第30話「澪が、距離を、置いている件」
翌朝、キッチンに、降りた、悠真を、迎えたのは、空の、コーヒーカップだった。
テーブルの上に、悠真用の、いつもの、マグカップが、置かれていた。
空のまま。
澪が、淹れていない。
(……当たり前だな)
(昨日、澪さんに、"距離を、置きたい"と言われた)
("毎日のコーヒーも、しばらく、休む"と言われた)
(守ってくれている、というか、距離を、置いている)
悠真は、自分で、コーヒーを、淹れた。
淹れながら、心臓が、変な、痛み方を、していた。
(毎日、当たり前のように、淹れてもらっていたコーヒー)
(一日、ない、だけで、こんなに、寂しい、ものか)
(俺、思っていた、以上に、依存していた)
(澪さんに)
紅が、降りてきた。
「……澪、まだ、降りてこないわね」
「はい」
「コーヒー、自分で?」
「はい」
「……」
紅が、悠真の、向かいに、座った。
「悠真くん、つらい?」
「……つらいです」
「正直ね」
「すみません」
「謝らないで」
(紅さんの、口癖)
(今日も、感染している)
紅が、コーヒーを、淹れた。
「悠真くん」
「はい」
「澪、一週間くらい、降りてこない、と、思う」
「一週間」
「雪女、引きずる、長いから」
「……」
「でも、永遠じゃ、ない。降りてくる」
「降りてきますか」
「あの子、あなたを、好き、なのは、変わらない。だから、降りてくる」
「ですか」
「ただ、距離は、ある。元の、距離じゃ、ない」
「……」
(紅さん、雪女のこと、よく、知っている)
(百年生きた、九尾の、観察)
「悠真くん、その距離を、どう、するか、考えて」
「……はい」
「焦って、距離を、詰めようとしないで。逃げられる」
「分かります」
「分かってる、と思いたい」
(紅さん、相変わらず、的確に、突いてくる)
紅が、コーヒーを、飲んだ。
「それで、悠真くん」
「はい」
「白音の、提案、覚えてる?」
「曜日制、ですか」
「うん」
「……まだ、実行に、移してません」
「今日、何曜日?」
「火曜日です」
「私の日、ね」
(火曜日、紅さんの日)
(白音さんの、提案で、月曜は、澪、火曜は、紅)
(昨日が、月曜日。澪さんと、向き合う日)
(今日は、紅さんの日)
「……はい。火曜日は、紅さんの日です」
「ふふ、ちゃんと、覚えてる」
「白音さんが、考えてくれた、ことなので」
「で、今日、何、する?」
「……何が、いいですか」
「あなたが、考えて」
(紅さん、こういうとき、丸投げしてくる)
(責任を、俺に、持たせる)
(でも、それが、紅さん流の、教育)
悠真が、しばらく、考えた。
「……今日、出かけませんか」
「出かける?」
「澪さんと、距離が、ある今、家にいると、気まずい、と思います」
「気まずいの、私たち?」
「俺と、澪さん、両方が、です」
「……なるほど」
「だから、俺と、紅さんが、外出すれば、家の、空気が、少し、楽になる」
紅が、しばらく、悠真を、見ていた。
「……気遣い、ね」
「半分は、です」
「もう半分は」
「紅さんと、ちゃんと、向き合う日、なので」
紅が、ふっと、笑った。
「いい答え」
「ありがとうございます」
「で、どこ?」
「……紅さん、最近、行きたい場所、ありますか」
「ある」
「教えてください」
「上野の、美術館。フェルメール展、やってる」
「フェルメール、ですか」
「あなた、知ってる?」
「名前、は、知ってます」
「行こう。教えてあげる」
「お願いします」
(紅さんの、デート、文化系)
(澪さんと、植物園、紅さんと、美術館)
(対比、なってる)
---
昼前、悠真と、紅は、上野に、向かった。
紅は、今日、変身していなかった。
いつもの、赤みがかった、長い髪。きれいな、和服。
(紅さん、和服)
(美術館に、和服で、来る、人、なかなか、いない)
(紅さん、目立つ)
「……紅さん、目立ちますね」
