第3話「座敷童が離れたら、世界が終わりかけた件」

 百鬼荘に越してきて三日目の朝、悠真は異変に気づいた。


 重い。


 体が重いのではない。膝が重い。


 目を開けると、ましろが膝の上で丸くなって寝ていた。


 「…………」


 悠真は天井を見た。


 それから膝を見た。


 それから天井を見た。


 (いつの間に入ってきた。というか俺、鍵かけてなかったのか。いや妖怪に鍵が有効かどうかも謎だな。座敷童に鍵は効くのか。効かない気がする。効かないな絶対)


 ましろがすうすう寝息を立てている。白い着物、白い髪。寝顔は普通に子どもだ。


 起こすのも悪い気がして、悠真はそっとノートPCを引き寄せた。膝の上のましろを動かさないまま、メールを確認する。


 新着が一件あった。


 前から連絡を入れていた会社からだ。「面談の日程を調整したい」という内容だった。


 (来た)


 (ようやく来た)


 日程は明後日。場所は渋谷。


 悠真はカレンダーを開きながら、ましろの頭を無意識に撫でた。


 「……ありがとう」


 「……ん」


 ましろが目を細めた。まだ半分寝ている。


 「おにいさん、なでなでしてる」


 「幸運付与のお礼です」


 「えへへ」


 ましろがそのまままた目を閉じた。


 (起きてないじゃないか)


---


 問題が発生したのは、昼過ぎだった。


 面談に備えて、悠真は外出の準備を始めた。といっても今日ではない。明後日の確認のため、渋谷までのルートを調べたり、スーツが使える状態かチェックしたりする程度だ。


 クローゼットを開けていると、後ろから声がした。


 「おにいさん、どこか行くの?」


 ましろが部屋のドアから覗いていた。


 「明後日、外出があります」


 「お仕事?」


 「面談です。次の案件に繋がるかもしれない」


 ましろがドアを開けて、部屋に入ってきた。


 「一人で行くの?」


 「一人で行きます」


 「……ましろも行く」


 「来なくていいです」


 「行く」


 「座敷童が渋谷に来ると何か問題がありそうです」


 「問題ない」


 「本当に?」


 「……多分」


 (多分かい)


 「明後日の話なので、今日は大丈夫ですよ」


 「でも」ましろが悠真の袖をつかんだ。「ましろ、離れると不安」


 「少しの間だけです」


 「それでも不安」


 「……なぜですか」


 ましろが少し下を向いた。


 「おにいさんがいなくなったら、ましろ、どうなるかわからない」


 思ったより真剣な声だった。


 悠真は少し考えた。


 「消えたりしますか」


 「……わからない」


 「わからないんですか」


 「信じてくれる人間がいないと、ましろ、薄くなる」


 「薄く」


 「存在が、薄くなる。前にいた家では、そうなった」


 ましろが袖を握る手が、少し強くなった。


 (そういうことか)


 「……明後日、面談が終わったらすぐ帰ります」


 「約束?」


 「約束します」


 ましろが顔を上げた。


 「絶対?」


 「絶対です」


 しばらく間があった。


 「……わかった」


 ましろが袖を離した。


 離した瞬間、ましろの表情が一瞬だけ、何かちがうものになった。笑顔でも、困り顔でもない。もっと静かな、温度のない顔。


 ほんの一瞬だ。瞬きするより短い。


 次の瞬間にはいつものましろに戻っていた。


 (……今、何だ?)


 でも離した直後に、今度は腕にしがみついてきた。


 「今日は一緒にいる」


 「わかりました」


 (気のせいか。気のせいだよな)


 (今日くらいはいいか)


---


 夕方になって、少し外の空気が吸いたくなった。


 コンビニまで往復するだけだ。五分もかからない。ましろには「すぐ戻る」と言い置いて、悠真は玄関を出た。


 二階の窓に、ましろが立っているのが見えた。


 手を振った。ましろも手を振り返した。


 いつもの笑顔だ。


 ただ——窓ガラス越しのましろの目が、笑っていなかった気がした。


 (気のせいだろ。ガラスの反射じゃないか)


