第4話「九尾の狐に、振り回されすぎている件」

 面談の朝、悠真はスーツを着た。


 久しぶりだった。フリーランスになってから、スーツを着る機会はほとんどない。クローゼットから引っ張り出してみると、皺はないが少し肩のあたりが窮屈な気がした。体型が変わったのか、それとも着慣れていないだけか。


 鏡を見ながらネクタイを締めていると、ドアが開いた。


 ましろだった。


 悠真を見て、ぱちりと目を瞬いた。


 「……おにいさん、かっこいい」


 「ありがとうございます」


 「どこか行くの?」


 「面談です。昨日話したやつ」


 「……うん」


 ましろがドアの前に立ったまま、じっと悠真を見ている。何か言いたそうな顔だ。でも何も言わない。


 「行ってきます」


 「うん」


 「すぐ戻ります」


 「うん」


 「約束、覚えてますよね」


 「覚えてる」


 ましろがにこっと笑った。


 (またその笑顔だ)


 2話の帰宅後のとき、3話の外出前のとき。笑顔なのに目が笑っていない、あの感じ。


 (気のせいだよな。絶対気のせいだ)


 「行ってきます」


 廊下に出ると、澪が階段のところに立っていた。コーヒーのマグカップを持っている。朝の澪だ。


 悠真のスーツ姿を見て、一瞬だけ目を止めた。


 「……面談?」


 「はい。今日です」


 「……うまくいくといいな」


 「ありがとうございます」


 小声だった。悠真が聞き取れたのは、距離が近かったからだ。


 澪はすぐに視線を逸らして、階段を降りていった。


 (澪さんに言われると、なんか、ちゃんと頑張ろうという気になるな)


 (なんでだろう)


 玄関を出ようとしたとき、後ろから声がかかった。


 「悠真くん」


 紅だった。


 キッチンのほうから出てきたらしく、コーヒーを片手に持っている。部屋着のまま、朝からそれなりに整った顔をしている。


 「面談でしょ。頑張って」


 「……ありがとうございます」


 「あと」


 紅がひらひらと手を振った。


 「ネクタイ、曲がってる」


 「え」


 「右に傾いてる」


 悠真は鏡を探した。玄関に鏡はない。


 紅がすっと近づいてきた。


 「貸して」


 「あ、自分で——」


 「いいから」


 有無を言わせず手が伸びてきた。ネクタイを掴まれる。直されている。距離が近い。コーヒーの匂いと、それとは別の、柔らかい匂いがする。


 (近い。朝から近い距離感がバグっている)


 「……はい」


 紅が手を離した。一歩引く。


 「どう?」


 「……ありがとうございます」


 「行ってらっしゃい」


 なんとなく、聞き慣れない言葉に聞こえた。


 (誰かに見送られるのって、久しぶりかもしれない)


 「……行ってきます」


 悠真は玄関を出た。


---


 面談は、思ったよりうまくいった。


 渋谷のオフィス。担当者は三十代の女性で、話しやすい人だった。悠真のポートフォリオを見て「フルスタックでここまでできる人は珍しい」と言ってくれた。具体的な案件の話まで進んだ。来週中に連絡をもらえることになった。


 オフィスを出て、渋谷の雑踏に出た。


 (……悪くない)


 久しぶりに、そう思えた。


 スマートフォンで電車のルートを調べながら歩いていると、横から声がかかった。


 「やっほ」


 振り向いた。


 知らない女だった。


 ショートカット、細い目、砕けた笑顔。悠真の顔を見て、なぜか楽しそうにしている。


 「あの……人違いじゃ」


 「人違いじゃないけど」


 女が少しだけ笑い方を変えた。


 その瞬間、悠真は気づいた。


 (……この笑い方)


 「……紅さん?」


 女の顔が、見る間に元に戻った。赤みがかった長い髪、切れ長の目、余裕のある笑み。


 渋谷のど真ん中に、九条紅が立っていた。


 「正解」


 「なんでここに」


 「散歩」


 「渋谷まで?」


 「気分転換」


 (気分転換で渋谷まで来るのか。しかも変身して)


 「……面談、終わったの?」


 「終わりました」


 「どうだった?」


 「まあ、悪くないです」


 紅がじっと悠真の顔を見た。


 「……本当に?」


 「本当に」


 「よかった」


 さらっと言った。


 悠真は少し、意外に思った。


 (紅さんって、こういうことを素直に言う人だったか)


 「……ありがとうございます」


 「お礼はいらない」紅が前を向いた。「帰るんでしょ。一緒に行く」


 「来なくていいですよ」


 「行く」


 (この人も交渉の余地がない種族なのか)