「目立つ、と、ダメ?」
「いえ、きれい、ですよ、と、思いました」
紅が、少し、目を、見開いた。
「……あなた、最近、口、上手くなった?」
「思ったことを、口に、出しているだけです」
「それが、口、上手い、ということ」
(紅さんに、口、上手い、と、言われた)
(褒められた、のか、揶揄われたのか)
(紅さんの場合、両方)
---
美術館に、入った。
紅は、フェルメールの絵を、長く、見ていた。
真剣な顔で。
(紅さん、本当に、好きなんだな)
(百年生きた、九尾の、文化的な、趣味)
悠真は、隣で、絵を、見ていた。
「悠真くん、フェルメール、知ってる?」
「光の、画家、と、聞きました」
「正解。彼の絵、光の、表現が、独特」
「具体的には」
紅が、絵を、指した。
「ここ。窓から、入ってくる、光。布の、質感に、当たって、複雑な、反射を、作っている」
「……」
「彼、これを、油絵で、表現した。十七世紀に」
「すごいですね」
「うん。私、彼の絵、見るたびに、思う。光、というものが、これほど、美しいんだ、と」
「……」
「百年、生きていると、いろんな、作品を、見るけど、フェルメール、特別」
(紅さん、文化的な、人)
(悠真と、並んで、絵を、見る、楽しみ方)
(澪さんと、自然を、見る、楽しみ方とは、違う)
悠真も、絵を、見た。
(紅さんに、教わった通り、光の、表現を、見る)
(確かに、独特だ)
(教わると、見え方が、変わる)
「紅さん」
「うん」
「絵、より、深く、見られるように、なりました」
「ふふ、そう?」
「教わると、違いますね」
「うん」
「ありがとうございます」
「お礼、いらない」
(また、口癖)
---
美術館を、出て、上野公園を、歩いた。
紅が、悠真の、隣を、歩いた。
いつもより、距離が、近かった。
(紅さん、距離、近い)
(昨日まで、五人体制、と、決めて、距離が、ある、はずなのに)
(紅さん、迫らない、と、約束していた)
(でも、今日、近い)
「……紅さん」
「うん」
「距離、近い、ですか」
「近い」
「……約束、覚えてますか」
「覚えてる」
「では、なぜ」
紅が、しばらく、考えた。
「……あなたが、辛そうだったから」
「俺、辛そうですか」
「うん。澪のこと、引きずってる」
「……」
「だから、今日くらい、近くに、いてあげようと、思った」
(紅さん、慰めようと、している)
(自分も、選ばれなかった、立場なのに)
(百年生きた、九尾の、優しさ)
「……ありがとうございます」
「お礼、いらない」
「言いたいんです」
紅が、ふっと、笑った。
「悠真くん」
「はい」
「あなた、優しいけど、自分には、優しくない」
「……」
「自分の、感情を、後回しに、する」
「……」
「澪のこと、辛い、ですよね、って、認めて、いい」
悠真が、しばらく、沈黙した。
「……辛い、です」
「そう」
「澪さん、今、コーヒーを、淹れて、くれない」
「うん」
「ログも、休む、と言った」
「うん」
「外出も、しばらく、ないと、思う」
「うん」
「俺、今、澪さんを、失った、感じが、する」
「失ってない」
「……でも、距離が、ある」
「距離は、距離。失う、とは、違う」
「……」
紅が、悠真の、腕を、軽く、握った。
「悠真くん、彼女、戻ってくる」
「戻ってくる、ですか」
「うん。私が、保証する」
「……保証、できますか」
「百年、生きてきた、勘」
「……勘、ですか」
「勘、よ。でも、当たる」
(紅さん、自信、ある)
(百年生きた、九尾の、勘)
(信じる、しか、ない)
---
夕方、上野で、夕食を、食べた。
落ち着いた、和食の店。
紅が、お酒を、頼んだ。
「悠真くん、お酒、付き合って」
「いいですよ」
悠真も、お酒を、頼んだ。
紅が、お酒を、口に、運んだ。
「悠真くん」
「はい」
「あなた、覚えてる? 21話で、私が、言った、こと」
(21話?)
