第14話「澪が、何かを伝えようとしている件」
月曜日の朝、悠真はいつものように起きて、いつものようにキッチンに降りた。
いつものように、と言えるくらい、百鬼荘の生活にはリズムができていた。
澪はコーヒー。紅は新聞。ましろは悠真の隣の椅子。みつきは寝ぼけて首だけ廊下にいる。白音は縁側で湯呑みを持っている。冷蔵庫の前にはプリンが一個。これが百鬼荘の朝の標準構成だ。
(このメンツがすでに「いつも通り」になっているの、よく考えると変だが)
(変ということに気づかなくなったら、たぶん俺は完全にこの家の住人だ)
悠真が椅子に座ると、澪が無言でコーヒーを差し出してきた。
「……はい」
「……ありがとうございます」
(あれ)
淹れたてのコーヒーだ。
悠真の分として、用意してくれていた。
「……澪さん、今日は早起きですね」
「……いつもより、少し」
「コーヒー、ありがとうございます」
「……うん」
澪がさっと視線を逸らした。耳が、わずかに赤い。
(耳が赤い)
(朝から赤い)
(朝から赤くなる理由、コーヒーを淹れたから、か)
紅が新聞越しに、ちらっとこちらを見た。何か言いたそうな顔をして、何も言わずに視線を新聞に戻した。
(紅さん、絶対に何か気づいた)
(後で揶揄われるな、これは)
---
午前中、悠真は仕事をしていた。
新しい案件は順調に進んでいる。フロントエンドの実装が終わって、今はバックエンドのAPIを書いている。集中していると、時間が早い。
十一時半ごろ、ドアがノックされた。
「どうぞ」
澪が入ってきた。
手にお盆を持っている。お盆の上に、お茶と、何か和菓子が乗っていた。
「……仕事中、ごめん」
「いえ。なんですか?」
「……お茶」
「ありがとうございます」
「……和菓子も」
「……ありがとうございます」
(澪さん、和菓子まで持ってきた)
(朝コーヒーを淹れて、お茶と和菓子を持ってきた。今日は、澪さんがやけに気が利く日だ)
(いや、気が利く日、というか)
(白音さんに、何か言われたのか?)
澪が机の端にお盆を置いた。
そして、立ち去らなかった。
(立ち去らない)
(あれ)
悠真は仕事の手を止めた。
「……澪さん、何かありましたか」
「……ない」
「ない、ですか」
「……ない」
「……」
(沈黙だ)
(沈黙が長い)
(ここで「じゃあなぜ立ち去らないのですか」と聞くのは、たぶん正解じゃない)
(澪さんは、何かを言いたいけど、言えないでいるんだろう)
「……一緒に飲みますか」
「……うん」
澪がそそくさと、もう一つの湯呑みを持ち出した。お盆に二つ用意してきていたらしい。
(最初から、二人分用意してきた)
(つまり、最初から、ここにいる気だった)
(澪さん、考えてきたな)
悠真は椅子を澪のために引いた。澪が座った。
お茶を一口飲んだ。
「……おいしいですね」
「……ほうじ茶」
「澪さん、お茶も淹れるんですね」
「……基本だけ」
「俺は淹れ方すら適当なので、尊敬します」
「……尊敬?」
「はい」
澪が少し、口元を緩めた。それから、ふっと真顔に戻った。
(真剣な顔になった)
(来るぞ、何か)
「……悠真」
「はい」
「……あの」
「……はい」
澪が湯呑みを見ていた。
しばらく、沈黙が続いた。
「……あの」
「はい」
「……」
「……」
「……今日は」
「今日は?」
「……天気が」
「天気が」
「……いい」
「……そうですね」
(天気の話)
(澪さんが、天気の話を切り出した)
(雪女が)
(雪女が、天気の話)
(しかも"天気がいい"、で会話が止まった)
(これは、何かを言うために、天気の話を切り出して、そして言えなくなったパターンだ)
(プログラミングでいうと、関数を呼び出したけど引数が足りなくてエラーで止まっている)
悠真は少し考えた。
(白音さんのアドバイスを思い出す。"あなたから手を差し出して")
(澪さんは、何かを言おうとしている。でも、言えない)
(だったら、俺から、ちょっと、押してみる)
「澪さん」
「……うん」
「もし、何か言いたいことがあれば、聞きますよ」
澪が顔を上げた。
「……聞く?」
「はい」
「……でも、長い」
「長くてもいいです」
「……まとまってない」
「まとまってなくてもいいです」
澪がしばらく、悠真を見ていた。
そして、視線を逸らして、湯呑みを両手で握った。
「……いつか」
「いつか?」
「……いつか、ちゃんと、話したい」
「いつかですか」
「……今日は、まだ、話せない」
(保留された)
(澪さんが、自分で保留した)
(でも"いつか話したい"と言った)
(これは、進歩だ。今までだったら、立ち去って終わりだった)
「……わかりました。いつか、聞きます」
「……うん」
「待ちます」
「……うん」
澪が小さく、頷いた。
しばらく、二人でお茶を飲んだ。
話さなくても、気まずくない時間だった。
(こういう時間が、すごく好きだ)