 悠真は歩き出した。


 それが間違いだった。


 玄関を出て三歩で、石畳に足を取られた。


 (え)


 体が傾く。こけると思った瞬間、腕を誰かに掴まれた。


 紅が立っていた。ちょうど帰宅したところらしく、買い物袋を持っている。


 「大丈夫?」


 「……助かりました。ありがとうございます」


 「珍しい。悠真くん、そんなところで転ぶ?」


 「そんなことないんですが」


 悠真は石畳を見た。特に段差があるわけでも、濡れているわけでもない。


 (おかしい)


 気を取り直してコンビニへ向かった。


 交差点で信号待ちをしていると、青になった瞬間に横から自転車が突っ込んできた。避けた拍子に水たまりを踏んで、靴がずぶ濡れになった。


 (…………)


 気を取り直した。


 コンビニまでの道に、なぜか工事中の看板が出ていた。昨日はなかった。迂回した。迂回した先で、頭上からカラスの大群が飛んできた。十羽じゃない。百羽はいる。悠真の真上だけ、的を絞ったように急降下してきた。


 全力で走って逃げた。


 (なんだ今の。なんだ??????)


 コンビニに飛び込んだ。


 自動ドアが閉まる寸前、後ろで盛大な音がした。振り向くと、向かいのビルの窓から植木鉢が落ちてきて、悠真がいた地点のど真ん中に着地していた。


 「…………」


 悠真はしばらく、その粉砕された植木鉢を眺めた。


 (今、俺があそこにいたら)


 (死んでた)


 気を取り直した。三回目だ。


 レジで財布を出すと、小銭がすべてこぼれた。拾おうとしゃがんだとき、棚が揺れた。揺れ方が、おかしい。地震ではない。風もない。なのに、悠真の頭上の棚だけが、ぐらぐらと揺れている。


 「あの、お客様——」


 店員が声をかけてくる前に、棚の商品が一斉に落ちてきた。


 ペットボトル、缶詰、カップ麺、消臭スプレー。頭と肩と背中に立て続けに当たった。


 「っっ痛!?!?」


 「お客様!? 大丈夫ですか!?」


 「大丈夫じゃないです!!!」


 店員が駆け寄ってくる。


 (おかしい。物理的におかしい。あの棚が揺れる理由がない。風もなく地震もなく、俺の頭上の棚だけが——)


 そのとき、スマートフォンが鳴った。


 見ると、近くの気象情報のプッシュ通知だった。


 *【緊急】中野区周辺に局地的な低気圧が発生。突風・落雷に注意してください*


 (中野区に局地的な低気圧……)


 (今まで"中野区に局地的な低気圧"なんて聞いたことがあるか?)


 (ない)


 (これ、全部ましろのせいだ)


 (俺が離れたせいで不幸が発動している)


 (座敷童の加護が切れると、局地的な低気圧が発生するのか)


 (スケールがおかしいだろ!!!!!!)


 コンビニの外で、急に雷が鳴った。


 空が、見る間に暗くなっていく。


 (帰ろう。今すぐ帰ろう。このまま外にいたら俺が終わる前に中野区が終わる)


 悠真は小銭を床に残したまま、コンビニを飛び出した。


 外は既にひどい風だった。周囲の人間が傘を飛ばされている。看板が倒れる音がする。ゴミ箱が転がっている。なのに不思議なことに、風は悠真の周辺だけが特に強い。


 (なんで俺だけ!?!?)


 走った。全力で走った。


 走りながら悠真は、フリーランスになって五年、これほど本気で走ったことはないと思った。


---


 百鬼荘の方向へ向かって走っていると、前から声がかかった。


 「おにいさん!!!」


 ましろが駆けてきた。白い着物が暴風の中ではためいている。


 ましろが悠真の前に来た瞬間——風が、止まった。


 完全に止まった。


 さっきまで看板を倒し傘を飛ばしていた風が、嘘みたいに凪いだ。空の雲が散り始める。遠くで雷の音がしたが、それも遠ざかっていく。


 周囲の人間が、きょとんとした顔で空を見上げている。


 悠真は荒い息のまま、ましろを見た。


 ましろは悠真を見ていた。


 泣きそうな顔で。でも笑っている。


 「おにいさんに何かあったらって思ったら、止まれなかった」


 ましろが悠真に飛びついてきた。勢いそのままに、悠真はよろめいた。


 (重い、また重い、でも今回は立ってる)


