第9話「陰陽庁の男が、話しかけてきた件」
月曜日の朝、黒スーツが増えた。
いつもは一人だった。電柱の前か、向かいのビルの陰か、どちらかに一人。それが今日は二人になっていた。一人はいつもの位置。もう一人は少し離れた場所、百鬼荘の側面が見える角に立っている。
悠真はコーヒーを飲みながら、キッチンの窓から外を確認した。
(来た)
(管理人の言っていた通りだ)
「……おにいさん、どうしたの?」
ましろが悠真の隣に立った。窓の外を見た。
「……あの人たち、また来てるの?」
「増えました」
ましろが少し、表情を変えた。
いつもの笑顔ではなく、もう少し真剣な顔だ。子どもの顔ではなく、何か古いものを見るような目。
「……気をつけて、おにいさん」
「何かわかりますか、あの人たちのこと」
「わからない。でも」ましろが悠真の袖をつかんだ。「ましろのそばから離れないで」
「外に出る用事があります」
「……そばにいて」
「大丈夫ですよ」
「おにいさんが大丈夫でも、ましろが大丈夫じゃない」
(それは俺の問題じゃなくてましろさんの問題では)
(でも、心配してくれているのはわかる)
「昼には戻ります」
「絶対?」
「絶対」
ましろがしばらく悠真を見てから、袖を離した。
「……わかった」
離した手が、また少し強く握り直された。
「でも、ましろが行っていいって言うまで、行かないで」
「……わかりました」
(この交渉、どこに着地するんだ)
---
結局、外に出たのは午前十時過ぎだった。
ましろが「行っていい」と言ったのは、ましろが十分に悠真の隣にいた後だ。朝ごはんを一緒に食べて、少し話して、幸運付与を「ちゃんとかけた」と言ってから、ようやく解放された。
「行ってらっしゃい、おにいさん」
「行ってきます」
「早く帰ってきてね」
「はい」
「約束?」
「約束」
ましろがにこっと笑った。目も笑っていた。今日のましろは本当に笑っている。
(こういうときのましろさんは、ちゃんと温度がある)
(どっちが本当、じゃなくて、どっちも本当なんだろうな、やっぱり)
悠真は門を出た。
---
コンビニまでの道を歩いていると、後ろから足音がした。
振り返らなかった。
でもわかった。足音の間隔、歩幅、靴音の質。革靴だ。スーツの人間の歩き方だ。
(ついてきている)
コンビニに入って、飲み物を選んだ。レジで会計した。袋を断って、店を出た。
男が、入口の脇に立っていた。
神代玲司だった。
昼間に近くで見ると、思ったより若い。悠真とそう変わらないかもしれない。黒いスーツは仕立てがいい。目が鋭く、整った顔をしている。感情が読めない。
悠真を見て、何も言わなかった。
悠真も、何も言わなかった。
三秒、沈黙があった。
「……岬悠真さん」
神代が先に口を開いた。
声は低くて、落ち着いている。感情がない、というより、感情を出す必要がないと思っているような声だ。
「……そうですが」
「少し、話せますか」
「断れますか」
「断れません」
(そうですか)
「……じゃあ、話しましょう」
---
近くの公園のベンチに座った。
平日の午前中で、人は少ない。鳩が数羽いる。遠くで子どもの声がする。
神代は悠真の隣ではなく、向かいのベンチに座った。
「陰陽庁、祓魔班の神代玲司です」
「……陰陽庁」
「知っていますか」
「聞いたことはあります」
神代が少し目を細めた。
「誰から」
「住人から」
「九条紅ですか」
「答える必要はありますか」
神代が少し間を置いた。
「……ありませんね」
淡々と言った。怒るでもなく、引き下がるでもなく。
(この人、感情の出し方が俺に似てる気がする。いや、俺より更に絞り込んでいる)
「何の用ですか」
「確認です」神代がまっすぐ悠真を見た。「あなたは、百鬼荘の実態を知っていますか」
「住人が妖怪だということは知っています」
「それだけですか」
「今のところは」
「百鬼荘が何のために存在するか、聞いていますか」
「聞いていません」
神代が少し考えるような間を置いた。
「……正直ですね」
「嘘をつく理由がないので」
「嘘をつかない人間は珍しい」
「そうですか」
「我々が接触してきた人間のほとんどは、知らないふりをするか、過剰に怖がるか、どちらかです。あなたは違う」
「違いますか」
「違います」神代の目が、測るような色になった。「怖くないですか」
「少しは怖いです」
「少し、ですか」
「全く怖くないと言ったら嘘になります。でも怖いからどうする、という話でもないので」
神代がまた少し間を置いた。
「エンジニアですね」
「はい」
「問題を感情で処理しない人間だ」
「職業柄かもしれないです」
「……なるほど」
神代が前を向いた。公園の向こうを見ている。
「本題を話します」
