第5話「雪女が風邪をひいた、らしい」
百鬼荘に越してきて五日目の朝、澪がキッチンに来なかった。
それだけなら、別に珍しいことじゃない。澪は朝が遅いこともある。でも昼になっても来なかった。夕方になっても来なかった。
「……澪さん、今日見た?」
みつきに聞くと、首を横に振った。
「朝から出てきてない」
「部屋にいる?」
「いる。気配はある。でもなんか——」
みつきが首を傾けた。
「いつもと違う気がする」
悠真は少し考えた。
澪の部屋のドアをノックしに行ったのは、夕方の六時だった。
「澪さん。夕ごはん——」
「……いらない」
声がした。
ただ、声がおかしかった。
いつもの澪の声より、低い。かすれている。少し、力がない。
「……入りますよ」
「……待って」
少し間があって。
「……どうぞ」
ドアを開けた。
澪が、布団の中にいた。
黒髪が枕に広がっている。いつもより顔が白い。目が、心なしかとろんとしている。
「……何」
「顔色が悪いです」
「……大丈夫」
「全然大丈夫に見えないんですが」
「……大丈夫」
(大丈夫じゃないな、完全に)
悠真は部屋に入った。澪の布団の横にしゃがんで、顔を覗き込む。
近くで見ると、余計におかしかった。頬がほんのり赤い。目が潤んでいる。普段は感情が読めない顔が、今日は隠しきれていない。
「熱がありますか」
「……雪女に熱は出ない」
「じゃあなぜ顔が赤いんですか」
「……」
「澪さん」
「……少し、だるい」
(少しじゃないだろ絶対)
「横になっててください。薬と水を持ってきます」
「……いい」
「よくないです」
「……人間の薬は効かない」
「じゃあ何なら効きますか」
澪が少し間を置いた。
「……あったかい、もの」
「飲み物ですか」
「……食べ物でも」
「わかりました」
悠真は立ち上がった。
「……なんで」
澪が小さく言った。
「何ですか」
「……なんで、看病するの」
「住人が体調を崩してたら心配するのは普通じゃないですか」
澪がしばらく、天井を見ていた。
「……そういうものなの」
「そういうものですよ」
また少し間があった。
「……ありがとう」
声が、かすかだった。
悠真は部屋を出た。
(…………)
(澪さんに「ありがとう」って言われると、なんか、すごく——)
(何でもない。何でもない)
---
キッチンに降りると、紅とみつきがいた。
二人とも、悠真の顔を見た。
「澪、どうだった?」と紅が聞いた。
「体調が悪そうです。あったかいものを作ろうと思って」
「雪女が体調崩すって珍しいけど——」みつきが首を傾ける。「まあ、あの子感情の起伏が激しいから。力使いすぎると弱ることあるのよ」
「何かあったんですか」
紅とみつきが、目を合わせた。
「……昨日の夕方」みつきが言った。「雨が降り始めたとき、澪さん傘も持たずに外に出てたんだよね」
「なんで」
「さあ」
「……誰かを、待ってたんじゃないかな」みつきが意味ありげに言う。「玄関の前で、ずっと外見てたから」
悠真には心当たりがあった。
昨日の面談帰り。紅と一緒に帰ってきた。
(……待ってたのか)
(俺を、待ってた?)