(澪さんと、何も話さずに、ただ同じ部屋にいる時間)
(口には、出さないが)
---
昼、白音が悠真の部屋に来た。
「……午前中、澪が、お茶を持ってきていたわね」
「見てたんですか」
「廊下を通ったときに、お盆が見えただけ」
「そうですか」
「うまく、いった?」
「……いったような、いってないような」
「どういうこと?」
悠真は説明した。澪が話そうとして、止まったこと。「いつか話したい」と言ったこと。
白音が、少し、うんうんと頷きながら聞いていた。
「……それは、いい兆候ね」
「いい兆候、ですか?」
「ええ。今までの澪なら、何も言わずに帰っていた。"いつか話したい"が言えるだけで、雪女としては大進歩」
「百年が、もう少し、短くなりそうですか」
「半年くらいには」
「半年か」
(半年待つのか)
(しかし、澪さんのペースだから、これは尊重するべきだ)
「悠真くん、急かさないでね」
「急かしません」
「ただ、ちゃんと、聞く準備だけは、しておいて」
「……はい」
白音が少し笑った。
「いい男ね、悠真くん」
「そうですか」
「自覚なくそれを言うところが、特に」
(褒められているのか、揶揄われているのか、わからない)
---
夕方、ましろが部屋に来た。
「おにいさん、今日、澪さんと長く話してたね」
「ましろさん、見てたんですか」
「みつきさんが教えてくれた」
(みつきさん!)
「……みつきさん、相変わらず情報網が広いですね」
「うん。でも、ましろも、ちゃんと知りたいから聞いた」
「……どうしてですか」
「だって」ましろが少し下を向いた。「澪さん、最近、おにいさんに話しかける時間が長くなってるから」
(ましろさん、観察してる)
(観察して、気にしている)
「澪さんは、住人ですから、話すのは普通ですよ」
「うん。普通。でも、ましろは、ちょっとだけ気になる」
("ちょっとだけ"の温度が、いつもと違う)
(ヤンデレ系の温度ではない)
(もっと、子どもらしい嫉妬の温度だ)
(最近、ましろさんの気配が、ヤンデレと普通の子どもの間で揺れている気がする)
悠真は少し考えた。
「ましろさんは、嫉妬してますか」
ましろが、ぱっと顔を上げた。
「しっと、って?」
「自分以外の人が、自分の好きな人と話していて、ちょっと羨ましい、って気持ちです」
「……うん」
即答だった。
「うん、それかも」
「正直ですね」
「だって、ましろは、ましろだから」
(よくわからないが、本人の中では筋が通っているらしい)
「……ましろさんも、毎日、話してますよ」
「うん」
「澪さんと話す時間より、ましろさんと話す時間のほうが、長いかもしれないです」
「……ほんとに?」
「数えたわけじゃないですが、たぶん」
ましろがぱっと笑った。
「ほんと?」
「ほんとです」
「……えへへ」
ましろが少し、機嫌を直した。
(座敷童の機嫌の取り方、わかってきた)
(言葉で、ちゃんと伝えるのが、効く)
「ねえ、おにいさん」
「何ですか」
「澪さん、何を話したかったんだろうね」
「……たぶん、本人にもまだ、まとまってないみたいです」
「ふうん」
ましろが、しばらく考えた。
「……澪さん、おにいさんのこと、好きだから」
(さらっと言った)
(さらっと言った)
(ましろさん、たまに核心を、子どもの素直さで突いてくる)
「……」
「気づいてた?」
「……気づいています」
「ましろも、好きだよ」
「ありがとうございます」
「みんなが好きだから、おにいさん、大変だね」
(大変ですね、本当に)
「……ありがとうございます」
「えへへ」
ましろが部屋を出ていった。
悠真は、しばらく、机を見ていた。
(ましろさんに、ストレートに「澪さんはあなたを好き」と言われた)
(言われると、改めて、認識する)
(俺は、それを、どう受け止めればいい)
(受け止め方を、まだ、決められていない)
---
夜、紅が部屋に来た。
ノックして入ってきて、椅子に座った。にやにやしている。
「面白いことが起きてるね、最近」
「何ですか」
「澪が、頑張ってる」
「……知ってますか」
「知ってる。朝のコーヒーから、見てた」
「やっぱり気づいてましたか」
「気づくに決まってるでしょ。あの澪が、朝からコーヒー淹れて、お茶持ってきて、和菓子まで用意してたら」
(やはり)
「白音さんに、何か言われたんですかね」
「白音は、たぶん、何も具体的なことは言ってない」
「そうなんですか」
「あの子は、ヒントだけ落として、本人に考えさせるタイプ」
「……教育者っぽいですね」
「白蛇は元々、社で人間に教えを説いていた一族だから、そういうの上手い」
(白蛇の昔の役割、初めて聞いた)
「で、悠真くんは」紅が足を組んだ。「澪のこと、どう思ってるの?」
(来た)
(紅さんから、直球の質問)
「……難しい質問ですね」
「難しいの? シンプルじゃない?」
「シンプルじゃないです」
