藍の底に、呼ばない名前

春風あくび

第1話

夜の街は、何も知らない顔をして澄ましている。

すれ違う人の体温。排気ガスの匂い。遠くで響くサイレン。

誰も、気づかない。

私が今、どんなに浅い呼吸で、この場に踏み止まっているかなんて。

駅前の灯りは、眩暈がするほど明るすぎる。

その暴力的な光が、居場所のない私を、舞台上の孤独な演者のように白々と炙り出す。

逃げ場なんて、どこにもない。

スマートフォンを握りしめる。

指先に伝わる熱。

何度も、何度も見た名前。

もう、二度とこの画面が震えることはない。

分かっている。

なのに、指先だけが、まだ彼を呼ぶ順番を覚えている。

――ねえ。

一瞬だけ、あの低い声がよぎる。

名前を呼ぶとき、少しだけ語尾がやわらかくなる癖。

それだけで、胸の奥が崩れる。

……押せない。

押した瞬間、この微かな「予感」さえも死んでしまう。

完全な終わりを、突きつけられる。

それが、怖い。

「たかが恋なんて」

鏡の前で、言ってみた。

でも、その言葉は私を素通りして、冷たいガラスに跳ね返る。

何ひとつ守ってくれない、空っぽの音。

友達の前で笑った夜もあった。

「もう平気」

そのとき、自分がどんな顔をしていたのか。

そこだけ、思い出せない。

乾いた笑いと、軽い相槌。

全部、自分を軽くするための、不細工な強がり。

――違う。

軽くなんて、なってない。

重くなったのは、内側だけ。

逃げ場のない熱と、鉛のような重みが、ずっとそこにある。

深い水の底みたいに、音も光も届かない場所。

歩く。

夜の底を、ひとりで。

同じ角を、何度も曲がる。

止まったら、たぶん、その場に崩れる。

あの朝。

空気は冷たくて、言葉は少なかった。

「じゃあ」

それだけ。

彼は振り返らなかった。

私は呼ばなかった。

唇を噛んで、ただ見送った。

もし。

あのとき、服の裾を掴んでいたら。

今さらの問いが、胸に刺さる。

遅い。

世界は、一秒も戻らない。

彼は、もう別の場所にいる。

私の知らない誰かの隣で、私の知らない顔で笑っている。

想像した瞬間、呼吸が浅くなる。

胸の奥で、何かが軋む。

追いかけてはいけない。

それが、最後の約束みたいに残っているから。

海の方へ。

夜の海は、黒い。

どこまでが空で、どこからが絶望なのか。

もう分からない。

防波堤に座る。

冷たいコンクリートが、少しだけ現実を引き戻す。

「もし」

波の音に紛れて、口だけが動く。

「もし、もう一度だけ」

続きは出ない。

願いは、声にした瞬間に壊れる。

だから、言わない。

ゆっくり目を閉じる。

浮かぶのは、離れていった手の感覚。

二度と縮まらない、たった一歩。

息を吐く。

涙は出ない。

もう、泣く力も残っていない。

ただ、沈んでいく。

暗く、深い、藍の底へ。

私は、ここにいる。

でも、どこにも行けない。

――帰り道、わからないな。

ぽつりと、言葉が落ちる。

誰にも届かない声。

立ち上がる気力は、もうない。

どこへ行っても、この重さは消えない。

だったら、ここでいい。

夜が明けるまで。

あるいは、明けなくてもいい。

波を見つめる。

ただ、それだけ。

夜は、まだ終わらない。

そして――

終わらないままでも、いいと思ってしまった。

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藍の底に、呼ばない名前 春風あくび @9121040948

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