「……お粥でも作ります」
「作れるの?」と紅。
「簡単なやつなら」
「手伝う」
「いいですよ」
「手伝う」
(この人も交渉の余地がない)
---
お粥を作っている間、ましろが入ってきた。
「澪さんの具合どう?」
「あまりよくなさそうです」
「……そっか」
ましろが少し考えるような顔をした。
「おにいさんが看病するの?」
「します」
「……ましろも行く」
「ましろさんは——」
「行く」
(交渉の余地がない。この家の住人は全員そういう設定なのか)
「……一緒に行きましょう」
「うん!!!」
ましろが満面の笑みになった。紅がそれを横目で見て、鍋をかき混ぜながら静かに言った。
「ましろちゃん、澪が弱ってるときに騒がないようにね」
「わかってる」
「本当に?」
「……わかってる」
ましろの声が一トーン落ちた。紅を見る目が、一瞬だけ真顔になった。
紅はそれを受け流して、お粥を器に移した。
「できた。持ってってあげて」
「ありがとうございます」
---
澪の部屋に入ると、澪は布団の中で横を向いていた。
悠真が器を持って近づくと、気づいて身を起こそうとした。
「そのままでいいです」
「……でも」
「無理しないでください」
澪が少し迷ってから、また横になった。
枕元に器を置いた。
「お粥です。食べられそうですか」
「……食べる」
悠真がスプーンで少し冷ましながら差し出すと、澪がそれを受け取った。一口食べた。
少し間があった。
「……おいしい」
「よかった」
「……誰が作ったの」
「俺と紅さんで」
澪の手が、一瞬止まった。
「……紅が?」
「手伝ってくれました」
澪がまた一口食べた。何も言わなかった。
ましろが悠真の隣でちょこんと座って、じっと澪を見ている。
「澪さん、大丈夫?」
「……大丈夫」
「早く元気になってね」
「……うん」
澪がましろを見た。普段より目が柔らかかった。弱っているせいか、それとも本当にそういう気持ちだからか。
「……ましろ、心配してくれたの?」
「してた! ご飯食べないから!」
「……ごめん」
「謝らなくていいよ。早く元気になって」
澪がまた一口食べた。
悠真は部屋の端に座って、澪が食べ終わるのを待った。
---
ましろが「眠い」と言って自分の部屋に帰ったのは、夜の八時過ぎだった。
悠真は澪の部屋に残っていた。
器を片付けようとしたとき、澪が言った。
「……もう少しいて」
「……いいですよ」
悠真は壁際に座り直した。
澪が布団の中から悠真を見ていた。
「……退屈じゃない?」
「退屈じゃないです」
「……何もないよ、ここ」
「静かでいいです」
澪がしばらく天井を見た。
「……雪女って、こういうとき困る」
「こういうとき?」
「……誰かにそばにいてほしいとき、言えない」
「なぜですか」
「……近づいたら、凍らせるから。いつも」
「俺は凍らないですよ」
澪が悠真を見た。
「……なんで」
「わからないです。でも凍ったことないので」
澪がまた天井を見た。少し間があった。
「……不思議」
「そうですね」
「……だから」
澪の声が、小さくなった。
「……だから、あなたのそばが、落ち着く」
(…………)
(澪さんが、今、すごく素直なことを言った)
(これは熱のせいか。熱は出ないって言ってたけど、でも、普段じゃこんなこと言わないよな)
「……聞こえた?」
澪が少し焦ったように言った。
「聞こえました」
「……忘れて」
「忘れないです」
「……忘れて」
「覚えておきます」
「……っ、意地悪」
頬がまた赤くなった。でも今度は、体調のせいだけじゃない気がした。
部屋の温度が、少し下がった。
「……凍らせますよ」
「凍らないので大丈夫です」
澪が唇を結んで、布団を顔まで引っ張り上げた。
「……もう喋らない」
「いいですよ」
しばらく、静かだった。
悠真はPCを持ってきていなかったので、スマートフォンで作業の続きをしていた。
十分くらいして、澪の寝息が聞こえてきた。
眠ったらしい。
悠真は立ち上がって、布団をそっと直した。澪の顔が見えた。眠っていると、普段より穏やかな顔だ。感情が読めなくて、でも何かを考えてそうで、それでいて静かで。
(きれいだな)
(いや、何を——)
悠真はそっと部屋を出た。
---
廊下に出ると、みつきの首が天井から降りてきた。
「聞いてた」
「聞いてたんですか」
「ドア薄いから」
「……」
「"そばが落ち着く"だって」みつきがにやにやしながら言う。「澪さん、よっぽど弱ってたね」
