第7話

 ……なんで?


 わかっていた。

 でも、それを言葉にしたくなかった。


 先生は、何事もなかったように、また『わたし』に視線を戻した。


 その横顔は、最初から変わらない、優しい笑顔だった。


 先生の指が、目の前でひらりと揺れた。

 それだけで、息が詰まりそうになった。


「どうして──わたしの手だけ、そうなると思う?」


 突然の問い。

 そんなことはどうでもよかった。


「答え、教えてあげようか」


 先生は、ごく自然に笑って言った。


「薬を飲んだとき──わたしの指が、あなたの頬にふれてたの、覚えてる? ……左の、ここ」


 久しぶりに触れられて、立っていられなくなった。

 覚えてる。あの手の感触。そして……その前後も。


「あの薬はね、脳の感じ方を切り替えるの。

 飲んだときに『触れてる』って強く認識したもの以外は、感じなくなるのよ。

 ちょっと難しいかな?


 服って、いつも着てると、いちいち触れてるなんて意識しないでしょう?

 下着や靴も、床も、そう。


 だから、あなたがあのとき、私の手を覚えてたから、私の手しかわからなくなったの」


 そして──先生は、無邪気に笑った。


「なんで……」


「だって、あの頃のみずほちゃん、ほんとうにかわいかったの。

 私だけを見て、先生、先生って」


 先生は穏やかな声で続けた。


「だから、壊してみたくなっちゃって」


 え。


「壊れていくところって、とってもきれいなの。

 隠してたものが、ぜんぶ出るでしょう?

 だから、みずほちゃんはどうなのかなって、

 ちょっと試してみただけ」


 まるで他人事みたいに、楽しそうな声だった。


「──それだけ」


 なんでもないことのように、先生は微笑んだ。


 わたしは、その場に膝から崩れ落ちた。


 あのぬくもりは、うれしかった。

 わたしの体を返してくれた。

 でも、わたしが欲しかったものは、どこにもなかった。

 ……ぜんぶ、わたしひとりの思い込みだった。


「あのあとも、ずっと見てたのよ。そしたら──びっくり。

 他の子は、すぐ壊れちゃったの。

 みずほちゃんだけよ、私を探しに来た子なんて。

 もう少し見てようかなと思ったんだけど・・・・・・

 せっかく私を見つけてくれたんだし、

 ちょっと気が変わっちゃった。

 だから、ね」


 先生の後ろには、『わたし』がいた。

 わたしと同じ顔。

 何も着ていない、わたしの体。


 そして、先生の手が、

 その『わたし』を、やさしく撫でている。


「せっかくだから、『みずほちゃん』を、ちゃんと残しておこうと思って」


 先生は『わたし』の腕をゆっくり撫でた。

 指先が、やわらかく沈む。


「『みずほちゃん』は特別なの。肌も、やわらかさも……生きてるみたいでしょ?」


 生きてる。


 わたしは立ち上がって、部屋の隅に目を向けた。

 そこには、くしゃくしゃに丸められたままの、あの制服があった。

 ゴミの下に半分埋もれていたそれを、わたしは両手で引きずり出した。


 よれよれで、汚れていて、もう誰も見向きもしないような布きれ。

 でも、これを着れば、先生はきっとわかってくれる。


 わたしは全部脱ぎ捨てて、それを着た。

 震える手で、ボタンを留めた。


「ねえ、先生。わたし、ちゃんとここにいるよ!

 ここに……いるから……! ねえ、見てよ、先生!!」


 ──その時、先生がどんな顔をしていたのか。

 わからなかった。


「『みずほちゃん』は、もう完成したの。

 だからね……古いほうは、もういいかなって」

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