第8話「案件が決まった日に、全員に何かが起きた件」
メールが来たのは、火曜日の午前十時だった。
件名:「業務委託契約のご確認について」
送り主は先週面談に行った会社だ。本文を開いた。読んだ。もう一度読んだ。
契約の提示だった。
単価も、期間も、思っていたより良かった。
「…………」
悠真はしばらく画面を見た。
それからノートPCを閉じて、天井を見た。
(決まった)
(ようやく決まった)
二か月以上、止まっていた。貯金が削れ続けて、家を出ることになって、妖怪のシェアハウスに転がり込んで、それでも仕事は来なくて。来週中に結果が出ると言われて、ちょうど一週間。
(決まった)
「……よかった」
声に出したら、急に実感が湧いた。
思っていたより、ずっと、安心した。
---
一番最初に話したのはましろだった。
部屋のドアを開けたら、廊下でましろが待っていた。朝から悠真の部屋の前をうろうろしていたらしく、「メール来た?」と第一声で言った。
「……なんで知ってるんですか」
「ましろ、わかるから」
「幸運付与の関係ですか」
「関係あるかも」ましろがじっと悠真を見た。「決まったの?」
「決まりました」
ましろがぱっと顔を輝かせた。
「やったー!!!」
廊下に響く声で言って、悠真に飛びついてきた。今日で何度目かわからない体当たりだ。
「おめでとう、おにいさん!!!」
「ありがとう」
「ましろの幸運付与、効いたね!!!」
「効いたと思います。ありがとう」
「えへへ!!!」
ましろがしがみついたまま、顔を上げた。
「ね、おにいさん」
「何ですか」
「お仕事決まったら、ずっとここにいられるよね」
「……まあ、リモートなので」
「ずっと、ここにいられるよね?」
「はい」
ましろがまた満面の笑みになった。
「……よかった」
小さく言った。笑顔なのに、声が少し、しみるような感じだった。
(「よかった」の温度が、笑顔と合ってない)
(でも今日は、ましろさんが本当に喜んでくれてる気がする)
(両方、本当なんだろう)
悠真はましろの頭を軽く撫でた。
「ありがとう、ましろ。おかげで面談うまくいきました」
ましろが目を細めた。
「……おにいさんがいてくれるから、ましろも頑張れる」
「俺は何も頑張ってないですけど」
「いてくれるのが頑張ってること」
(そういうものか)
「……そうですか」
「そうだよ」
---
キッチンに降りると、紅が新聞を読んでいた。
悠真の顔を見て、一瞬で察した。
「決まった?」
「決まりました」
紅が新聞を置いた。
「よかった」
「ありがとうございます」
「お祝いしなきゃ」
「そこまでしなくても」
「する」
(交渉の余地がない。この家の全員が交渉の余地ない種族だ)
紅が立ち上がって、悠真の前に来た。
いつもより、近い。
「おめでとう」
「……ありがとうございます」
「ちゃんと聞こえた?」
「聞こえました」
「じゃあ、これ」
紅がすっと手を伸ばしてきた。
悠真の頭に、手が乗った。
撫でた。
(え)
(撫でた?)
(俺、今撫でられた?)
「……紅さん」
「何?」
「頭を撫でるのは」
「おめでとうの代わり」
「言葉で言ってましたよね今」
「これも言いたかった」
(なんで急に距離感がましろさんと同じになってるんだ)
紅がすっと手を引いた。
「今日の夕ごはん、何か作る。何が食べたい?」
「……なんでもいいですよ」
「なんでもはダメ。ちゃんと決めて」
「……鍋が食べたいです」
「今の季節ね。いいわ」
紅が買い物袋を持ち上げた。もう行くつもりらしい。
「一緒に買い物来る?」
「仕事の返信をしてから行きます」
「待ってる」
「長くなるかもしれないですよ」
「待ってる」
(こういうとき紅さんって待ってくれるんだな)
(……放っておけない人、か)
---
返信を終えて一階に降りると、澪が廊下に立っていた。
珍しく、何かを持っている。
皿だ。
何か、乗っている。
「……おめでとう」
「ありがとうございます。それは」
「……作った」
澪が皿を差し出した。
ケーキだった。
ショートケーキ——というか、ショートケーキを作ろうとした形跡のあるものだった。スポンジは少し斜めで、生クリームが片側に偏っていて、イチゴが一列ではなくなんとなく散らばっている。
「……歪んだ」
「……でも、ちゃんとケーキです」
「……うまくいかなかった」
澪が少し唇を噛んだ。
「……練習したのに」
(練習したのか!!!!!)