「なんで」
悠真は少し考えた。
「澪さんのことは、好きです。たぶん、好きです。でも、それが恋愛感情なのか、住人としての好きなのか、まだわからないです」
「……エンジニアの言い方ね」
「合理的じゃないですか?」
「合理的すぎて、味気ない」
「すみません」
「謝らなくていい」紅が少し、真顔になった。「でも、決めるのは、急がなくていいわよ」
「急ぐ必要は、ないですか」
「ないわよ。澪は、待ってる。半年でも、一年でも、たぶん、待つ」
「……」
「ただ」
紅が悠真を見た。
「待たせすぎるのは、ずるい」
(ずるい、という言葉が、効いた)
(紅さんに、前にも言われた)
("私は別の話をしてる"のときも、澪さんに"ずるい"と言われていた)
(紅さんは、ずるさには厳しい)
「……はい」
「あなた、優しいから、たぶん、待たせちゃう」
「優しい、というか、ただ決めかねているだけです」
「それも、ある意味、優しさよ」
紅が立ち上がった。
「澪が動き始めた以上、あなたも、考え始めて。考えるだけでいい。答えを出さなくていい」
「……はい」
紅がドアの前で振り返った。
「私のことは、まだ、考えなくていい」
(え)
「……それは」
「先に、澪のこと考えて。私は、後でいい」
「……でも」
「ふふ」
紅が少し、寂しそうに笑った。
「私のほうが、待つの、慣れてるから」
(紅さんが、待つことに慣れている)
(百年単位で生きてきた九尾の言葉だ)
(重い)
(でも、その重さを、軽く言ってくる)
紅が部屋を出ていった。
悠真は、しばらく、ドアを見ていた。
(紅さんも、好きだ)
(紅さんのことも、好きだ)
(やっぱり、難しい)
---
深夜。
悠真がコードを書いていると、廊下に冷気が来た。
いつもの澪だ。
「……澪さん」
「……うん」
「今日は、お茶、ありがとうございました」
「……うん」
「和菓子も、おいしかったです」
「……和菓子は、私が作ったんじゃない」
「澪さんが選んでくれたんですよね」
「……うん」
「だったら、澪さんのおかげです」
澪が、少し黙った。
「……悠真」
「はい」
「……今日、私、変だった?」
「変じゃなかったですよ」
「……変じゃなかった?」
「変じゃないです。ちょっと、いつもより、頑張ってる感じはしました」
「……」
「頑張ってくれて、嬉しかったです」
澪が、廊下で、しばらく沈黙した。
「……悠真」
「はい」
「……いつか、ちゃんと、言うから」
「待ってます」
「……すぐじゃ、ないかも」
「すぐじゃなくてもいいです」
「……でも、いつかは」
「いつかは、聞きます」
「……約束?」
「約束します」
しばらく、間があった。
「……ありがとう」
「いえ」
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
澪が、廊下を歩いていった。
部屋に、冷気が残った。
でも、いつもより、ずっと、穏やかな冷気だった。
(澪さんが、約束をしてくれた)
("いつか言う"の約束)
(俺も、それまでに、ちゃんと、自分の気持ちを整理しておこう)
(紅さんに言われたとおり、答えを出すんじゃなくて、考えるだけ)
(でも、考え始めるところから、始める)
---
翌朝。
キッチンに降りると、また澪が早起きしていた。
コーヒーを淹れていた。
悠真の分も、用意していた。
「……おはよう」
「おはようございます。今日もありがとうございます」
「……毎日、淹れる」
「え?」
「……毎日、悠真の分、淹れる」
「……ありがとうございます」
「……話したい、毎日、って言ったから」
「言いましたね」
「……だから、コーヒーを、毎日淹れる。話す前に、コーヒーがあると、いい」
(澪さん、自分のペースで、関係を作ろうとしている)
(毎日、コーヒー)
(朝のルーティンに、自分を組み込もうとしている)
(不器用だが、確実に、距離を詰めてきている)
「……ありがとうございます。楽しみにします」
「……うん」
紅が新聞を読みながら、ちらっと悠真を見た。今日も何か言いたそうな顔をして、何も言わずに視線を戻した。
(今日の紅さんも、何か気づいているな)
(紅さんに何かを言われる前に、俺自身が答えを出さないと)
---
岬悠真、百鬼荘生活十四日目。
澪に朝コーヒーを淹れられた。お茶と和菓子を持ってこられた。「いつか話したい」と保留にされた。白音にアドバイスをもらった。ましろに嫉妬されつつ、「ましろも好きだよ」と言われた。紅に「考え始めて」と言われた。澪に「明日も淹れる」と言われた。
それ以外は——
大忙しな一日だった。
でも、悪くなかった。
むしろ——
(嬉しかったな、今日)
(口には、出さないが)
---
*【第15話「狐が、本気で迫ってきた件」に続く】*
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