第16話「陰陽庁の上層部が、動き始めた件」
紅との契約から、三日が過ぎた。
日常は、いつも通りに見えた。
澪は朝と夕方にコーヒーを淹れた。紅は朝食の時間をいつもより少し長くするようになった。ましろは膝に乗る回数が一日二回から三回に増えた。みつきは首を伸ばして悠真の様子を確認する頻度が増えた。白音は縁側で湯呑みを持って、それを楽しそうに見ていた。
いつも通り——というより、密度が上がった、というのが正確だ。
(みんな、それぞれ、なんかこう、やってきている)
(俺の周りで、競争が起きている)
(それに、巻き込まれている)
(……贅沢な悩みだな)
木曜日の午前、悠真がコードを書いていると、スマートフォンが鳴った。
知らない番号だった。
出るかどうか迷った。エンジニアあるあるで、知らない番号は基本、営業電話だ。
でも、何となく、出た。
「岬さんですか」
低い男の声だった。
(神代さんじゃない)
(聞いたことのない声)
「そうですが」
「陰陽庁、上層部の者です」
(は?)
(直接、上層部?)
悠真は手を止めた。
「……どちら様ですか」
「名前は申し上げられません。ただ、陰陽庁の判断について、あなたに直接お伝えしておきたいことがあります」
「神代さんを通してください」
「神代では、伝えられない内容です」
(伝えられない、ということは、神代さんに知られたくない、ということか)
「……何の話ですか」
「百鬼荘について、近日中に、新たな決定が下されます」
「決定?」
「具体的にはお伝えできません。ただ、その決定は、現在の住人にとって、好ましいものではない可能性が高い」
「具体的にはお伝えできない、と言いながら、警告だけしてくる、というのは」
「忠告です」
「忠告?」
「あなたは、まだ、引ける立場にあります」
「引ける、というのは」
「百鬼荘から離れる、ということです」
悠真は少し、息を呑んだ。
(来た)
(陰陽庁の上層部から、直接、退去勧告)
「……断ったら?」
「あなたが、あの家にいる限り、面倒な事態が起こります」
「面倒、というのは」
「住人にも、影響が及ぶ」
(住人を盾にしてきた)
(俺を退去させるために、住人を脅す)
(これが、上層部のやり方か)
「……神代さんは、これを知っていますか」
「知りません」
「なぜ俺に直接連絡を?」
「神代を経由すると、緩い対応をされる可能性が高い」
「神代さんは、職場で苦労していそうですね」
「コメントしません」
(神代さんと同じ返しをしてきた)
(陰陽庁の常套句なのか?)
「……もう一度聞きます。具体的に、何の決定が、いつ、下されるんですか」
「お伝えできません」
「では、忠告だけ、ということですか」
「はい」
「……わかりました。考えます」
「賢明な判断を、お待ちしています」
電話が、切れた。
悠真はしばらく、スマートフォンを見ていた。
(具体的じゃない警告)
(具体的じゃないが、感じが、悪い)
(神代さんの忠告とは、違う性質の話だ)
(神代さんは、紅さんを管理下に置くという「具体的な拘束」を提示してきた)
(今の上層部の人は、具体性を出さない。"何かが起こる"とだけ言って、引かせようとしている)
(脅しだ。これは、明確に脅しだ)
(じゃあ、引くか?)