「体調が悪かったので」
「悠真くん、顔赤いよ」
「室温が高かったので」
「澪さんの部屋なのに?」
「…………」
「ふふ」みつきが楽しそうに笑う。「悠真くんって正直だよね、顔が」
「そんなことないです」
「あるよ。四話の紅さんの部屋から出てきたときも真っ赤だったし」
「全部見てたんですか」
「全部見てた」
(ろくろ首の覗き魔め……)
「今日のこと、他の人に言わないでください」
「澪さんのこと?」
「弱ってるところを、あまり広めたくないと思うので」
みつきが少し、意外そうな顔をした。
「……悠真くん、ちゃんと考えてるじゃん」
「当たり前です」
「偉い」
「褒めなくていいです」
みつきがくすくす笑いながら首を引っ込めた。
「おやすみ、悠真くん」
「おやすみなさい」
首が消えてから、悠真はため息をついた。
(顔、赤かったのか)
(自覚はなかったが)
自分の部屋に向かって歩き出したとき、廊下の角に人が立っているのが見えた。
ましろだった。
「……寝てなかったんですか」
「おにいさんを待ってた」
「何か用ですか」
「別に」
ましろが悠真を見た。
「……澪さんと、ずっと一緒にいたの?」
「体調悪そうだったので」
「…………そっか」
「ましろさん」
「なに」
「明日、朝ごはん一緒に食べましょう。俺が作ります」
ましろがまた、ぱっと顔を輝かせた。
「ほんとに!?」
「ほんとに」
「卵焼き?」
「卵焼き作ります」
「やった!!!」
ましろがとてとてと自分の部屋に向かった。ドアの前で振り向いた。
「おやすみ、おにいさん」
「おやすみなさい」
ドアが閉まった。
悠真はしばらく、ましろの部屋のドアを見ていた。
(ましろさんは——なんか、最近、笑顔が怖いときがある)
(でも今は、ちゃんと笑ってた)
(どっちが本当なんだろう)
(……両方、本当なのかもしれない)
自分の部屋に戻って、布団に入った。
天井を見上げた。
「……だから、あなたのそばが、落ち着く」
澪の声が、耳に残っていた。
(忘れろ。忘れろ忘れろ)
(忘れられるか、あんな声で言われて)
悠真は布団を頭まで引っ張り上げた。
暗いとこで一人でいると、余計に澪の声が再生された。
(最悪だ)
(最悪だが、悪い気はしない)
(全然悪い気がしない、それが最悪だ)
---
翌朝。
キッチンに降りると、澪がいた。
昨日より顔色がいい。コーヒーを淹れている。普段通りの、感情の読めない顔だ。
「……おはよう」
「おはようございます。体調は」
「……普通」
「よかった」
悠真が冷蔵庫を開けると、後ろから澪の声がした。
「……昨日のこと」
「何ですか」
「……変なこと、言った」
「変じゃなかったですよ」
「……忘れて」
「覚えてます」
「……忘れて」
「覚えてます」
「……っ」
澪の背中から冷気が出た。悠真のいる冷蔵庫付近の温度が更に下がった。
(冷蔵庫の前に立ってるのに冷やされるのは二重苦だな)
「朝ごはん、何にしますか」
「……なんでも」
「じゃあ昨日の残りのお粥、あったかくしてきます」
「……いらない」
「食べてください、回復中なんだから」
澪がしばらく黙っていた。
「……食べる」
「はい」
悠真が鍋を火にかけていると、ましろが元気よく降りてきた。
「おはよう!!! 卵焼きは!?」
「今作ります」
「やった!!!」
「澪さんの分も作るから、少し待ってね」
ましろが澪を見た。澪がましろを見た。
「……澪さん、元気になった?」
「……まあ」
「よかった」
ましろが澪の隣に座った。澪は何も言わなかったが、追い払いもしなかった。
しばらくして紅が降りてきて、みつきも来て、管理人が扇子を持って廊下をゆっくり歩いていくのが窓から見えて、キッチンがにぎやかになった。
悠真は卵焼きを焼きながら、それを聞いていた。
(この感じ、悪くない)
澪が、卵焼きを一口食べて、小声で言った。
「……おいしい」
それだけで、なんとなく、今日もやっていける気がした。
---
岬悠真、百鬼荘生活五日目。
雪女が風邪をひいた。看病した。素直なことを言われた。顔が赤いのをみつきに全部見られた。ましろに待ち伏せされた。夜中に一人で悶えた。
それ以外は——
悪くなかった。
たぶん、じゃなくて、本当に。
---
*【第6話「陰陽庁の黒スーツが、来た」に続く】*
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