「どうぞ」
「百鬼荘に住み続けることを、我々は推奨しません」
悠真は特に表情を変えなかった。
「理由は」
「危険だからです」
「具体的には」
「あそこに住む妖怪の中には、危険指定されている個体がいます。その影響が、あなたに及ぶ可能性がある」
「今まで影響はありません」
「今まで、は関係ない」
「根拠はありますか」
神代が悠真を見た。少し、意外そうな目だった。
「質問が、我々の職員みたいですね」
「エンジニアは根拠を確認する習慣があります」
「……根拠は、過去の事例です。人間が妖怪と長期間接触した場合、精神・身体に異常をきたすケースが複数あります」
「俺に今のところ異常はありません」
「だから推奨しない、と言っています。強制ではない」
(強制ではない、という部分が引っかかった)
(強制できない理由がある、ということか)
「……管理人がいるからですか」
神代が少し、目を細めた。
「……情報が早いですね」
「推測です」
「正解です」神代が視線を前に戻した。「百鬼荘の管理人には、現時点で強制介入できません。理由は言いません」
「言えない、ですか。言わない、ですか」
「……言わない、です」
(正直だ、この人も)
「つまり今日の話は、警告ですか」
「推奨しないという通達です」
「受け取りました」
「出ていく気はありますか」
悠真は少し考えた。
「ありません」
「理由は」
「家賃が安いので」
神代が、初めて表情を変えた。
変えた、というより——少し、崩れた。眉が微かに動いて、口元が一瞬だけ、何かを言いたそうな形になった。
(今の神代さん、笑いそうになったな)
すぐに元の顔に戻った。
「……それだけですか」
「それだけじゃないですが、それが一番わかりやすい理由なので」
「他の理由は」
「住人が、危害を加えてきたことがないので」
「それは今後も保証できません」
「今のところの話です。今のところ、俺に危害を加えてきた住人はいない。だから出ていく理由もない」
神代がしばらく悠真を見た。
「……合理的ですね」
「そう言われます」
「危険指定されている妖怪と、同じ屋根の下にいることを、合理的と判断するんですか」
「リスクとリターンを比較した結果です」
「リターンは家賃ですか」
「それだけじゃないですが、今は一番わかりやすい答えをしています」
神代がまた少し間を置いた。
「……あなたは、妖怪を人間と同じように扱っているんですか」
「同じかどうかはわかりませんが、危害を加えてこない相手を敵視する理由もないので」
「感情が、ないんですか」
「あります。ただ、感情と判断は別です」
神代が、悠真をじっと見た。
長い沈黙だった。
「……一つだけ、聞いていいですか」
「どうぞ」
「百鬼荘の住人を、守るつもりがありますか」
(守る)
(その言葉が、思ったより、腹の奥に刺さった)
「……わかりません」
「わからない?」
「守れるかどうかが、わからない。守りたいかどうかは——たぶん、あります」
神代が視線を落とした。
「……そうですか」
「おかしいですか」
「おかしくはない」静かに言った。「ただ」
神代が立ち上がった。
「その気持ちが、あなたを危険な立場に置くことになります。覚えておいてください」
「警告ですか」
「忠告です」
神代が踵を返した。
「最後にもう一つ」
振り返らずに言った。
「百鬼荘が何のために存在するか、管理人に聞いてみてください。たぶん、教えてもらえない。でも、知るべき時が来ます」
「どういう意味ですか」
「それも、今は言いません」
神代が歩き出した。
角を曲がって、見えなくなった。
悠真はしばらく、ベンチに座っていた。
鳩が一羽、足元を歩いていった。
(守りたいかどうかは、たぶん、ある)
(口に出してから気づいた。俺、そう思ってるんだ)
(いつの間に)
---
百鬼荘に戻ると、玄関でましろが待っていた。
悠真の顔を見て、ぱっと顔を輝かせた。
「帰ってきた!!!」
「帰りました」
「約束守った!!!」
「守りました」
ましろが飛びついてきた。いつもの体当たりだ。今日は特に勢いがある。
「……大丈夫だった?」
「大丈夫でした」
「あの黒スーツ、話しかけてきた?」
「少し話しました」
ましろが顔を上げた。
「何を話したの?」
「出ていくように言われました」
ましろの目が、一瞬だけ、何かを通り過ぎた。
「……出ていくの?」
「出ていきません」
「本当に?」
「本当に」
ましろがしばらく悠真を見た。
それから、また笑った。
今度は、ちゃんと目も笑っていた。
「……よかった」
「よかったです」
「絶対に出ていかないでね」
「家賃二万円ですからね」
「家賃関係ないじゃん」
「関係あります」
「嘘だ」
「……半分くらい嘘です」