(……引かない)
(引いたら、住人たちが、どうなるかわからない)
(それなら、俺が残ったほうが、たぶん、まし)
---
昼前、悠真は管理人を探した。
縁側にいた。いつものように、扇子を持って、庭を眺めていた。
「管理人さん」
「うむ」
「上層部から、電話がありました」
管理人が、扇子を一度、ぱちんと閉じた。
「来たか」
「予想していたんですか」
「動きが、来ると思っていた。あの神代という男が、緩い契約を結んだから、上層部が直接動く可能性は高いと思っていた」
「具体的なことは何も言いませんでした」
「言わんだろう」
「……どういう手なんですか、これ」
管理人がしばらく、庭を見た。
「お前を退去させて、百鬼荘の"楔"を抜こうとしている」
「楔?」
(前にも、似たようなことを言われた気がする)
("お前にしかできないことがある")
("百鬼荘が何のために存在するか、知るべき時が来る")
(神代さんも、同じようなことを言っていた)
管理人が、扇子を開いた。
「岬悠真」
「はい」
「お前は、もう少し、知っておいたほうがよさそうだ」
「何をですか」
「百鬼荘の、本当の役割を」
(来た)
(来てしまった)
(覚悟はしていたが、いざ来ると、心臓が、跳ねる)
---
管理人が、縁側に座るよう、悠真に促した。
悠真は、隣に座った。
「百鬼荘は、ただのシェアハウスではない」
「それは、知っています」
「ここは、妖怪の存在を、現実に繋ぎ止める場所だ」
「……繋ぎ止める?」
「妖怪は、本来、曖昧な存在だ。人間の認識、恐れ、伝承——そういうものに支えられて、形を保っている」
「……」
「現代では、信じる人間が減った。恐れも薄れた。だから、妖怪は、消えかけている」
(消える、ということがあるのか、妖怪に)
(白音さんの話を思い出した)
("私が死ぬときは、白い人影として最後に目撃される")
(あれは、感傷的な冗談じゃなくて——本当に、消えかけていた、ということか)
「百鬼荘は、その消滅を防ぐための場所だ」
「具体的には」
「ここに住む妖怪は、ここにいる限り、安定する。形を保てる。消えない」
「百鬼荘という建物に、そういう力があるんですか」
「建物だけではない」
管理人が、悠真を見た。
「お前が、ここにいるからだ」
「……俺が?」
「お前は、アンカーだ」
「アンカー?」
「妖怪を、現実に繋ぎ止める、楔だ」
(………………………………)
(俺が、楔)
(俺が、いるから、妖怪は、消えない)
「……根拠は」
「根拠か」管理人が少し笑った。「お前、エンジニアだな」
「すみません、職業病で」
「いや、いい」管理人がまた笑った。「根拠を求めるのは、悪いことじゃない」
管理人が扇子を閉じた。
「お前は、雪女に凍らされない。九尾の幻術が効かない。座敷童の不運も座敷童の幸運も、お前にだけは均等に作用する。これは、偶然か?」
「……偶然ではない、と」
「そうだ。お前は、人間として、極めて"安定した存在"だ。妖怪の力学が、通用しない。だから、お前がここにいると、妖怪は、お前を中心に、自分の存在を、現実に固定できる」
(白音さんが、来てから、安定しているように見えた)
(紅さんが、最近、本音を言うようになった)
(澪さんが、感情を、少しずつ、表現できるようになった)
(ましろさんが、ちゃんと笑顔の温度を取り戻すようになった)
(全部、俺が、ここにいるから?)
「……俺がいなくなったら、どうなりますか」
管理人がしばらく、悠真を見た。
「……いずれ、住人たちは、消える」
「いずれ、というのは」
「すぐに、ではない。じわじわとだ」
(それが、上層部の言う"住人にも影響が及ぶ"の正体か)
(俺を退去させれば、ゆっくりと、住人が消えていく)
(時間をかけた、合法的な、排除)
「……ひどい話ですね」
「陰陽庁にとっては、合理的な判断だ。妖怪を、表立って排除するわけではない。ただ、人間の楔を抜くだけだ。後は、自然に、消える」
「合理的、ですか」
「奴らの基準ではな」
(……いい加減に、しろ)
("自然に消える"を待つというのは、結局、殺してるのと、同じだろう)
「……俺は、出ません」
管理人が、悠真を見た。
「決断、早いな」
「考える必要が、ないので」
「考える必要は、あるぞ」
「ないです」
「お前が残れば、お前自身が、危険な目に遭う可能性が、高くなる」
「住人が消えるよりは、ましです」
管理人がしばらく、悠真を見ていた。
そして、ふっと、笑った。
「……お前を、選んだのは、正解だったな」
「選んだ?」
「お前が、ここに来ることは、決まっていた、と最初に言ったな」
「言いました」
「あれは、運命とか、そういう話じゃない」
「では、なんですか」
「……俺が、選んだ」
(…………え?)
(管理人が、選んだ?)
