第2話「風呂が凍った、責任者出てこい」

 百鬼荘での最初の朝は、悠真の予想よりずっと静かだった。


 目が覚めたのは七時過ぎ。天井が見慣れない。一瞬、どこにいるか忘れた。それから昨日のことを思い出した。


 妖怪のシェアハウス。


 「……夢じゃなかったか」


 ノートPCはスリープ状態で机の上にある。現実だ。間違いなく現実だ。昨日、雪女に息が白くなって、狐に幻術かけられて、座敷童に飛びつかれて、ろくろ首の首だけに覗かれた。全部現実だった。


 「なんで普通に寝れたんだ、俺」


 自分のメンタルが心配になりながら、悠真は立ち上がった。


 まずシャワーだ。


---


 共有の浴室は一階にある。


 脱衣所のドアノブに手をかけた。


 冷たい。


 異様に冷たい。


 (嫌な予感がする)


 ゆっくりドアを開けた。


 浴室が、完全に凍っていた。


 壁が凍っていた。床が凍っていた。シャワーヘッドに氷柱が下がっていた。浴槽は完全に氷の塊で、表面に薄く雪まで積もっている。白い息が出た。体感マイナス十度。


 「…………」


 悠真はドアを静かに閉めた。


 (落ち着け。落ち着いて考えよう。俺は昨日、雪女と同居することになった。雪女が浴室を使えば、こうなることは論理的に導き出せた。つまりこれは想定の範囲内だ)


 (想定の範囲内じゃないが??????????)


 踵を返した。


---


 二〇二号室のドアを、努めて平静にノックした。


 しばらく間があって、ドアが開く。


 澪が出てきた。黒髪が少し乱れている。寝起き顔だ。


 「……何」


 「風呂が凍ってます」


 「知ってる」


 (知ってるのか)


 「あなたがやったんですか」


 「……昨日、少し考え事をしてた」


 「浴室で?」


 「浴槽に浸かってた」


 「それで凍らせたんですか」


 澪が少し視線を逸らした。頬がわずかに赤い。


 「……感情が、少し、揺れた」


 「何を考えてたんですか」


 「……言わない」


 (言わないんかい)


 「溶かせますか」


 「……時間がかかる」


 「どのくらい」


 「半日、くらい」


 (半日!?!?!?)


 「……わかりました。昼までに頼みます」


 「……善処する」


 「善処じゃなくて確約をください」


 「……する」


 ドアが閉まった。


 悠真は廊下に立ち、静かに天井を仰いだ。


 (シャワーどうするんだ。朝から頭洗えないのか。今日リモート会議あるのに。ていうか浴室が凍るって普通じゃないだろ。普通じゃない状況に普通にツッコんでる俺も普通じゃないな。何が普通なんだ)


 「……まあ、いいか」


 声に出したら、少し落ち着いた。


 嘘だ。全然落ち着いていない。


---


 一階のキッチンに降りると、紅がいた。


 朝から完璧な格好をしている。薄い化粧、きれいに整えた髪、体の線が出る部屋着。朝七時半にこの完成度でいられるのは、もはや人間じゃないからなのかもしれない。実際人間じゃないが。


 「おはよ」


 紅がこちらを見ずに言った。コーヒーメーカーが動いている。


 「おはようございます」


 「顔色悪い。シャワー浴びた?」


 「浴室が凍ってたので浴びられなかったです」


 「ああ」紅が振り向いた。「澪がまたやったの」


 「"また"?」


 「よくあること」


 (よくあること!!!)


