第6話「陰陽庁の黒スーツが、来た」
百鬼荘に越してきて六日目の朝は、いつも通りだった。
ましろが朝七時に悠真の部屋に入ってきて膝の上に乗った。澪がキッチンでコーヒーを淹れていた。紅が完璧な格好で朝から新聞を読んでいた。みつきの首が二階の廊下をゆっくり移動していた。
いつも通りだ。
(この"いつも通り"が一週間もしないうちに確立されてしまったな)
悠真は卵を割りながら思った。
「おにいさん、今日も卵焼き?」
「今日はオムレツにしようと思って」
「違いがわからない」
「形が違います」
「食べれば同じじゃん」
(まあ、食べれば同じか)
澪がキッチンに入ってきて、悠真の隣に立った。
「……手伝う」
「大丈夫ですよ」
「……味噌汁くらいなら」
「じゃあお願いします」
澪が鍋を出した。昨日より顔色がいい。完全に回復したらしく、動作もいつも通りだ。ただ、悠真の隣に立つとき、普段より少しだけ距離が近い気がした。
(気のせいか)
(気のせいじゃないと困るな)
「……ねぎ、どこ」
「冷蔵庫の下の段です」
「……ありがとう」
澪が冷蔵庫を開けた。悠真はオムレツを焼いた。
ましろが二人を交互に見ながら、椅子に座って足をぶらぶらさせていた。
---
異変に気づいたのは、午前中のことだ。
案件のやりとりで行き詰まり、少し外の空気が吸いたくなって、悠真はコンビニへ向かった。
ましろがついてくると言ったので一緒に出た。
石畳を歩いて、百鬼荘の門を出た。
その瞬間に、なんとなく、視線を感じた。
エンジニアの習性というのか、悠真はシステムの異常に敏感だ。コードのバグを探すとき、「なんかおかしい」という感覚がある。論理的に説明できないが、でも確かにおかしい、という状態。
今がそれだった。
何気なく周囲を見た。
道路の向かい側、電柱の少し手前に、男が立っていた。
黒いスーツ。三十前後くらい。ごく普通の外見だ。ただ——立ち方が、おかしい。スマートフォンを見るでも、誰かを待つでもなく、ただ立っている。視線は、百鬼荘の方向に向いている。
(……あの人、さっきもいたな)
悠真は記憶を探った。朝、ゴミを出しに出たとき。あの位置に、同じ格好の人間がいた気がする。
(二時間、同じ場所に立ってるのか?)
「おにいさん、どうしたの?」
ましろが悠真の袖を引いた。
「……なんでもないです。行きましょう」
ましろの手を引いて歩き出した。
背中に、視線を感じた。
---
コンビニからの帰り道も、男はいた。
位置が少し変わっていた。電柱の手前から、向かいのビルの陰に移動している。
(位置を変えた。俺が外に出たから?)
(これ、監視だ)
エンジニアの問題解決思考が動いた。仮説を立てる。検証する。
仮説①:偶然、あそこにいる人間。→ 否定。二時間同じ場所にいる理由がない。
仮説②:百鬼荘を監視している。→ 可能性大。位置が百鬼荘の正面で、視線がそちらに向いている。
仮説③:俺個人を監視している。→ 可能性低。俺に監視される理由がない。
(つまり百鬼荘が監視対象、ということか)
(そうなると——妖怪を管理する組織、みたいなものが存在するということか?)
(いや、それはSFすぎる。でも妖怪が実在する時点で俺の「普通」の基準は崩壊しているんだが)
「おにいさん、難しい顔してる」
「考え事してました」
「なに考えてるの?」
「……後で話します」
百鬼荘に戻った。
---
みつきに聞いたのは、昼過ぎだ。
みつきならこういう情報を持っていると思った。
「向かいに黒スーツの男がいますが、知ってますか」
みつきが目を輝かせた。
「気づいたの?」
「朝から視線を感じて」
「さすがだね」みつきが少し声を落とした。「前からたまに来てたよ。最近、頻度が上がってる気がするけど」
「何者ですか」
「詳しくはわからないけど」みつきが首を傾ける。「妖怪を管理してる人たちだと思う。ここが妖怪の住処だって知ってる人たち」
「……そういう組織があるんですか」
「あるみたい。管理人さんは知ってると思うけど」
「管理人に聞いてみます」
「あの人、ちゃんと答えてくれるかなあ」
(確かに)
---
管理人を見つけたのは、縁側だった。
例のごとく着流しで扇子を持って、庭を眺めている。
「管理人さん」
「なんだ」
「向かいに黒スーツの人間がいます。知ってますか」
管理人が扇子を開いた。
「知っとる」
「何者ですか」
「……妖怪の番人みたいなものだ」
「百鬼荘を監視しているんですか」
「ずっとな」
「危険ですか」
管理人がしばらく庭を見ていた。
「……今は、大丈夫だ」
「今は、ということは——」
「今は大丈夫だ」
繰り返した。それ以上は言わなかった。
「住人たちに危害が及ぶ可能性は」
「……お前が気にすることではない」
「気にします」
管理人が悠真を見た。
「……なぜだ」
「住人です、俺も」
管理人がしばらく悠真を見ていた。それから、扇子で口元を隠してふっと笑った。
「……まあ、そうだな」
何か言いたいことがあるようで、でも言わなかった。
扇子を閉じて、縁側から立ち上がった。
「気になるなら、近づくな。それだけだ」
それだけ言って、廊下の奥に消えた。