(いつ練習したんだ。こっそり練習してたのか)
「おいしそうですよ」
「……嘘をつかなくていい」
「嘘じゃないです。食べてみないとわからない」
悠真は皿を受け取った。フォークを持って、一口食べた。
甘かった。スポンジはしっかりしている。クリームも悪くない。
「……おいしいです」
「……本当に?」
「本当に。これ、ちゃんとおいしい」
澪が少し、目を丸くした。
「……歪んでても?」
「歪んでてもおいしいです」
澪が視線を逸らした。耳が赤い。
「……よかった」
「ありがとうございます。うれしいです」
「……うれしい?」
「うれしいです」
澪がまた視線を逸らして、廊下の壁を見た。
「……また、作る」
「楽しみにしています」
「……今度はちゃんと形を整える」
「今のままで十分ですよ」
「……いや、ちゃんとする」
(この人のこだわりを止めるのは難しい)
「……じゃあ、楽しみにしています」
「……うん」
澪が少しだけ、口元を緩めた。
ほんとうに少しだけ。でも確かに、笑った。
(澪さんが、笑った)
(ちゃんと笑った)
(その顔を覚えておこう、と思ったことは、一生言わない)
---
紅と買い物に行った。
スーパーで鍋の材料を選びながら、紅が言った。
「澪、ケーキ作ってたの知ってた?」
「今日初めて知りました」
「昨日の夜から練習してたのよ。一回失敗したって、みつきが言ってた」
(昨日の夜から!!!!)
「……そうですか」
「そうよ。あなたのために」
「……知らなかったです」
「知らなくていい」紅が白菜をカゴに入れた。「でも、ちゃんとおいしかったでしょ」
「おいしかったです」
「じゃあそれでいい」
紅が豚肉のコーナーに向かった。悠真は後ろからついていった。
「……紅さんは」
「何?」
「お祝いに鍋を作るというのは、なぜですか」
「食べたそうな顔してたから」
「してましたか」
「してた。いつも一人で悩んでる顔してるから、今日くらいはみんなでわいわいしたほうがいいと思って」
「……気遣いですか」
「違う」紅がきっぱり言った。「食べたいだけ」
(素直じゃない。でも、気遣いだと思う)
「ありがとうございます」
「だから違うって言ってる」
「ありがとうございます」
紅がため息をついた。
「……あなた、頑固ね」
「そうですか」
「そうよ」
でも、紅の口元が、少し緩んでいた。
---
夕方、みつきが悠真の部屋に来た。
「案件決まったって聞いた」
「聞いたって、誰から」
「ましろちゃん。嬉しそうに話してた」
「そうですか」
「おめでとう」みつきが首をぐるぐると回した。「よかったね、本当に」
「ありがとうございます」
「あたし、何もしてあげられないけど」
「みつきさんは色々してくれてますよ」
「何を?」
「情報をくれる。話を聞いてくれる。クッキーをくれる」
みつきがくすくす笑った。
「クッキーは普通にお裾分けだよ」
「それでも助かってます」
「……悠真くんって」
「何ですか」
「ちゃんとしてるね。そういうとこ」
「どういうことですか」
「小さいことを、ちゃんと覚えてて、ちゃんと言える。そういう人、意外と少ないから」
悠真は少し考えた。
「エンジニアは変数名をちゃんとつけないとあとで困るので、その習性かもしれないです」
みつきが笑った。
「変数名。ははは」
「笑うとこじゃないですよ」
「笑うとこだよ。面白い」
みつきがしばらく笑ってから、少し真顔になった。
「ね、悠真くん」
「何ですか」
「ここに来て、一週間くらいだよね」
「そうですね」
「どう? この家」