 「……毎回凍るんですか」


 「感情が乱れると止まらなくなるのよ、あの子。昨日、あなたが来たから珍しく動揺したんじゃない?」


 「……俺のせいですか」


 「半分くらいは」


 (半分は俺のせいなのか)


 紅がマグカップを二つ出した。コーヒーを注いで、一つを差し出してくる。


 「はい」


 「……ありがとうございます」


 「フリーランスって家で仕事するんでしょ。だったら一日中ここにいるわけじゃない」


 「基本はそうですね」


 「へぇ」


 紅がテーブルの悠真の正面に座った。距離が近い。テーブルが狭いのと、紅が意図的に詰めてくるのと、両方だ。


 「それ、便利ね」


 「何がですか」


 「いつでもいるってこと」


 「……何に使う気ですか」


 紅がにっこりと笑った。答えなかった。


 (この人、絶対ろくなことを考えていない)


---


 午前中は作業した。


 しかし集中できなかった。


 理由は単純で、ましろがずっと膝の上にいるからだ。


 「ましろさん」


 「なに?」


 「仕事中です」


 「うん」


 「邪魔じゃないですか」


 「邪魔じゃないよ、あたしは」


 (俺の話をしている)


 ましろは満足そうに悠真のモニターを眺めている。コードが流れるたびに「わあ」とか「すごい」とか言う。それは悪くないのだが、時おり「おにいさん」と呼びながら頭を肩に乗せてくるので、集中が途切れる。


 「ましろさん」


 「なに?」


 「少しだけ離れてもらえますか」


 「やだ」


 「仕事が」


 「そばにいたい」


 「わかりますが」


 「やだ」


 (交渉の余地がない)


 諦めてコードを書いていると、突然エラーが消えた。昨日から詰まっていた箇所だ。何もしていないのに、通っている。


 「……?」


 「あ」ましろが小さく言った。「おにいさんにいいことあれって思ったら、なんか動いた」


 「幸運付与ですか」


 「おにいさんのためだから」


 (座敷童の加護が案件解決に使われている……これはいいのか……? いや助かったからいいか)


 「……ありがとう」


 「えへへ」


 ましろが機嫌よさそうに足をぶらぶらさせた。


 悠真はそっと「幸運付与 座敷童 仕組み」と検索した。何もヒットしなかった。


---


 昼前のことだった。


 そろそろ浴室が使えるか確認しようと、悠真が一階へ向かいかけたとき——廊下の角を曲がったところで、正面から人が来た。


 ぶつかる寸前で止まった。


 澪だった。


 ちょうど浴室から出てきたところらしく、黒髪が濡れていた。肩も、首筋も、わずかに湿っている。バスタオルを体に巻いた状態で、手に着替えを持っていた。


 二人の距離が、近い。


 廊下が狭いせいもある。ほとんど腕が触れそうな距離だ。


 「…………」


 澪が固まった。


 悠真も固まった。


 (目を、どこにやればいいんだ)


 (天井か。天井を見るべきか。でも突然天井を見たら挙動不審だろ。じゃあ床か。床もおかしい。正面は——正面は絶対に駄目だ)


 「…………っ」


 澪の頬が、見る間に赤くなった。


 それと同時に、廊下の温度が急激に下がった。


 「み、見るな」


 「見てないです」


 「嘘。見てた」


 「一瞬だけです」


 「一瞬でも駄目っ」


 ばん、と着替えで悠真の顔を叩いた。痛くはないが、柔らかい布が顔全体を覆った。たぶん澪のシャツだ。


 「目、閉じろ」


 「閉じます」


 「絶対に開けるな」


 「開けません」


 足音が遠ざかる。二〇二号室のドアが、勢いよく閉まった。


 悠真は顔から着替えを外して、ゆっくりと息を吐いた。


 廊下に、うっすらと霜が張っている。


 (……怒らせた。確実に怒らせた)


 (でも俺、何もしてないよな? 廊下を歩いただけだよな? これは完全に不可抗力だよな?)


