第7話「狐と雪女が、本気でバチバチしている件」
発端は、朝のキッチンだった。
悠真がトーストを焼いていると、紅が入ってきた。それ自体はいつも通りだ。紅は朝が早い。コーヒーを淹れて、新聞を読んで、悠真と二言三言話して、自分の部屋に戻る。そういう朝のルーティンが、いつの間にか出来上がっていた。
問題は、そのあとだ。
紅がコーヒーを淹れながら、なんとなく悠真の隣に立った。それもいつも通りだ。このテーブルは狭い。距離が近くなるのは物理法則だ。
「昨日の案件、どうだった?」
「返事待ちです。来週中には結論が出ると思います」
「うまくいくといいね」
「ありがとうございます」
紅がコーヒーをカップに注ぎながら、悠真のほうにわずかに体を寄せた。肩が触れる。いつもの距離感だ。
(いつもの距離感なんだよな。いつの間にこれが普通になったんだ)
そこへ澪が入ってきた。
一瞬で、空気が変わった。
澪の目が、悠真を見た。紅を見た。二人の距離を見た。
「……おはよう」
「おはようございます」と悠真。
「おはよ」と紅。
澪が冷蔵庫を開けた。何も言わない。でも、キッチンの温度が二度下がった。
(下がった。明確に下がった)
紅がコーヒーを一口飲んで、何でもない顔で言った。
「澪、寒い」
「……知らない」
「意図的でしょ」
「……知らない」
「ふうん」
紅がまた悠真に体を寄せた。今度は明らかに意図的だ。
(これは意図的だな。わかる。わかるぞ俺には)
キッチンの温度が、さらに二度下がった。
「……紅」
澪が冷蔵庫を閉めて、振り向いた。
「なに?」と紅が涼しい顔で言う。
「……近い」
「何が?」
「……悠真に、近い」
「テーブルが狭いのよ」
「……わざとでしょ」
「証明できる?」
(二人とも正しいことを言っているような気がするが今は逃げたい)
「あの、トーストが——」
「待って」と紅。
「……逃げないで」と澪。
(二人に同時に制止されたのは初めてだ)
悠真はトーストを皿に置いて、二人を交互に見た。
澪は冷蔵庫の前に立ったまま、明らかに機嫌が悪い。紅はコーヒーカップを持ったまま、楽しそうにしている。
この対比が、すでに怖い。
---
「……紅は、いつも悠真に近づく」
澪が言った。感情が薄い声だが、薄いなりに、刃みたいな鋭さがある。
「いつも?」と紅が首を傾ける。「そんなに気にしてたの?」
「……気にしてない」
「気にしてるじゃない」
「……してない」
「してるよ」紅がカップをテーブルに置いた。「澪、あなたって素直じゃないよね。気になるなら気になるって言えばいいのに」
「……関係ない」
「関係あるでしょ。同じ屋根の下に住んでる男の子のことが気になって、でも言えなくて、他の人が近づくと機嫌が悪くなる。それって——」
「……やめて」
澪の声が、一段低くなった。
同時に、キッチンの窓ガラスに霜が走った。外側から凍りついていく。
(あ、本気で怒ってきた)
「……紅が、そういうことを言う資格があるの」
「どういう意味?」
「……紅だって、悠真のことを——」
「私は別の話をしてる」
「……逃げてる」
紅の目が、一瞬だけ鋭くなった。
(あ、今度は紅さんに刺さった)
「逃げてない」
「……逃げてる。いつも。核心になると、ゲームみたいに扱って、距離を置く」
「……それの何が悪いの」
「……悪くない。でも」
澪が悠真を見た。
「……悠真の前でそれをするのは、ずるい」
沈黙があった。
紅が何も言わなかった。
(今の澪さん、すごいことを言った。ずるい、って言った。紅さんに向かって)
(俺、今どこを見ればいいんだ)
「……天井でも見ておこうかな」
「見なくていい」と紅。
「……ちゃんと聞いて」と澪。
(どこを見てもダメか)
---
そのとき、廊下から音がした。
ぱたぱたという軽い足音。
ましろがキッチンのドアから顔を覗かせた。
二人を見て、悠真を見て、状況を理解したらしかった。
「……おはよう」
「おはようございます」と悠真。
ましろが入ってきた。迷わず悠真の隣に立った。悠真の腕にしがみついた。
「おにいさん、おはよう」
「おはよう」
ましろが澪を見た。紅を見た。
「……喧嘩してるの?」
「してない」と紅。
「……してない」と澪。
「してたよ?」
二人とも黙った。
ましろが悠真の腕をぎゅっと握りながら、澪に言った。
「澪さん、部屋寒いよ。窓凍ってる」
「……ごめん」
「謝らなくていいけど」
ましろが紅を見た。
「紅さんも、わざとやってたでしょ」
「……まあ」
「ダメだよ」
紅が少し、苦い顔をした。