 「ましろさん、外は」


 「おにいさんが大事だから来た」


 (それを言われると強く言えない)


 「……わかりました。一緒に帰りましょう」


 「うん!!!」


 ましろが悠真の手をぎゅっと握った。


 その瞬間——さっきまでの不運が、嘘みたいに消えた。帰り道は何事もなく、石畳も普通に歩けて、空から何かが降ってくることもなかった。


 (効果、覿面すぎる)


---


 百鬼荘の玄関に着くと、澪が立っていた。


 外出から戻ってきたところらしい。コートの裾が少し乱れている。息が少し、乱れている。


 悠真と目が合った。


 ましろと繋いだ手を見た。


 「……」


 「ただいまです」


 「…………おかえり」


 澪の視線が、ましろに向いた。


 「心配して」


 ましろがぱっと顔を上げた。


 「澪さんも来てたの?」


 「……たまたま、同じ方向だっただけ」


 「嘘だ。走ってたじゃん」


 「走ってない」


 「走ってたよ?」


 澪の頬が赤くなった。


 「……走ってない」


 (走ってたんだ……)


 悠真は何も言わなかった。言ったら確実に凍らされると思ったからだ。


 「ありがとうございます」と、小声で言った。


 澪は何も返さず、先に玄関を入っていった。でも耳が、少し赤かった。


---


 夜ごはんの後、ましろが悠真の部屋に来た。


 「一緒にいていい?」


 「……何時までですか」


 「眠くなるまで」


 「眠くなったら自分の部屋で寝てください」


 「うん」


 ましろが部屋に入ってきて、悠真の隣に座った。悠真はPCで作業しながら、時おりましろの相手をする。


 「おにいさん」


 「何ですか」


 「明後日、絶対帰ってくる?」


 「帰ります」


 「約束したもんね」


 「しました」


 ましろが少し考えるような顔をした。


 「おにいさん、お仕事うまくいくといいね」


 「ありがとう」


 「ましろ、ちゃんと応援してる」


 「知ってます」


 「……おにいさんのこと、好きだよ」


 さらっと言った。


 (……さらっと言うな)


 「ありがとうございます」


 「照れてる?」


 「照れてないです」


 「顔赤い」


 「暖房のせいです」


 「暖房つけてないじゃん」


 「……つけようとしてたところです」


 ましろがくすくす笑った。


 それからしばらく、二人で静かにいた。ましろは悠真の肩に頭を乗せて、目を細めている。悠真はコードを書きながら、特にそれを退けなかった。


 (重いが……まあ、いいか)


 気がつくと、ましろの寝息が聞こえていた。


 悠真はそっとPCを置いて、ましろを見た。


 肩の上で、穏やかに眠っている。


 (起こすのも悪いな)


 (でもこのまま朝になったら色々まずい気がする)


 (特に澪さんに見られたら確実に凍る)


 悠真は非常に慎重に、ましろを横にした。布団の端を引っ張って、そっとかけてやる。ましろは目を覚まさなかった。


 悠真は床に座って、壁にもたれた。


 (自分のベッドで寝たいが……まあ、今日くらいは)


 目を閉じた。


 すぐに、眠りに落ちた。


 だから、ましろが小さく呟いた言葉は、聞こえなかった。


 「……おにいさんは、ましろだけのもの、だから」


 声は、ひどく穏やかだった。


 子守唄のような、静かな声で。


---


 問題は、翌朝だった。


 「おにいさんっ、おはよう!!!」


 元気な声で目が覚めた。


 ましろが悠真の真横で、満面の笑みで起きていた。いつの間にか悠真は床から布団に移動していて、ましろと並んで寝ている状態になっていた。


 (え? 俺、布団に移動した覚えないぞ?)


