ここにいる みずほ
第12話
最初は──ただの違和感だった。
ここ数日、電車の中で、いつも同じ人影が視界の端にいた。
フードを深くかぶっていて、顔は見えない。
でも、いつも少し離れた場所に立っている。
だぶついた上着の裾から、
制服のスカートがのぞいていて、
女の人なんだと思った。
たまたま同じ車両に乗っただけ。
そう思おうとした。
けれど次の日も、
その次の日もいた。
見ているわけじゃない。
近づいてくるわけでもない。
ただ、いる。
それだけなのに、
目が合ったわけでもないのに、
どうしても安心できなかった。
そして、今日。
車内を見回しても、
あの女はいなかった。
ドアのそばにも、
窓際にも、
吊り革の列の向こうにもいない。
……いない。
それだけのことなのに、
ほっとしたはずなのに、
別の不安が残った。
いつもの駅で降りる。
昨日までは、
あの女も同じホームに降りてきていた。
でも今日は、いない。
階段にも、
改札にも、
その姿はない。
急いで改札を抜ける。
バス乗り場へ向かう。
知っている顔ばかりの車内。
いつもの景色。
いつもの道。
大丈夫。
もう大丈夫。
何度もそう言い聞かせた。
いつもの停留所で降りる。
今日降りたのは、わたしひとりだった。
冷たい空気を吸って、
やっと少し肩の力が抜けた。
胸をなでおろし、
自転車置き場へ向かって──
──気がつけば、薄暗い小屋の床に倒れていた。
頭が鈍く痛んだ。
視界が滲む。
手足に、力が入らない。
起き上がろうとしても、身体がついてこなかった。
目の前に、
あの女がしゃがんでいた。
フードの奥から見える口元が、
にっこりと微笑んでいた。
「目、覚めたんだ。よかった……
ね、大丈夫だよ。怖くないからね」
「ひぅっ……!!」
叫ぼうとしたが、
喉はつかえて声にならなかった。
口は渇き、
手は震えて、
何がどうなっているのか分からなかった。
「ね、ちょっとだけ、お願いがあるの。これ……飲んでくれる?」
女の手には、
小さな白い錠剤があった。
どこから出したのかも、わからなかった。
「すぐ楽になるよ。特別な薬だから」
わたしは、
わずかに首を振って拒んだ。
「そしたら、あなたの手は、先生の手になるんだよ──」
いやだ、
なにそれ──
逃げなきゃ。
でも、動けない。
女は、やさしく──
だけど強引に、
錠剤を口元に押し当ててきた。
首を振った瞬間、
もう片方の手が頬を押さえた。
細くて、
白くて、
きれいな女の手。
でも、その力は信じられないほど強かった。
まるで、
逃げ道を封じるようだった。
「大丈夫、大丈夫。
ね、すごく……気持ちよくなるから……」
その声は、
地の底から響くようで、
耳鳴りと一緒に、
わたしを現実から引き離していった。
口を閉じようとしても、
指がぐっと押し入ってきた。
錠剤が舌に触れた瞬間、
苦味が広がり、
思わずむせた。
「っ……けほ……っ……!」
崩れそうな身体を引きずりながら、床を這った。
逃げなきゃ。
ここは、おかしい。
こいつ、おかしい。
絶対に──。
「──あっ、だめ、動かないで……!
ほら、落ち着いて、だいじょうぶだから……!」
わたしはそれでも、
手探りでドアを探そうとした。
でも、
頭の中が揺れて、
まともに考えられない。
目の前がぐらぐらして、
すぐに倒れ込んだ。
脚に力が入らなかった。
「ねぇ、やっぱり……
ちょっと眠ってたほうがいいかも、ね?」
女の声が、やさしく響いた。
震える身体で壁に背を預け、
浅い呼吸のまま、
必死に目だけを見開いた。
視界がぐらつき、
じわじわと暗くなっていく。
「大丈夫。
わたしがそばにいるから。
ね、すぐにわかるようになるから──」
そのやわらかい手が、
わたしの頬にふれたとき、
背筋がぞくりと冷えた。
──違う、
これは優しさなんかじゃない。
口の中に残る薬の苦味とともに、
身体の奥が、すうっと冷えていった。
わたしはただ、震えることしかできなかった。
「……たすけて」
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