父の大丈夫
朝霧雫
第1話
父は、いつも「大丈夫だ」と言う人だった。
それは口癖というほど軽いものではなく、
まるで約束のように、決まりごとのように、
家の中に当たり前に存在していた言葉だった。
ぼくが小さい頃、熱を出して夜中に目を覚ましたときも、
父は額に手を当てながら、少し笑って言った。
「大丈夫だ。すぐ下がる」
その声は低くて、静かで、妙に落ち着いていて、
その一言だけで、世界がちゃんと元に戻る気がした。
父が転んで膝をすりむいた日もそうだった。
血がにじんでいたのに、母が慌てると、父は首を振った。
「大丈夫だよ。これくらい」
その「これくらい」は、
本当は痛かったはずの傷も、
不安だったはずの時間も、
全部まとめて包み込む言葉だった。
家計が苦しかった時期がある。
子どもながらに、空気でわかる時期だった。
母の声が少し小さくなり、
夜の台所が長くなる日が増えた頃。
それでも父は、いつも通りの顔で言った。
「大丈夫だ。なんとかなる」
何をどうするのか、説明はなかった。
でも、不思議とその言葉を聞くと、
「なんとかなる世界」にちゃんと住めている気がした。
父は弱音を吐かなかった。
というより、弱さを見せる前に、
誰かを安心させる人だった。
ぼくは長い間、それが当たり前だと思っていた。
大人とはそういうものだと。
父親とは、そういう存在なのだと。
けれど、大人になってから気づいた。
「大丈夫だ」と言うことは、
本当はとても重たいことだ。
自分が不安なときほど、
自分が苦しいときほど、
それでも誰かを守る言葉を選ぶということ。
それは強さではなく、
覚悟だったのだと。
父が病気になったときも、
父はやっぱり「大丈夫だ」と言った。
声は少し弱くなっていたけれど、
目はまっすぐで、逃げていなかった。
「心配するな」
それは命令ではなく、
最後まで父でいようとする意志だった。
そして、亡くなるその瞬間でさえ、
父は小さく、でもはっきりと、言った。
「……大丈夫だ」
その言葉を聞いたとき、
胸の奥が壊れる音がした。
大丈夫じゃないことを、
誰よりもわかっていたはずなのに。
それでも、父は最後まで
家族を不安にさせない人だった。
父がいなくなったあと、
「大丈夫」という言葉だけが、
家に残ったような気がした。
ふとした瞬間に、
父の声で聞こえてくる。
ぼくは、まだ父のようには言えない。
同じ重さで、同じ覚悟で、
「大丈夫だ」とは、まだ言えない。
それでも思う。
いつか誰かが不安で立ち止まったとき、
その隣に立って、
少し震えながらでもいいから、
言える人になりたい。
「大丈夫だ」と。
父がくれたその言葉を、
今度はぼくが、誰かに渡せるように。
父の大丈夫 朝霧雫 @jakyyomu
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます