸に下ることになった。桂さんや来原さんにも、世子を助けて江戸に行け、との命が出た。


 桂さんの江戸行きが決まった八月朔日の夜。この日は藩邸で遅くまで出立の支度をしていたためか、桂さんは珍しく部屋にいた。

 桂さんは、今度の江戸のことなど一通りの用向きを告げた後、いかにもいい難そうな顔をして切り出した。

「俊輔、江戸に行く直前で申し訳ないが、ひとつ頼まれてほしいことがある」

「はい、なんでしょう」

「極めて私事なのだが……」

 桂さんはひどく決まりの悪い様子だった。だが、おれにはなんとなく予想がついた。

「吉田屋の幾松さんのことですか?しばらく京を離れるので、文を渡してくれ、とか」

 図星だった。あからさまに、桂さんがうろたえた。

「なぜわかる?」

「吉田屋に行ったその日から酔い潰れるとか、様子がおかしかったですからね。その後も接待といっては吉田屋に入り浸るし、明らかに何かあるでしょう」

 慌てる桂さんを追い込むのは楽しい。

「いや、文ではない。文ではないのだが――幾松を落籍するのにいくらかかるのかを調べてほしい……」

 桂さんは、妙にしおらしかった。おれはてっきり――。

 京を留守にしている間に、他の男に取られないよう囲うつもりかと思うきや、初めて会って二ヶ月ほどなのに、もう落籍くつもりとは。桂さんは、幾松さんに本気で惚れているようだ。

「――わかりました桂さん、真面目にやります。幾松さんの置屋は「瀧中」でしたっけ?明日、女将を捕まえて聞いてみます」


 次の日の宵の口、おれは三本木の通りから一本奥に入った瀧中に向かった。思った通りちょうど芸妓が出払った頃合いで、周りも店も落ち着いていた。

「こんにちは。女将はいますか?」

 しんとした置屋に、おれの声が通った。

「おや、これは今をときめく長州はんやおへんか。どないなさったんどす?今日はお座敷やおへんのどすな?」

「いや、今日は座敷じゃなくて、こちらに用事がありましてね。少し女将に聞きたいことがありまして」

 おれは部屋に上がりこむと、女将の差し向かいに座った。出されたお茶の飲みごろの熱さに、気遣いを感じる。

「単刀直入にいいます。とある御仁が幾松さんを身請けしたい、といっています。そのとある御仁は、一体いくら、ご用意すればいいでしょうか?」

 女将は一瞬目を止めた後、面白そうに笑った。

「ほんにまあ、伊藤はんはずばりとお訊きやすなぁ。せやさかい、うちも見習いましてずばりと申さしてもろときましょ」

 一呼吸おいて、女将は続けた。

「只今なぁ、別のお方からも幾松を落籍きたい、て仰せやしてね。幾松もえらい幸せなおなごどすわ。せやけど、こうなりますと入り札になりましてなぁ、一声いくらとは、なかなかよう言えんのでおす……」

「別の御仁とはどなたです?」

「さすがにうちも、お名前までは明かさしてもろうわけにはいきまへん。うちが申せるんは、幾松にえらいよう入れあげてはるお方や、いうことだけどす」

 まあ、それはそうだ。だが、「えらいよう入れあげてはる」――あれは、わざと聞かせたのではないか。おれはそう思った。

「美味しいお茶、ご馳走さま。また来ます」

 おれは瀧中を出ると、その足で吉田屋に向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る