「お前が、家を探していた時、家賃二万円の物件として、お前の検索結果に、この家を表示させた」
「……仕組み、何ですかそれ」
「妖怪の管理人にしか、できない、細工だ」
「具体的には」
「お前のスマートフォンに、お前にだけ、見えるように、この家の情報を、表示させた。他の人間には、別の物件として表示されている」
(…………………………)
(つまり、俺は)
(最初から、選ばれて、ここに来た)
(家賃二万円の物件は、俺だけに見えていた)
(じゃあ、他の人間が応募してこなかったのも、当然か)
「……なぜ、俺を、選んだんですか」
「お前が、適合者だったからだ」
「適合者?」
「アンカーになれる人間は、稀だ。妖怪の力学が通用しない、極めて安定した存在。条件を満たす人間が、何百年に一度しか、現れない」
「……」
「お前は、その条件を、満たした」
(俺が、何百年に一度の、アンカー)
(そんな、大それた話、信じるのか?)
(信じるしかない)
(だって、根拠が、揃っている)
(俺は、雪女に凍らされない。九尾の幻術が効かない。座敷童の影響が均等)
(それが、偶然じゃない、というのは、確かに、納得がいく)
悠真は、しばらく、庭を見た。
「……管理人さん」
「うむ」
「俺、あなたに、選ばれて、利用されてる、ということですか」
管理人が、扇子で口元を隠した。
「……そうだ」
「正直ですね」
「嘘をつく理由がない」
「……嫌な気は、しないですか」
「お前が、嫌な気がするか、ということか」
「はい」
悠真は、しばらく、考えた。
「……そんなに、嫌じゃないです」
「ほう」
「住人たちのこと、好きなので。利用されたとしても、結果として、俺が、ここに来られたのなら、悪い話じゃないです」
管理人がしばらく、悠真を見た。
「……お前は、本当に、変わった人間だな」
「みんなにそう言われます」
「そうだろうな」
管理人が、扇子を閉じた。
「もう一つ、伝えておく」
「はい」
「上層部が動く、ということは、近いうちに、何かが起きる」
「具体的には」
「わからん。だが、お前が選んだ以上、俺も、できる範囲で、動く」
「動く、というのは」
「俺が、お前たちを、守る」
「……ありがとうございます」
「礼は、まだ、要らん。何が起きるか、わからんからな」
(管理人さん、本気で動く気だ)
(最初に「俺は基本、動かん」と言っていた人が)
(俺が選んだから、動く)
(責任、感じる)
(でも、引き返せない)
---
午後、悠真は住人を集めた。
全員。澪、紅、ましろ、みつき、白音。管理人も、今回は来た。
キッチンに集合した。
悠真は、上層部からの電話の話を、まずした。
全員が、真剣な顔で、聞いた。
「……それで」と紅。「あなたは、どう答えたの?」
「考えます、と答えました」
「考えた結果は?」
「残ります」
澪が、悠真を見た。
「……でも、危ない」
「危ないですが、出ても、住人が消えるかもしれない、と聞きました」
「消える?」
悠真は、管理人から聞いた話を、共有した。
アンカーの話。百鬼荘の役割。住人が消えかけている、という話。
全員が、しんとした。
白音が、しばらくして、口を開いた。
「……薄々、感じていたわ」
「白音さんも?」
「ええ。ここに来てから、自分の存在が、安定している気がしていたの。新宿で消えかけていたときとは、明らかに違う」
「私もよ」と紅。「最近、力の使い方が、安定してる。前よりずっと、楽に変身できる」
「……私は、感情の制御が、しやすくなった」と澪。「前は、感情が揺れたら、止められなかった。今も止まらないけど、前よりは、止まる」
(電気代節約マニュアルが、効いた、と思っていたが)
(実は、俺がいるから、安定していた、という側面もあるのか)
「ましろも!」とましろ。「最近、自分の存在が、ちゃんと、ある感じがする」
「みつきも、昔より首が伸ばしやすくなってる気がする」とみつき。「気のせいかもだけど」
(みんな、心当たりが、あるんだな)
(じゃあ、俺がここから出ると、これが、全部、戻る)
(消えかけていた状態に、戻る)
(白音さんは、前のように、新宿で消えかける)
(澪さんは、感情を、また制御できなくなる)
(ましろさんは、存在が、薄くなる)
(紅さんは、力の使い方が、不安定になる)
(俺、引けないな、これは)
「……俺は、残ります」と悠真は改めて言った。
全員が、悠真を見た。
「ただし、ひとつ、お願いがあります」
「何?」と紅。
「俺が残ることで、みなさんが危険な目に遭う可能性があります。だから、もし、無理だと思った住人がいたら、ここから出てもいいです。俺は、それを止めません」