(陰陽庁との、契約交渉の日)
「……覚悟は、続けるもの、ですよね」
「うん」
「覚えています」
「あれ、私、自分にも、言い聞かせるためだった」
「自分にも?」
「あなたを、好きで、いる、覚悟、続ける、ということ」
「……」
「だから、今日も、続けてる」
(紅さん、ずっと、続けてくれている)
(俺、それに、応えられているか)
(応えられていない、気がする)
(俺、紅さんに、何を、与えられている)
「紅さん」
「うん」
「俺、紅さんに、何を、与えられているんでしょうか」
紅が、ふっと、笑った。
「あなた、今日、私と、出かけて、絵を、見て、隣を、歩いてくれた」
「……」
「それで、十分」
「それだけ、で?」
「それだけ、よ。私、九尾だから、長い時間、生きてきた。一人、ずっと。今、誰かと、隣に、いる、それだけで、嬉しい」
「……」
「あなたを、好きで、いる、こと、自分の、選択。あなたから、何かを、もらおうとしてない」
(…………)
(紅さん、深い)
(百年、生きた、九尾の、覚悟)
悠真が、しばらく、沈黙した。
「紅さん」
「うん」
「俺、紅さんに、感謝しています」
「お礼、いらない」
「お礼じゃ、ないです。事実です」
「……」
「紅さんが、いるから、俺、こうやって、続けられる」
「……」
「澪さんに、傷つけた、罪悪感、ある」
「うん」
「でも、紅さんが、隣に、いてくれて、立ち直る、力に、なる」
紅が、しばらく、悠真を、見ていた。
そして、ふっと、笑った。
「……あなた、今日、口、上手すぎ」
「思ったことを、言っているだけです」
「ふふ」
紅が、お酒を、飲んだ。
(紅さんの、頬が、少し、赤くなった)
(お酒の、せい、というより、たぶん、別の、せい)
(紅さんも、感情が、動く)
(俺、ちゃんと、見ている)
---
百鬼荘に、戻ったのは、夜九時だった。
玄関で、靴を、脱いでいると、廊下に、ましろが、立っていた。
「おかえり!」
「ただいま、ましろさん」
「紅さん、おかえり」
「ただいま、ましろちゃん」
ましろが、悠真の、袖を、引いた。
「ましろの、ターン、明日?」
「明日、水曜日です」
「やった!」
「いい子に、待っててください」
「うん!」
(ましろさん、曜日制を、ちゃんと、覚えている)
(一日待つ、ということを、認識した)
(座敷童の、適応力)
紅が、ましろの、頭を、撫でた。
「ましろちゃん、明日、楽しみね」
「うん!」
紅が、悠真を、見た。
「悠真くん」
「はい」
「今日、ありがとう」
「お礼、いらない、ですよね」
「ふふ、感染してる」
紅が、笑って、部屋に、上がっていった。
(紅さん、楽しそうだった)
(火曜日、成功)
(紅さんとの、時間を、ちゃんと、作れた)
---
夜、悠真は、リビングに、降りた。
冷蔵庫を、開けようとしたとき、誰かが、いる、気配を、感じた。
振り向いた。
澪が、立っていた。
「……澪さん」
「……」
澪が、悠真を、見ていた。
冷気が、出ていた。
でも、いつもの、感情の、揺れの、冷気じゃ、なかった。
何か、別の、冷気。
「……どうしました?」
「……ちょっと、水、飲みに、来た」
「そうですか」
澪が、冷蔵庫から、ペットボトルを、取った。
そのまま、立ち去ろうとした。
「澪さん」
悠真が、声を、かけた。
澪が、止まった。
「……何」
「今日、紅さんと、上野に、行きました」
「……」
「フェルメール展、見ました」
「……」
「楽しかったです」
(言ってしまった)
(澪さんに、紅さんとの、デートの、報告を、している)
(卑怯か、誠実か)
(嘘を、つかない、と、決めた)
澪が、しばらく、悠真を、見ていた。
「……うん」
「……澪さん、怒っていますか」
「……怒ってない」
「複雑な、気持ち、ですか」
「……うん」
「……」
「悠真」
「はい」
「……一つ、聞いていい?」
「どうぞ」
澪が、しばらく、悠真を、見ていた。
「……今日、紅と、楽しかった?」
「楽しかったです」
「……」
「でも、ずっと、澪さんのこと、考えていました」
「……」
「考えながら、紅さんと、過ごしました」
「……」
「卑怯ですか」