(何か知っている。でも言わない)
(この人、いつもそうだ)
---
夕方、紅が悠真の部屋に来た。
ノックして入ってきて、椅子に座った。いつもの余裕のある顔だが、少し目が鋭い。
「黒スーツ、気づいた?」
「気づきました」
「エンジニアって目ざといね」
「パターンの異常に敏感なので」
紅が足を組んだ。
「あれ、陰陽庁だと思う」
「おんみょうちょう?」
「妖怪を管理してる組織。公式には存在しない」
「……みつきさんも似たようなことを言ってました」
「私は何度か接触したことがある」
「危険ですか」
「場合による」紅が少し間を置いた。「無害な妖怪は放置される。でも——問題を起こした妖怪は排除される」
「排除というのは」
「封印か、消滅か」
悠真は少し黙った。
「……澪さんは」
「雪女は要注意指定されてる。力が強いから」
(3話の嵐、外に漏れてたかもしれない)
「ましろさんは」
「座敷童は特殊ケース。扱いに困るらしくて判断保留」
「紅さんは」
紅が少しだけ、口角を上げた。
「九尾は要警戒。でも賢いから、問題は起こさない」
「賢いから?」
「生き延びるための処世術よ」
さらっと言ったが、悠真には、その言葉の裏に何かある気がした。
「……今まで、何かあったんですか」
紅がしばらく悠真を見た。
「……昔ね。別の場所にいたとき、陰陽庁に囲まれたことがある」
「それで?」
「逃げた。だからここにいる」
「ここは安全なんですか」
「……管理人がいる限り、手は出せないと思う。あの人、相当強いから」
「相当って、どのくらい」
「陰陽庁が全力で来ても、面倒なことになるくらい」
(管理人、何者なんだ)
「……わかりました。気をつけます」
「悠真くんは気をつけなくていい。人間だから」
「住人として気をつけます」
紅がまた、少し意外そうな顔をした。
「……あなた、本当に逃げないね」
「逃げません」
紅が立ち上がった。部屋を出る前に、振り向いた。
「……ありがとう」
「何がですか」
「気にしてくれて」
それだけ言って、出ていった。
ドアが閉まってから、悠真はため息をついた。
(逃げないと言ったが、正直、少しだけ怖い)
(でも——澪さんや紅さんが排除されるかもしれないと思ったら、逃げる気にはなれない)
(なんで俺がそんなことを思っているのかは、今は考えない)
---
夜、悠真は作業を切り上げて、少し外の空気を吸いに出た。
門を出て、百鬼荘を振り返った。
古い木造の建物。明かりが灯った窓がいくつかある。澪の部屋。紅の部屋。ましろの部屋。みつきの部屋。
(変な家だな、本当に)
(でも、好きだ。この家が)
振り向いた。
向かいに、男が立っていた。
昼間と同じ男だ。黒いスーツ。感情の読めない顔。年齢は悠真とそう変わらないかもしれない。
二人の距離は、十メートルほどだ。
男は悠真を見ていた。
悠真も、男を見た。
(監視対象は百鬼荘だと思っていたが——今は、俺を見ている)
男が動かない。何も言わない。ただ、悠真を見ている。目が、鋭い。感情はないが、馬鹿にしているわけでもない。何かを、測るような目だ。
(なんだ、この人)
悠真も動かなかった。
逃げる気にならなかった。
どちらが先に動くかわからないまま、数秒が過ぎた。
男が、ゆっくりと視線を切った。
踵を返して、歩き出した。
角を曲がって、見えなくなった。
悠真はしばらく、その場に立っていた。
心臓が少し、速くなっていた。
(……何者だ)
振り返ると、二階の窓に人影があった。
澪だった。
窓越しに、悠真を見ていた。
目が合った。
澪がゆっくり、カーテンを引いた。
(見ていてくれたのか)
悠真は門を入って、百鬼荘に戻った。
---
翌朝、みつきが情報を持ってきた。
「昨日の黒スーツ、名前わかったよ」
「どうやって調べたんですか」
「首伸ばして後をつけた」
「……それ大丈夫なんですか」
「暗かったから気づかれてない、たぶん」
(たぶん、か)
「名前は?」
みつきが少し表情を変えた。いつもの軽い顔ではなく、少し真剣な顔だ。
「神代玲司。陰陽庁の祓魔班——要するに、現場で妖怪を封印する部隊の人間」
「……祓魔班」
「エリートらしい。腕も立つ」
悠真はその名前を、頭の中に入れた。
「……また来ると思いますか」
「来ると思う」みつきが窓の外を見た。「むしろ、今日も来てるよ」
悠真は窓の外を見た。
向かいの道。電柱の手前。
昨日と同じ位置に、黒スーツの男がいた。
神代玲司が、百鬼荘を見ていた。
---
岬悠真、百鬼荘生活六日目。
監視されていた。管理人に「気にするな」と言われた。紅に陰陽庁の話を聞いた。夜に黒スーツと目が合った。翌朝にも来ていた。
それ以外は——
(それ以外、じゃないな。今日は)
悠真は窓の外の神代玲司を見ながら、静かに思った。
(この家は、俺が思っていたより、ずっと複雑なところにあるらしい)
(でも——だから、どうした)
コードエディタを開いた。
仕事をしながら、窓の外を気にしていた。
---
*【第7話「狐と雪女が、本気でバチバチしている件」に続く】*
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