ましろがにやっと笑った。
「じゃあ残り半分は?」
「みんなが、いるので」
ましろが少し目を細めた。
「みんな?」
「みんなです」
「ましろも?」
「ましろさんも、です」
ましろがまたしがみついてきた。今度は体当たりではなく、そっと抱きついてくる感じだった。
「……ずっといてね」
「いるつもりです」
「約束」
「約束します」
ましろがしばらく、そのままでいた。
悠真も、特に離さなかった。
(この家が、好きだ)
(それは確かだ)
---
昼過ぎ、紅が悠真の部屋に来た。
「神代玲司と話したの?」
「みつきさんから聞きましたか」
「そう。何を言われた?」
「出ていくように、と」
紅が少し目を細めた。
「それで?」
「断りました」
紅が悠真を見た。
「なんで」
「出ていく理由がないので」
「危険だって言われたでしょ」
「言われました」
「それでも?」
「それでも、です」
紅がしばらく黙っていた。
「……あなた、本当に逃げないね」
「言いましたよ、前にも」
「言ってたけど」紅が視線を逸らした。「本当にそうだとは、思ってなかった」
「なぜですか」
「みんな、最終的には逃げるから」
「俺は逃げません」
「……なんで、そんなに言い切れるの」
悠真は少し考えた。
「守りたいと思っているから、だと思います」
紅が目を丸くした。
珍しい顔だった。いつもの余裕のある顔でも、試すような顔でもなく、ただ、純粋に驚いた顔。
「……守りたい?」
「神代さんにも同じことを言いました」
「あの人に?」
「はい」
紅がしばらく悠真を見た。
「……守れるの? 人間が」
「守れるかどうかはわかりません。守りたいかどうかと、守れるかどうかは別の話なので」
「……何それ」
「エンジニアは実現可能性と意思を分けて考えます」
紅がふっと笑った。
短い笑いだったが、いつもの余裕のある笑いとは違った。何かが緩んだような、そういう笑いだった。
「……バカみたい」
「そうですか」
「バカみたいだけど」
紅が立ち上がった。
「……ありがとう」
「さっきからありがとうしか言ってないですよ、紅さん」
「いい言葉しか出てこないのよ、こういうとき」
紅がドアを開けた。
「ね、悠真くん」
「何ですか」
「神代玲司、また来ると思う。次はもっと強い話をしてくるかもしれない」
「知っています」
「怖くないの」
「少しは怖いです」
「それでも?」
「それでも、です」
紅がドアの向こうから、悠真を見た。
目が、少し潤んでいた。
(泣きそうになってる? 紅さんが?)
(でも泣かない。そういう人だ)
「……強いね、あなた」
「強くないですよ」
「強い人は自分が強いと思ってないものよ」
ドアが閉まった。
悠真はしばらく、ドアを見ていた。
(紅さんが泣きそうになった)
(あれは、本物の顔だったな)
(確信犯の顔じゃなかった)
---
夕方、澪が部屋に来た。
ノックして、入ってきた。珍しく、自分から来た。
「……神代玲司と話したって、みつきが言ってた」
「話しました」
「……何を言われた」
「出ていくように、と」
澪の目が、少し揺れた。
「……それで」
「断りました」
「……なんで」
「出ていく理由がないので」
「……でも」
澪がうまく言葉を続けられないでいた。
めずらしい。澪は言葉が少ないが、言いたいことは短く言える人だ。それが今日は言葉が出てこない。
「……私のせいで、危険な目に遭うかもしれない」
「澪さんのせいじゃないです」
「……雪女が、危険指定されてるから」
「俺は澪さんに危害を加えられたことがないですよ」
「……でも、今後——」
「今後の話は今後にします」
「……そういう問題じゃ——」
「澪さん」
悠真が澪の言葉を遮った。
澪が口を閉じた。
「俺が出ていかないのは、澪さんのためでも、誰かのためでもないです。俺が、ここにいたいから、いる。それだけです」
澪がじっと悠真を見た。
「……本当に?」
「本当に」
「……家賃だけじゃなくて?」
「家賃だけじゃないです」
「……みんながいるから?」
「それもあります」
「……私も?」
「澪さんも、です」
長い沈黙があった。
部屋の温度が、少し下がった。
でもいつもの「怒った冷え方」じゃない。もっと静かな、落ち着いた冷え方だ。
「……寒くなりました」と悠真は言った。
「……ごめん」
「謝らなくていいです。感情が揺れると冷えるんでしょう」
「……うん」
「何を感じましたか」
澪がしばらく黙った。
「……うれしかった」
小さく言った。
「……うれしくて、それで」
「冷えた?」
「……うん」
(雪女の体が感情に正直すぎる)
(でも——それが、なんか、好きだ)
「ありがとうございます」
「……何が」
「正直に言ってくれたので」