澪が、即答した。
「……出ない」
「俺がここに残ることで、澪さんが危険指定で——」
「出ない」
「……澪さん」
「……ここが、私の家」
(即答だ)
(澪さん、即答)
紅も、頷いた。
「私も、出ない」
「私も」と白音。
「ましろも!」
「あたしも」とみつき。
全員が、出ない、と言った。
(嬉しい)
(嬉しいが、責任が、重くなる)
(俺、もう、引き返せない)
管理人が、扇子を開いた。
「決まったな」
「決まりましたね」
「では、戦う準備を、する」
(戦う)
(戦う、と来た)
(百鬼荘、本格的に、戦闘モードに入る)
---
夜、悠真は部屋で、今日のことを整理していた。
アンカー、という単語が、頭から離れない。
(俺は、この家の楔だ)
(俺がいなくなれば、住人たちは、消える)
(責任、重い)
(重いが、悪い気は、しない)
(むしろ、納得が、いく)
(俺がここにいる理由が、ちゃんと、ある)
(家賃が安いから、だけじゃ、なかった)
廊下に、冷気が来た。
いつもの澪だ。
「……澪さん」
「……うん」
「今日は、大変な話を、しました」
「……うん」
「澪さんが、出ない、と言ってくれて、嬉しかったです」
「……当たり前」
「当たり前、ですか」
「……うん」
しばらく、沈黙があった。
「……悠真」
「はい」
「……前に、言った」
「何を、ですか」
「……いつか、ちゃんと、話したい、って」
「言いましたね」
「……今日が、いつか、じゃないけど」
「はい」
「……でも、ひとつだけ、言いたい」
「どうぞ」
澪が、しばらく、廊下で沈黙した。
「……ここに、いてくれて、ありがとう」
悠真は、しばらく、ドアを見ていた。
(澪さんが、ありがとう、と言った)
(しかも、"ここにいてくれてありがとう")
(俺が、ここにいることが、澪さんにとって、ありがたい、ということを、ちゃんと、言葉にしてくれた)
「……こちらこそ」
「……何が」
「澪さんが、ここにいてくれて、ありがとうございます」
澪が、しばらく、沈黙した。
「……卑怯」
「え?」
「……返してくる、の、卑怯」
「……すみません」
「……謝らないで」
澪が、ふっと、息を吐いた。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が、遠ざかった。
冷気が、部屋に、残った。
(澪さん、嬉しそうな冷気だった)
(雪女の感情、わかってきた)
(少し、わかってきた)
---
夜更け、紅も部屋に来た。
ノックして、入ってきて、椅子に座った。
「悠真くん」
「はい」
「……ありがとう」
「何が」
「あなたが、残ることを、選んでくれて」
「俺の、判断です」
「でも、私たちのために、選んでくれた、面が、あるでしょ?」
「……そう、ですね。たぶん、それが、大きいです」
紅が、少し、目を伏せた。
「……重い、ね、それは」
「重いですが、後悔は、ないです」
「……」
「俺が選んだことなので」
紅が、しばらく沈黙した。
「……悠真くん」
「はい」
「私、本気で、迫る、って言ったでしょ」
「言いましたね」
「……今日は、迫らない」
「え?」
「今日は、ただ、お礼が、言いたかった」
(紅さんが、自分から、迫らない、と言ってきた)
(迫る権利を、持っているのに、今日は、使わない)
(そういう、紅さんが、好きだ、と思った)
(思ったが、口には、出さない)
「……ありがとうございます」
「ふふ、私も、ありがとう」
紅が、立ち上がった。
「あなたが、ここにいる限り、私たちは、消えない」
「はい」
「……だから、長生きしてね」
「長生きします」
「約束?」
「約束します」
紅が、部屋を出ていった。
(紅さんも、ありがとうを言いに来た)
(澪さんも、ありがとうを言いに来た)
(みんな、それぞれの形で、感謝を伝えてくれる)
(俺、たぶん、これからも、ここにいる)
(何が、起きても)
---
岬悠真、百鬼荘生活十六日目。
陰陽庁の上層部から、退去勧告の電話が来た。管理人から、自分がアンカーだと聞かされた。住人を集めて、状況を共有した。全員が「出ない」と言った。澪と紅から、それぞれ、ありがとうを言われた。
それ以外は——
人生の、転換点だった。
でも、悪い、転換点では、ない。
たぶん。
---
*【第17話「澪が、危険指定された件」に続く】*
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