(ましろさん、今日は割と正論を言っている)
「……ごめん」
紅が言った。悠真ではなく、澪に向かって。
澪が少し目を丸くした。
「……え」
「わざと煽った。悪かった」
珍しく、直球だった。
澪がしばらく紅を見ていた。
「……紅が謝るの、珍しい」
「そうでもないわよ」
「……初めて聞いた」
「気のせいよ」
澪が少し、口元を緩めた。ほんのわずかだが、悠真には見えた。
「……わかった」
それだけで、キッチンの温度が少し戻った。
---
朝ごはんは、結局全員で食べた。
会話は少なかったが、険悪でもなかった。みつきが遅れて降りてきて、「あれ、今日空気ちがう」と言って、悠真に「何があったの」と耳打ちしてきた。
「色々ありました」
「教えて」
「後で」
「絶対教えて」
(全部見ていないのが珍しい。今日は首を伸ばしていなかったのか)
食べ終わって、それぞれが片付けを始めた。
澪が悠真の隣に来て、食器を受け取った。洗いますという目だ。
「……ありがとう」
「いえ」
「……さっきは」
「さっきは?」
澪が少し言いにくそうにした。
「……変なこと、言った」
「変じゃなかったですよ」
「……ずるい、とか」
「正しいと思いました」
澪が食器を受け取りながら、悠真を見た。
「……なんで、そう思うの」
「紅さんはわざと距離を詰めてくるので。それを澪さんの前でやるのはずるいと、俺も思います」
澪が少し、固まった。
「……悠真も、そう思ってた?」
「思ってました」
間があった。
「……なんで言わなかったの」
「言う機会がなかったので」
また間があった。澪が食器を洗い始めた。
しばらくして、小さく言った。
「……ありがとう」
「いえ」
「……えっと」
「何ですか」
「……今日、昼ごはん、一緒に食べる?」
(え)
(澪さんが、昼ごはんに誘ってきた)
「……いいですよ」
「……じゃあ、何か作る」
「俺も手伝います」
「……いい。作るから」
「遠慮しないでください」
「……遠慮じゃない。作りたい」
(作りたい、か)
「……わかりました。楽しみにしています」
澪が少し耳を赤くして、食器を洗い続けた。
---
午前中、部屋で作業していると、紅が来た。
ノックして入ってきて、椅子に座った。
「さっきはごめん」
「俺じゃなくて澪さんに言いましたよね、もう」
「あなたにも言う」
「俺は別に」
「わざと近づいた。気になってた」
(急に本音を言うな)
「……何が、ですか」
「あなたが、どこまで鈍いのか」
「……なんで鈍いかどうかを確認するためにわざと近づくんですか」
「試したかった」
「試すのやめてください」
「やめる」
「本当に?」
紅がしばらく悠真を見た。
「……やめる。澪に言われたから」
「俺に言われたからじゃないんですか」
「……両方」
(素直じゃない。でも、これが紅さんだ)
「わかりました」
紅が立ち上がった。ドアのほうへ歩いた。
「ねえ」
「何ですか」
「試すのやめたら、どうすればいいと思う?」
悠真は少し考えた。
「普通に、話しかけてくればいいんじゃないですか」
紅が振り向いた。
「……普通に?」
「普通に」
紅がしばらく悠真を見ていた。
それから、くすっと笑った。
「……それ、難しいこと言うね」
「そうですか」
「普通が、一番難しいのよ」
ドアが閉まった。
悠真はしばらく、ドアを見ていた。
(普通が一番難しい、か)
(紅さんにとって、そうなのかもしれない)
---
昼ごはんは、澪が作った。
豚汁と、白いごはんと、焼き魚と、大根のおひたし。
「……多くなった」
「十分すぎますよ」
「……せっかくだから」
二人でキッチンのテーブルに座って食べた。他の住人はそれぞれ外出していて、キッチンには二人だけだ。
静かだった。
でも、いやな静かさじゃない。
「……おいしいですね」
「……本当に?」
「本当に」
「……よかった」
澪が少し、肩の力を抜いた。
「……料理、好きなの?」と悠真が聞いた。
「……嫌いじゃない。でも誰かのために作ったのは、あまりなかった」
「なぜですか」
「……近づくと凍らせるから。いつも一人で食べてた」
悠真は少し考えた。
「今は凍ってないですよ」
「……あなただから」
さらっと言った。
(また澪さんがさらっとすごいことを言った)
(この人、弱ってるときと、こういう話になったときだけ素直になる)
「……また作ってもらえますか」
澪が少し目を丸くした。
「……また?」
「おいしかったので」
「……作る」即答だった。「また作る」
「ありがとうございます」
澪が豚汁を一口飲んだ。横顔が、少し柔らかい。