澪が視線を逸らした。耳が赤い。
「……そういうこと言わないで」
「なぜですか」
「……もっと、冷えるから」
悠真は思わず笑った。
声には出なかったが、確かに笑った。
澪がそれを見て、少し目を丸くした。
「……笑った?」
「笑いました」
「……何が面白かったの」
「冷えるから言わないで、って言われたのが」
「……面白くない」
「面白かったです」
澪がまた視線を逸らした。でも口元が、少し、緩んでいた。
「……変な人」
「変な家に住んでいるので、移ったかもしれないです」
「……うつらない、そういうのは」
「うつりました」
「……」
澪がため息をついた。
「……おやすみ」
「まだ夕方ですよ」
「……恥ずかしいから帰る」
「わかりました。おやすみなさい」
澪が出ていった。
ドアが閉まってから、廊下に冷気が漂った。でもすぐに消えた。
(「うれしかった」か)
(……俺も、うれしかった。なんでかは、まだ言わないけど)
---
夜、みつきが来た。
「今日、色々あったね」
「色々ありました」
「神代玲司と話したんでしょ。どんな人だった?」
「……思ったより、普通の人でした」
「普通?」
「悪い人じゃない気がします。仕事をしている人、という感じで」
みつきが少し考えた。
「……陰陽庁の人って、みんながみんな妖怪が嫌いなわけじゃないと思う。ただ、仕事だから、やる」
「そうですね。神代さんもそう見えました」
「でも仕事だから、やる、っていうのが、一番怖いんだよね。感情で動く人より」
悠真はその言葉を、頭の中に入れた。
「……気をつけます」
「うん」みつきが少し真顔になった。「悠真くん、一個だけ言っていい?」
「何ですか」
「今日、紅さんと澪さんと話したでしょ。どっちも、あなたが出ていかないって言ったら、泣きそうになってたよ」
「……みつきさん、全部見てたんですか」
「見てた」
「覗くのやめてください」
「ごめん。でも」みつきが真剣な顔のままで言った。「悠真くん、あの二人にとって、あなたがいることって、思ってるより大事なんだと思う。だから——」
「わかってます」
「わかってる?」
「……全部はわかってないですけど、大事にしたいとは思ってます」
みつきが少し、目を細めた。
「……悠真くん、いい人だよ」
「そうですか」
「そうだよ。だから——」
みつきが珍しく、少し照れたような顔をした。
「あたしのことも、大事にしてね」
「みつきさんのことも、大事にしてます」
「言い方が事務的だよ」
「みつきさんも、大事にしたいです」
「……まあ、いいか」
みつきが立ち上がった。
「おやすみ、悠真くん」
「おやすみなさい」
「また明日首伸ばして覗くから覚悟して」
「覚悟はしないです」
みつきが笑いながら出ていった。
---
深夜。
悠真はコードを書きながら、今日のことを考えた。
神代玲司の目。ましろの抱擁。紅の泣きそうな顔。澪の「うれしかった」。みつきの「大事にしてね」。
(この家は、複雑だ)
(妖怪と陰陽庁と、その間に人間が一人いる。どう考えても変な構図だ)
(でも)
廊下に、冷気が来た。
いつもより、少し早い時間だ。
「……澪さん」
「……うん」
「おやすみなさい」
「……おやすみ」
「今日は、ありがとうございました」
「……何が」
「正直に話してくれたので」
少し間があった。
「……また、冷えそう」
「じゃあ言いません」
「……言って」
「冷えるんじゃないですか」
「……冷えてもいい。言って」
悠真は少し考えた。
「……澪さんが正直に話してくれるのが、うれしいです」
廊下の温度が下がった。
でも今度は、どんどん下がるんじゃなくて、ある温度でとどまった。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が遠ざかった。
ドアの下の隙間に、霜が薄く張っていた。
でも、悠真の部屋は——不思議と、寒くなかった。
---
岬悠真、百鬼荘生活九日目。
神代玲司に話しかけられた。出ていくように言われた。断った。ましろに約束した。紅が泣きそうになった。澪が「うれしかった」と言った。みつきに大事にしてと言われた。
それ以外は——
それ以外も、大概だった。
でも。
(守りたい、か)
(俺が、この家を)
コードの画面を見ながら、悠真は静かに思った。
(それを、神代さんに言えたのは——良かったのかもしれない)
(自分でもわかっていなかったことが、言葉にすると、わかった)
(この家が、好きだ)
窓の外は、暗くて静かだった。
---
*【第10話「電気代の請求書が来て、全員を巻き込んだ件」に続く】*
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