第4話

 その声を聴いた瞬間、なにかが爆ぜた。


「……っ! 先生……!」


 見つけた。

 見つけた。

 見つけた。


 それだけで、何を言っていいのかわからなかった。


「先生……! 先生……っ!」


 気づいたときには、手が伸びていた。

 服の袖をつかむ。

 逃がさないみたいに、ぎゅっと握る。


「やだ、なにあれ……」

「警察、呼んだほうがよくない?」


 周りの目線も、声も、どうでもよかった。


 先生は──やわらかく微笑んだ。


「……大丈夫です、知ってるです。

 少し落ち着いた場所で、話してみますね」


 先生はそう言うと、右手を、わたしに伸ばした。


「あ」


 その手が、わたしの手にふれた──

 その瞬間、視界がぐらりと傾いた。


 きゅっと握られる。

 わたしの手があった。


 熱。重み。ざらつき。温度。ぬくもり。震え。


 無くなっていたものが、戻ってくる。


「……っ、あ……っ……」


 声にならないうめきが、喉の奥から漏れた。


 息がうまく吸えない。


 鼓動が早すぎて、脈が跳ねて、体の感覚が暴れ出す。


 心が追いつかない。


 膝が崩れそうになる。


 先生の手──それだけで、ほかはどうでもよくなった。


 腕を引かれる。

 ついていく。


 足が動く。

 視界が揺れる。

 声が出ない。

 手が、離れない。


 ***


 先生のアトリエは、古びたビルの最上階だった。


 キャンバスと木材と白い布。

 白いものばかりで、部屋の輪郭まで曖昧に見えた。


 わたしは、連れてこられたそのまま、先生の手だけに意識を向けていた。

 ほかのことは、よくわからなかった。


「壊れてなくて、よかった。……ふふ、頑張ったね」


 その声も、ただ聞こえてるだけだった。



 水の音。

 気づけば、服がなくなっていた。

 いつ脱がされたのかも、わからなかった。


 先生の手が、わたしをゆっくりとなぞっていく。


 肩。背中。腕。指先。

 わたしの体がもどってくる。


 思わず、息が漏れる。


 それ以上は何も考えられなかった。


 先生が何か言ってる。


 「うん」とか「はい」しか言えなかった。


 ただ、触れられているところだけを、追っていた。


 気がつくと、身体に、ぴたりと何かが張りついていた。


 薄い布。

 伸びる素材。


 身体の輪郭が、そのまま出ている。


「ごめんね、そんな服しかなくて」


 先生は、床に落ちていた制服をつまみ上げた。


「……これ、捨てちゃっていいかな?」


 わたしは、よくわからないまま首を振った。


「そっか」


 そう言ってまた、わたしの頭をなでてくれる。


「頑張ったね」


 それだけで、全部、よくなった。



 それから、先生はいつも一緒だった。

 目が覚めるたび、先生がいた。

 食べるときも、眠るときも、風呂のときも。


 そして、お願いすればいつでも触ってくれた。


 触ってくれると、わたしが先生と繋がる。

 それがうれしくて、何度もお願いした。


 アトリエの大きな鏡の中のわたしは、

 わたしじゃないわたしから、

 だんだん「わたし」になっていった。


 棒みたいな手も。

 乾いた唇も。

 黒い目の下も。



 わたしがわたしになったある日、初めて先生からお願いされた。


 わたしは──もう、うなずいていた。


 髪をまとめて、ビニールのキャップをかぶる。

 先生は、鼻にチューブを入れたわたしを、

 白いシートの上に座らせた。


 背中に手を添えながら、脚に何かを塗っていく。

 肘に指を置きながら、服の上から腹をなぞるように刷毛を動かす。


 やがて、全身が白く覆われていった。

 胸も、腕も、足も、指の一本一本まで。

 最後に顔が覆われていく。


「あとは固まるまで我慢して。取れたら、好きなだけ触ってあげるから」


 そう言われて、真っ暗になった。

 動かないのは、まったくつらくなかった。

 わたしの体は、ここにないから。


 作業中に先生が触ってくれた形が、今のわたしの形。

 それだけが、ずっと残っている。

 ──それがなければ、もう、自分の形すら思い出せなかった。

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