(きれいだな、と思うのはもう諦めた)
(思っても言わないだけで、思うのは自由だろ)
---
夕方、みつきが悠真の部屋に来た。
「朝の話、聞かせて」
「長いですよ」
「全部聞く」
「……まあいいか」
話していると、みつきがにやにやしながら聞いていた。
「澪さんが"ずるい"って言ったの?」
「言いました」
「それで紅さんが謝ったの?」
「謝りました」
「すごいじゃん。澪さん、やるじゃん」
「俺はただ見てただけですけど」
「悠真くんがいたから言えたんだよ、たぶん」
(そうだろうか)
「……で」みつきが体を乗り出す。「昼に澪さんと二人でごはん食べたの?」
「食べました」
「他の人いなかったの?」
「いなかったです」
みつきが目を輝かせた。
「それ、デートじゃん」
「違います」
「二人きりで、手料理で、昼間に——」
「違います」
「どう見てもデートだよ」
「……違います」
「顔赤いじゃん」
「暖房のせいです」
「今日暖房つけてないじゃん」
「…………」
みつきがけらけら笑った。
「悠真くん、今日だけで澪さんと紅さん両方に進展があったじゃん。すごいね」
「進展とかじゃないです」
「ましろちゃんも朝から腕にくっついてたし」
「……ましろさんはいつもそうじゃないですか」
「まあね」みつきが少し笑い方を変えた。「でも、今日のましろちゃん、ちょっとだけいつもと違った気がした」
「何がですか」
「澪さんと紅さんがバチバチしてるとき、ましろちゃん、ずっと悠真くんの腕を握ってたじゃん」
「そうですね」
「力、強くなかった?」
悠真は思い返した。
そういえば。
ましろの手が、会話が白熱するにつれて、じわじわと、強くなっていた気がした。
「……気のせいですよ」
「そうかなあ」
みつきが少し、真顔になった。
「悠真くん、ましろちゃんのこと、ちゃんと見ててあげてね」
「どういう意味ですか」
「……あの子、見た目より、ずっと色々考えてると思う」
「みつきさんは知ってるんですか、何か」
みつきがしばらく間を置いた。
「……知ってるというより、気になってる。情報屋の勘みたいなもの」
「勘ですか」
「勘だけど、外れたことない」
悠真は少し黙った。
「……気をつけます」
「うん。あと」みつきが立ち上がった。「今日のこと、面白かった。ありがとう」
「俺に礼を言われても」
「巻き込まれてくれてありがとう、ってこと」
みつきが部屋を出た。
悠真は少し、考えた。
(ましろさんのことを、ちゃんと見ててあげて)
(みつきさんが、あんな顔で言うのは珍しい)
---
夜、廊下に冷気が来た。
「……澪さん」
「……うん」
「今日は、ありがとうございました」
「……こっちが言う台詞」
「昼ごはん、おいしかったです」
「……また作る」
「楽しみにしています」
少し間があった。
「……紅のこと」
「何ですか」
「……嫌いじゃない」
「知ってます」
「……でも、悠真の前でああいうことをするのは——」
「ずるい、ですよね」
「……うん」
また間があった。
「……悠真は、どう思ってるの」
「何を、ですか」
「……紅のことを」
悠真は少し考えた。
「……面倒くさい人だと思います」
廊下がしんとした。
「でも」
「……でも?」
「放っておけない人だとも思います。澪さんと同じで」
長い沈黙があった。
「……澪さんと同じ?」
「同じです」
また沈黙。
「……それって」
「それ以上は言いません」
「……なんで」
「自分でもよくわかってないので」
ドアの向こうで、澪がため息をついた気がした。
「……正直なんだか、正直じゃないんだか」
「両方です」
「……おやすみ」
「おやすみなさい」
足音が遠ざかった。
悠真は布団に入って、天井を見た。
(面倒くさい人だとも思います、か)
(よく言えたな)
(よく言ったと思ったが、今更恥ずかしくなってきた)
布団を頭まで引っ張り上げた。
(放っておけない、か)
(澪さんも、紅さんも)
(……俺、完全にこの家に染まってきてるな)
それが、嫌じゃなかった。
---
岬悠真、百鬼荘生活七日目。
朝から修羅場になった。紅が謝った。澪が昼ごはんを作った。みつきにデートだと言われた。ましろに腕を握られた。澪に「放っておけない」と言った。
それ以外は——
それ以外も、大概だった。
一週間で、随分遠くまで来た気がする。
---
*【第8話「案件が決まった日に、全員に何かが起きた件」に続く】*
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