 「ましろ、悠真のこと布団に入れてあげた!」


 「……ありがとう」


 「えへへ。一緒に寝れたね」


 (一緒に寝ていたのか俺たち)


 「ましろさん、これは——」


 そのとき、ドアが開いた。


 澪だった。


 「……おはよう。朝ごはんが」


 言いかけて、止まった。


 布団の中でましろと並んでいる悠真を見た。


 三秒、沈黙があった。


 部屋の温度が、急激に下がった。


 「…………」


 「これは経緯があって」


 「…………」


 「聞いてもらえますか」


 「…………朝ごはん、できてます」


 ドアが、静かに閉まった。


 廊下に、盛大に霜が張る音がした。


 「……澪さん怒ってる?」とましろが首を傾げた。


 (怒ってる。めちゃくちゃ怒ってる。いや怒るのはなぜだ。いや、なぜかはわかるが。わかるが俺は何もしていない。完全に何もしていない。これは事故だ。完全な事故だ)


 「……朝ごはん、行きましょうか」


 「うん!!!」


 ましろが元気よく立ち上がった。


 悠真は立ち上がりながら、今日の謝罪をどう切り出すか考え始めた。


---


 一階のキッチンに降りると、紅がいた。


 テーブルに座って、お茶を飲んでいる。悠真の顔を見て、口角が上がった。


 「おはよ。昨日、ましろちゃんと一緒に寝てたの?」


 「経緯があります」


 「澪、廊下で霜吹き荒れてるけど」


 「知ってます」


 「大変ね」


 「他人事ですね」


 「他人事よ」と紅が笑う。「でも、まあ」


 紅が少し表情を和らげた。


 「澪があれだけ反応するってことは、それだけ気にしてるってことだから」


 「……それは」


 「いいことじゃない?」


 (いいことかどうかは、よくわからないが)


 悠真は黙って椅子を引いた。


 ましろがとてとてとキッチンに入ってきて、悠真の隣に座った。


 しばらくして、澪が降りてきた。


 悠真と目が合った瞬間、そっぽを向いた。


 「……澪さん」


 「……何」


 「昨日は、ましろさんが先に寝てしまって、起こせなくて」


 「……別に、聞いてない」


 「聞いてほしいです」


 澪がこちらを向いた。頬がまだ少し赤い。


 「……ましろが、ちゃんと眠れたなら」


 「よく寝てました」


 「……それなら」


 澪が椅子に座った。前を向いたまま、小さく言った。


 「……よかった」


 (怒ってるのか怒ってないのかわからない人だ)


 (でも——なんか、ほっとした)


 ましろがぱっと顔を輝かせた。


 「みんなで朝ごはん!!!」


 「うるさい」と澪。


 「えへへ」とましろ。


 「にぎやかね」と紅。


 悠真は味噌汁を一口飲んだ。


 思ったより、悪くない朝だった。


---


 その日の夜。


 部屋でPCを開いていると、廊下に冷気がした。


 「……澪さん」


 少し間があった。


 「……今日のこと」


 「はい」


 「……怒ってない」


 「そうですか」


 「ただ」


 また間があった。


 「……次は、教えて」


 「何をですか」


 「ましろが、あなたの部屋にいるとき」


 (それは心配して、ということか)


 「……わかりました」


 「……おやすみ」


 「おやすみなさい」


 足音が遠ざかる。


 悠真はしばらく、ドアのほうを見ていた。


 (次は教えて、か)


 なんとなく、口元が緩んだ。


 緩んだことに気づいて、悠真はPCの画面に向き直った。


 (何を笑ってるんだ、俺)


---


 岬悠真、百鬼荘生活三日目。


 座敷童に膝を占領された。外出したら不運が連発した。一緒に寝ていたところを雪女に目撃された。朝から廊下が凍った。


 それ以外は——


 「……悪くなかったな」


 今日は声に出して言った。


 廊下は静かで、ましろの気配はなく、窓の外でみつきが首を伸ばしている気配もない。


 ただ、ドアの隙間から、かすかな冷気がある。


 澪が、廊下にいる。


 悠真はそれを気づかないふりをしながら、コードの続きを書いた。


 冷気は、しばらくそこにあった。


---


*【第4話「九尾の狐に、振り回されすぎている件」に続く】*

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