「……卑怯」
「すみません」
「……でも、嬉しい」
(澪さん、また、卑怯と、嬉しい、を、同時に、言った)
(雪女の、本音)
「澪さん」
「……うん」
「来週の、月曜、お時間、ありますか」
「……月曜?」
「……月曜は、澪さんの日です」
澪が、しばらく、悠真を、見ていた。
「……月曜は、澪の日?」
「白音さんが、提案してくれた、曜日制です。月曜は、澪さん。火曜は、紅さん。水曜は、ましろさん。木曜は、みつきさん。金曜は、白音さん」
「……」
「五人と、一人ずつ、ちゃんと、向き合う、ための、システムです」
「……」
「澪さんが、距離を、置きたい、と言ったので、来週の月曜、まで、お時間、もらいます」
「……」
「来週の、月曜、もし、澪さんが、それで、いい、と思ってくれるなら、何か、しませんか」
澪が、しばらく、沈黙した。
「……何、する?」
「澪さんが、決めてください」
「……私が?」
「俺、紅さんと、上野に行きました。澪さんとは、植物園に行きました。今度は、澪さんが、決めてください」
「……」
「拒否、してもいいです」
澪が、しばらく、悠真を、見ていた。
そして、小さく、頷いた。
「……考える」
「お願いします」
「……すぐ、答えない」
「もちろんです」
「……」
澪が、ペットボトルを、持って、立ち去ろうとした。
悠真が、もう一言、言った。
「澪さん」
「……うん」
「俺、待ちます。澪さんが、戻ってきてくれるまで」
澪が、振り向いて、悠真を、見た。
「……戻る、と、決めてない」
「分かってます。でも、待ちます」
「……」
「焦りません」
澪が、しばらく、悠真を、見ていた。
「……うん」
澪が、廊下に、出ていった。
(少し、話せた)
(昨日、距離を、置きたい、と言われた、澪さんと、今日、少し、話せた)
(前進、と、言ってもいい、のかもしれない)
(焦らず、続ける)
---
深夜、悠真は、部屋で、ノートPCを、開いた。
*【自分のログ:三十日目】*
*感情:寂しい、嬉しい、罪悪感、希望*
*寂しい:澪さんが、距離を、置いている。コーヒーを、淹れてくれない。ログも、休み*
*嬉しい:紅さんと、上野で、楽しい時間を、過ごせた*
*罪悪感:澪さんを、傷つけたまま、紅さんと、楽しい時間を、過ごした*
*希望:澪さんと、夜中、少し、話せた。月曜、何かをする可能性がある*
(ログ、書き終わった)
(複雑な、感情)
(でも、認識して、言葉に、できる)
(澪さんに、教わった、感情ログの、効果)
(澪さんが、いない時にも、効いている)
廊下に、誰かの、気配を、感じた。
冷気は、ない。
でも、何かが、ドアの前に、置かれた、気配。
悠真が、ドアを、開けた。
マグカップが、置かれていた。
コーヒーが、入っていた。
(…………)
(澪さん?)
(澪さん、コーヒーを、置いていった?)
(休む、と言っていたのに)
悠真が、コーヒーを、手に取った。
温かかった。
(…………)
悠真は、しばらく、廊下を、見た。
澪は、もう、いなかった。
(澪さん、距離を、置きながらも、コーヒーを、置いていってくれた)
(不器用、な、雪女)
(不器用、だけど、優しい)
(俺、改めて、好きだ、と、思った)
(口には、出さないが)
悠真は、コーヒーを、飲んだ。
いつも通りの、味。
澪さんの、コーヒー。
(おいしい)
(俺、ちゃんと、続ける)
(澪さんが、戻ってくるまで)
(戻らないとしても、続ける)
(それが、俺の、覚悟)
---
岬悠真、百鬼荘生活、三十日目。
澪との距離が、ある。紅と、上野の、フェルメール展に、行った。紅と、深い話を、した。澪と、夜中、少し、話せた。月曜の、約束を、提案した。澪が、コーヒーを、置いていってくれた。
それ以外は——
複雑な、一日。
でも、進歩は、あった。
(澪さんが、コーヒーを、置いていってくれた)
(不器用な、メッセージ)
(受け取った)
(俺、続ける)
---
*【第31話「ましろが、悠真の、ことを、心配している件」に続く】*
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