---


 電車の中で、紅は終始涼しい顔をしていた。


 それはいいのだが、問題は、電車が混んでいたことだ。


 夕方の渋谷発の電車だ。座れるはずがない。人が多い。必然的に距離が近くなる。


 「……狭いですね」


 「都会はそういうもの」


 紅が平然と言う。ポールを掴んでいる手が悠真の手の隣にある。肩が触れそうな距離だ。電車が揺れるたびに、少し体が傾く。


 「……変身は使わないんですか」


 「電車の中で変身したら目立つでしょ」


 「ですね」


 「それに」


 紅がこちらを見た。少し低い位置から、見上げてくる。


 「今は、これがいい」


 (……どういう意味だ)


 電車が揺れた。紅の体が悠真のほうに傾いた。肩が当たった。紅は特に避けなかった。


 (近い。でも電車の中だから仕方ない。これは仕方ない。仕方ない、仕方ない)


 「……何か考えてる?」


 「考えてないです」


 「顔に出てる」


 「出てないです」


 「"仕方ない"って顔してた」


 (なんで読めるんだ)


---


 百鬼荘に帰ると、ましろが玄関で待っていた。


 悠真を見て、ぱっと顔を輝かせた。


 「おかえり!!!」


 「ただいま」


 「面談どうだった?」


 「うまくいきそうです」


 「やったー!!!」


 ましろが飛びついてきた。今日三度目だ、と悠真は思った。この体当たりにも慣れてきた自分が少し怖い。


 ましろがぎゅっとしがみついたまま、顔を上げた。


 紅を見た。


 「……紅さんも一緒だったの?」


 「渋谷で会った」と紅が言う。


 「ふうん」


 ましろの声が、一トーン落ちた。


 笑顔は崩れていない。でも悠真には、もうわかるようになっていた。


 笑顔の温度が、下がっている。


 「……ましろさん」


 「なに?」


 「面談うまくいったので、今日の夕ごはん、何か作りましょうか」


 ましろがぱっと顔を上げた。


 「ほんとに!?」


 「何が食べたいですか」


 「卵焼き!!!」


 「卵焼きだけですか」


 「卵焼きとごはんとお味噌汁と卵焼き!!!」


 「卵焼きが二回入ってます」


 「それだけ好きだから」


 (まあ、いいか)


 紅が横でくすっと笑った。ましろが紅を見た。笑顔のまま、じっと見た。


 紅が悠真だけに聞こえる声で言った。


 「……後で部屋来れる? ちょっと頼みたいことがあって」


 「何ですか」


 「パソコンのこと。後で説明する」


 (パソコンの相談か。それなら普通にできるな)


 「わかりました」


 ましろが何かを言いかけて、止まった。


 止まって、にこっと笑った。


 (あの笑顔だ)


---


 夕食後、悠真は紅の部屋のドアをノックした。


 「どうぞ」


 部屋に入る。


 三〇一号室は、悠真の部屋より少し広かった。棚に小物が並んでいる。香の匂いがかすかにする。


 紅が机の前の椅子に座っていた。ノートPCが開いている。


 「来た」


 「来ました。パソコンの相談というのは」


 「ここに座って」


 紅が隣の椅子を引いた。


 悠真は座った。


 距離が、近い。


 机が小さいせいもあるが、紅が意図的に詰めてきているせいもある。肩が触れる。横顔が近い。


 (落ち着け。パソコンの相談だ。仕事の話だ。冷静になれ)


 「何の相談ですか」


 「これ、見て」


 紅がPCの画面を指した。


 ブラウザが開いていて、何かのサービスの登録画面が表示されていた。フリマアプリらしい。


 「登録したいんだけど、途中でわからなくなった」


 「……フリマアプリですか」


 「着なくなった着物を売りたくて」


 (九尾の狐がフリマアプリを使う時代か……)


 「わかりました。どこで詰まってますか」


 「ここ」


 紅が画面を指した。悠真は身を乗り出した。


 「住所確認のところですね。これは——」


 説明しながら操作していると、紅が悠真の腕の上に軽く手を乗せた。


 「そこ、どう押すの?」


 「この順番で——」


 「もう少しゆっくり」


 「……こうです」


 (手が乗ってるな。画面の説明のために乗せてるのか、それとも……)


 「わかった」


 紅が手を引いた。


 「ありがとう」


 「いえ」


 「……ねえ」


 紅が少し椅子を引いて、悠真のほうを向いた。足を組む。姿勢が変わった。さっきより距離が遠い。


 「一個聞いていい?」


 「何ですか」


 「悠真くんって、なんで妖怪のこと怖くないの」


 「……怖くないわけじゃないですけど」


 「でも普通に一緒にいるじゃない」


 「まあ」


 「なんで?」


 悠真は少し考えた。


 「危害を加えてこないから、じゃないですか」


 「それだけ?」


 「あとは……ここが、別に嫌じゃないので」


 紅がじっと悠真を見た。


 「嘘くさい」


 「本当ですよ」


 「もっと怖がってもいいのに」


 「怖がっても家賃は下がらないので」


 紅がくすっと笑った。


 それから少し、間があった。


 「……前にいた人間は」紅がPCの画面を見ながら言った。「最初は平気なふりをして、結局逃げた」


 「そうですか」


 「みんなそう。最終的には逃げる」


 「……俺は逃げないですよ」


 「なんで言い切れるの」


 「逃げる理由がないので」


 紅が悠真を見た。


 いつもの余裕のある目ではなく、少しだけ、探るような目だった。


 「……ほんとに?」


 「ほんとに」


 間があった。


 紅がふっと視線を逸らした。


 「……そ」


 それだけ言って、PCの画面に向き直った。


 (今の紅さん、なんか、いつもと違った)


