第5話

 どれくらい時間がたったのか、わからない。


 やがて、パリ……パリ……と音がした。

 先生は、壊れ物を扱うみたいに、ゆっくり、ゆっくりとわたしの外側を剥がしていった。


 光が戻ってきた。


 先生は目を合わせると、


「お疲れ様」


 と言って撫でてくれた。


 後に残ったのは──わたしの「抜け殻」。

 わたしと同じ形をした、空っぽの『わたし』。


 それを前にして、先生はわたしのほうを見向きもせずに何かを始めた。


 わたしはただその背中を、ずっと見ていた。



 翌日。


 先生は一晩中作業を続け、わたしもそれをずっと見ていた。


「先生・・・・・・」


 声をかけても、返事はなかった。


 わたしはもう一度、言おうとした。

 けれど、言葉が喉に届くより先に、先生は明るい声で言った。


「ねえ、ちょっと手を見せてくれる?」


 そう言って、先生は何気なく、わたしの手にふれた。

 その瞬間、胸の奥が焼けつくように熱くなった。


(先生──)


 たったそれだけで、息が詰まりそうになる。

 言葉が、喉の奥に引っかかって出てこなかった。


 わたしの形を確かめるように、手が、指が隅々まで撫でていく。


 わたしの体が、戻ってくる。


 でも──その手は、何事もなかったように離れていった。

 その瞬間、何もなくなった。


 何も触れてない。

 何もわからない。


 さっきまでと同じ。

 ちょっと前ならずっとこうだったのに。

 先生が触れてくれてからは、あの手がないとわたしがなくなっちゃう。


 肩に手が置かれる。

 後ろを向かされる。

 腕を持ち上げられる。

 指先の向きを直される。

 足の位置を決められる。


 そのたびに、先生の手がわたしの形を決めていく。


 動かなければ、わたしは先生の前で、その形のままでいられた。

 それがうれしかった。

 ちゃんと、そこにわたしがいたから。


 先生が黙々と作業を続ける姿を見ているだけで、うれしかった。

 先生が、ちゃんとわたしを見ていたから。


 作業が終わったあと、

 先生はふと、こちらを見て笑った。


「……どうしたの?」


 初めて教室で会ったときとまったく同じ言い方だった。


「あ、う......」


 わたしは何も言えず、震えた呻きしか出せなかった。

 何を言えばいいのかわからなかったから。


 でも、先生は近づいてきて、そっと、わたしの頭を撫でてくれた。


「おつかれさま」


 その瞬間、わたしは──


「……あ……あ……っ……」


 声にならない声が喉の奥でひしゃげて、

 息と一緒に、涙があふれ出した。


 もう、言葉なんて出なかった。


 ただその手にすがって、

 額を押しつけて、

 子どもみたいに泣いた。


 作業は、それから何日も続いた。


 薬の臭いと、何かが焼けるような匂いに包まれたアトリエの中で、

 先生はずっと──あの『わたし』に夢中だった。



 でも、その日。


 先生はふいに手を止め、

 わたしの腕にそっと触れた。


 その瞬間、肌の奥がじんと熱くなる。


 指先が、わたしの腕をゆっくりなぞる。


 腕の形を、わたしに教えるように。


 ただそれだけで、

 胸の奥まであたたかくなる気がした。


「……せんせぇ……」


 思わず漏れた声に、

 先生はふっと笑って、また作業へ戻った。


 でも、それで十分だった。


 その指の余韻は、夜になっても消えなかった。



 翌日、先生はまた、わたしにふれた。


 今度は背中だった。


 背骨をなぞるように、

 形を確かめるように、

 やさしく、ゆっくりと手が動く。


 安心して、

 涙が出そうになった。


 わたしは目を閉じた。


 ここにいていいんだって、思えた。


 別の日には、脚にふれた。


 指がすっと太ももをなぞっていく。


 腿が、脛が、足が戻ってくる。

 そのぬくもりが肌を伝って上がってきて、喉の奥がひとりでに震えた。


「……先生……」


 声が出たけれど、先生は何も言わず、またわたしから離れていった。

 でも、かまわなかった。


 ふれてくれた。それだけで、生きている気がした。


 去ろうとする先生の服を、

 無意識に指先でつまんだ。


 つまんだはずなのに、なにも感じない。


 触れているのかもわからないまま、

 それでも裾を引いた。


 その動きに気づいた先生が、

 ふと振り返って、くすりと笑った。



「甘えんぼうさんね」


 その一言で、

 わたしの心は満たされていった。


 たとえ先生がすぐ、『わたし』へ視線を戻しても、

 さっきの感触は、まだ肌に残っていた。


 昼間は、先生はほとんど『わたし』から目を離さなかった。

 

 でも、夜になれば、

 願えば、必ずそばに来てくれた。


 肩に手を置いてくれるだけで安心した。


 指を絡めるだけで、

 胸の奥がじんわり満たされた。



 ふれられることは、

 もう、わたしがそこにいる意味だった。


 先生の声。

 匂い。

 ぬくもり。


 それが、わたしのすべてだった。


「……ねぇ、先生」


「なぁに」


「もうちょっと、だけ……そばにいて」


「……仕方ない子」


 先生の指先が、わたしの背中に添えられる。

 そのやさしい感触に、わたしは目を閉じた。


 ──わたしのせかいは、これだけでよかった。

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