「……どう、というのは」
「住みやすい? 居心地いい?」
悠真は少し考えた。
「……居心地はいいです」
「本当に?」
「本当に。変なことばかりですけど、悪い変なことじゃないので」
「変なことばかりなのは認めるんだ」
「認めます」
みつきがにっこりした。
「よかった。あたしもそう思ってるから」
「みつきさんもですか」
「うん。変なことばかりだけど、悪くない」
みつきが窓を見た。
外はもう暗くなっている。
「悠真くんがいると、この家、なんか、落ち着く気がする」
「俺がいると?」
「うん。なんかね、前よりみんな、ちゃんとしてる感じがする。うまく言えないけど」
(アンカー、という言葉を管理人が言っていたのを思い出した)
(お前がここに来ることは、決まっていた)
「……そうですか」
「そうだよ。だから——」みつきがまた笑った。「長くいてね」
「いるつもりです」
「約束ね」
「約束します」
みつきが立ち上がった。
「じゃあ夕ごはん行こうか。紅さんが鍋作ってるって」
「行きましょう」
---
キッチンに全員が揃ったのは、夜の七時過ぎだった。
土鍋が真ん中に置かれていて、湯気が上がっている。白菜、豚肉、豆腐、ねぎ、しめじ。紅が腕を振るったらしく、出汁がいい匂いをしていた。
澪がポン酢を出した。ましろが取り皿を並べた。みつきが麺を用意した。管理人が扇子を持って縁側のほうから現れて「騒がしいな」と言いながら席に座った。
「じゃあ」と紅が言った。「悠真くんの案件決定を祝って」
「おめでとー!!!」とましろ。
「おめでとう」と澪。
「おめでとう」とみつき。
管理人が扇子をぱちんと閉じた。
「……まあ、よかったな」
「ありがとうございます」
「食え」
「はい」
鍋を囲んで、食べ始めた。
ましろが悠真の取り皿に豆腐を乗せた。澪がねぎを自分の皿によけながら、少しだけ悠真の皿にも入れた。みつきが「これうまい」と言いながら肉を三枚続けて食べた。紅が「それ私が選んだ肉」と言って対抗した。管理人がすべてを飄々と眺めていた。
賑やかだった。
(変な家だな、本当に)
悠真は豆腐を食べながら思った。
(雪女と狐とろくろ首と座敷童と謎の老人と、鍋を囲んでいる)
(一週間前、こんな状況を想像できたか)
(できなかった)
(でも)
「おにいさん、ねぎ好き?」とましろが聞いた。
「好きですよ」
「じゃあこれも」ましろが悠真の皿にねぎを追加した。
「悠真くん、麺は?」とみつきが袋を差し出す。
「いただきます」
「出汁、足りてる?」と紅が鍋を確認する。
「十分です」
「……白菜、柔らかくなった」と澪が小さく言った。誰かに言ったわけじゃなく、ただ確認するように。
「そうですね」と悠真が返した。
澪がこちらを見て、少し目を細めた。
(よかった)
(本当に、よかった)
---
夜、全員が引き上げて、悠真は自分の部屋に戻った。
布団に入って、天井を見た。
今日のことを順番に思い返した。
案件決定のメール。ましろの体当たり。紅の頭撫で。澪の歪んだケーキ。みつきのクッキーじゃない言葉。管理人の「まあ、よかったな」。鍋の湯気。全員の顔。
(……住んでよかったな、この家)
声に出さなかった。
出したら、また誰かに聞かれている気がしたから。
廊下に、冷気が来た。
「……澪さん」
「……うん」
「今日は、ありがとうございました。ケーキも、鍋も」
「……鍋は紅が作った」
「ケーキは澪さんが作りました」
少し間があった。
「……また作る」
「楽しみにしています」
「……今度はちゃんと形を整える」
「今のままでおいしかったですよ」