 (確かめるような目だった。試してるんじゃなくて、本当に確かめようとしてた)


 「……もう行っていいわよ」


 「わかりました」


 立ち上がろうとしたとき、足が椅子の脚に引っかかった。


 体が傾いた。


 (あ、やば——)


 反射的に手をついた。


 ついた先が、紅の肩だった。


 体が紅の上に、ほぼ倒れ込む形になった。紅の顔が、すぐ目の前にある。


 「……っ」


 二人とも、動かなかった。


 一秒。二秒。


 紅の目が、至近距離で悠真を見ていた。


 いつもの余裕が、一瞬だけ、消えた。


 (……紅さんの顔が近い。すごく近い。目が、なんか、今は——)


 「……離れて」


 紅の声が、少し低かった。


 「す、すみません」


 悠真は素早く体を起こした。


 紅は前を向いていた。耳が、わずかに赤い。


 (……今の、俺のせいで紅さんが照れてた?)


 (確信犯の紅さんが?)


 「……わざとじゃないですよね?」と紅が前を向いたまま言った。


 「わざとじゃないです」


 「……そう」


 「本当に」


 「……うるさい」


 (怒ってるのか照れてるのかわからない)


 「失礼しました」


 「……うん」


 悠真は部屋を出た。


 廊下に出て、ドアが閉まってから、ゆっくり息を吐いた。


 (心臓がうるさい。落ち着け)


 (落ち着けって言って落ち着いたことが一度もない)


---


 廊下に、ましろが立っていた。


 壁にもたれて、じっと立っている。


 紅の部屋のドアの、ちょうど真向かいの壁に。


 「……ましろさん、ここで何を」


 「待ってた」


 「俺を?」


 「うん」


 ましろが悠真を見上げた。


 「おにいさん、紅さんの部屋に長かったね」


 「パソコンの相談だったので」


 「長かったね」


 「……少し話してました」


 「楽しかった?」


 「楽しいというより、作業でした」


 ましろがしばらく、悠真の顔を見ていた。


 「……おにいさん」


 「何ですか」


 「ましろのこと、好き?」


 (急に核心をついてくるな)


 「好きですよ。大事な住人です」


 「紅さんよりも?」


 「……比べる話じゃないですよ」


 ましろがまた、じっと悠真を見た。


 それから、にこっと笑った。


 その笑顔が、今夜は特に、目に笑いがなかった。


 「……そっか」


 「ましろさん」


 「なに?」


 「今日の卵焼き、おいしかったですか」


 ましろがぱっと顔を輝かせた。


 「おいしかった!!! おにいさんの卵焼き、甘くて!!! またつくって!!!」


 「また作ります」


 「約束?」


 「約束です」


 ましろがとてとてと自分の部屋に向かって歩いていった。


 「おやすみ、おにいさん!!!」


 「おやすみなさい」


 部屋のドアが閉まった。


 悠真はしばらく廊下に立っていた。


 (……ましろさんが怖い瞬間がある。怖いというか、なんか、すごく、真剣な目をしている瞬間が)


 (気のせいか)


 (気のせいだよな)


 自分の部屋に戻ろうとしたとき、紅の部屋のドアがわずかに開いた。


 すぐ閉まった。


 一秒にも満たない。


 ただ、その隙間から、紅の声がかすかに聞こえた気がした。


 「……逃げない、か」


 独り言みたいな声だった。


 悠真は聞こえなかったふりをして、自分の部屋に入った。


---


 深夜、コードを書きながら悠真は今日のことを考えた。


 面談。渋谷の紅。電車の中の距離。倒れ込んだ瞬間の、いつもと違う目。


 (紅さんって)


 (なんか、本当は、そんなに余裕じゃないのかもしれない)


 廊下に冷気はない。今夜は澪が来ていない。ましろも来ていない。静かだ。


 ノートPCの画面を見ながら、悠真はぼんやりと思った。


 (「みんな最終的には逃げる」か)


 (……そんな顔で言うなよ)


 声には出さなかった。


 出したら、明日から絶対に態度が変わる気がしたから。


---


 岬悠真、百鬼荘生活四日目。


 面談はうまくいった。渋谷で狐に遭遇した。電車で密着した。部屋で倒れ込んだ。廊下でましろに待ち伏せされた。


 それ以外は——まあ、悪くなかった。


 たぶん。


---


*【第5話「雪女が風邪をひいた、らしい」に続く】*

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