「……いや、ちゃんとする。次はちゃんとしたやつを食べてほしい」
(次、という言葉が、自然に出てきた)
「……楽しみにしています」
「……うん」
また間があった。
「……悠真」
「何ですか」
「……ここに、いてくれてよかった」
(今日一番の台詞だった)
(ましろも、みつきも、似たようなことを言ってくれた。でも澪さんに言われると、なんか、違う重さがある)
「……俺も、よかったです」
「……そっか」
「そっかじゃなくて、ちゃんと受け取ってください」
「……受け取った」
「ありがとうございます」
少し間があってから、澪がくすっと笑った。
声だけで、顔は見えない。
でも、笑っているのがわかった。
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が遠ざかった。
悠真は布団の中で、静かに息を吐いた。
(笑い声、初めて聞いた気がする)
(澪さんの笑い声)
(覚えておこう)
(絶対に覚えておこう)
---
ところで。
翌朝、管理人から呼ばれた。
縁側に座って扇子を持っている。いつも通りだ。
「なんですか」
「来い」
「来ました」
管理人が庭を見たまま言った。
「……神代玲司が、来週また来るらしい」
「また来るんですか」
「今度は、一人じゃない」
悠真は少し黙った。
「……どういうことですか」
「お前に警告しに来るかもしれん」
「俺に?」
「人間がここにいることを、陰陽庁は面白く思っていない。そろそろ、直接接触してくると思う」
悠真は管理人を見た。
「……住人を、守れますか」
「俺は動かん」
「でも」
「動かん」管理人が扇子をぱちんと閉じた。「お前が動く」
「俺が?」
「お前にしかできないことがある」
「……何が、ですか」
管理人がようやく悠真を見た。
目が、鋭い。いつもの飄々とした目ではなく、何かを見通しているような目だ。
「……まだ教えん」
「なぜですか」
「知ったら、逃げるかもしれんから」
「逃げないです」
「言うは易し」
「逃げない、と決めています」
管理人がしばらく悠真を見た。
それから、また扇子を開いた。
「……そうか」
短く言って、庭を見た。
「まあ、来週まで楽しくやれ。今日は、そのために呼んだ」
「今日のために呼んだんじゃないんですか」
「今日は、ただ話したかっただけだ」
(管理人も、たまにはそういうことを言うのか)
「……わかりました」
悠真は縁側を離れた。
廊下を歩きながら、キッチンのほうから聞こえてくる声を聞いた。
澪とましろが何か話している。紅が笑っている。みつきが何かを実況している。
(来週、神代玲司が来る)
(一人じゃなく、来る)
(でも今日は、まだ今日だ)
キッチンのドアを開けた。
「おにいさん、遅い!」とましろが言った。
「管理人に呼ばれてました」
「何の話?」
「大したことじゃないです」
(嘘だ。でも今日は言わない)
「早く座って。卵焼き冷めちゃう」
「今座ります」
悠真は椅子を引いた。
卵焼きは、ちゃんと甘かった。
---
岬悠真、百鬼荘生活八日目。
案件が決まった。ましろに飛びつかれた。紅に頭を撫でられた。澪の歪んだケーキを食べた。みつきに約束をした。全員で鍋を食べた。澪の笑い声を聞いた。管理人に来週の話をされた。
それ以外は——
よかった。
今日は、本当によかった。
---
*【第9話「陰陽庁の男が、話しかけてきた件」に続く】*
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