 どう考えても不可抗力だった。


 それはそれとして、濡れた黒髪が頭から離れなかった。


 (…………忘れよう)


---


 昼過ぎに、紅が声をかけてきた。


 「ねえ、中野行くんだけど、荷物持ちしてくれない?」


 「今日リモート会議が」


 「何時から?」


 「……三時から」


 「今一時。余裕じゃない」


 (余裕かどうかを決めるのは俺では)


 「行かないと何かありますか」


 「別に」紅がにっこりした。「ただ、次にあなたが仕事で詰まったとき、助けてあげようと思ってたんだけど」


 「……何ができるんですか」


 「幸運を引き寄せることくらいはできるわよ。九尾だもの」


 (九尾の幸運付与……それは欲しい……フリーランスに幸運は死活問題……)


 「……わかりました。行きます」


 「決断早い」


 「フリーランスは運が大事なので」


 紅が少し笑った。


 玄関へ向かおうとしたとき、廊下にましろが立っていた。


 悠真と紅を、交互に見ている。


 「おにいさん、お出かけ?」


 「少しだけ。すぐ戻ります」


 「……紅さんと?」


 「荷物持ちを頼まれて」


 ましろは、にこっと笑った。


 いつもの笑顔だ。屈託がなくて、まっすぐで、かわいい笑顔。


 ただ——なぜか悠真は、一瞬だけ、その笑顔から目が離せなかった。


 「いってらっしゃい、おにいさん」


 「……行ってきます」


 (なんだろう。何も、おかしくないはずなのに)


 気のせいだと思いながら、悠真は玄関を出た。


---


 商店街を並んで歩いていると、後ろから声がかかった。


 「悠真くん?」


 振り向くと、以前の案件で一緒だったエンジニアの菅野が立っている。


 「あ、菅野さん。久しぶりです」


 「久しぶり! このへん引っ越してきたの? て、か——」


 菅野の視線が、悠真の隣に止まった。


 当然だ。紅がいるから。


 「……この人は?」


 悠真が答えるより一瞬早く、紅の手が悠真の腕に絡みついた。


 「彼女です」


 (は?????????)


 菅野が目を見開いた。


 「え、ほんとに!? 悠真くんに彼女!?」


 「失礼な驚き方ですね」


 (いや今それより!!!)


 「ご近所に越してきて、それからご縁があって」と紅がにっこり続ける。完璧な笑顔だ。嘘が一ミリも滲んでいない。プロだ。何のプロだ。


 「いつから!?」


 「最近ですよ」


 「すごいな……めちゃくちゃ美人じゃないですか……」


 「ありがとうございます」


 (俺の意見は誰も聞かないのか)


 悠真はそっと紅に耳打ちした。


 「何をしてるんですか」


 「面白そうだったから」と紅が小声で返す。口元だけ笑っている。


 それだけ言って、紅は悠真の腕にもう少し体重を預けてきた。肩が触れる。横顔が近い。いい匂いがした。


 (近い近い近い近い)


 「後で絶対説明してもらいます」


 「楽しみにしてて」と紅がまた笑う。


 (楽しみにするか!!!!!!)


 「今度飲もうよ二人で!」と菅野が言う。


 「またご連絡します」


 「絶対してね! じゃあ!」


 菅野が去った。


 しばらく沈黙があった。


 紅の手は、まだ腕に絡んでいる。体もまだ寄っている。


 「……もう行きましたよ」


 「知ってる」


 「なんで離さないんですか」


 「楽だから」と紅が言う。それから、ちらりと上目遣いで見てきた。「……嫌?」


 (嫌か嫌じゃないかで言えば——)


 「……会議に遅れたくないので」


 「答えになってない」


 「早く帰りましょう」


 紅がくすっと笑って、それから腕を離した。


 (答えられるか、あんな顔で聞いてくる相手に)


---


 百鬼荘に帰ると、玄関で澪と鉢合わせた。


 ちょうど外出するところらしく、コートを着ている。その目が悠真に向いて、紅に向いて、二人の距離に向いた。


 さっきまで腕が触れていた距離を、なぜか思い出した。


 「…………」


 (やばい)


 「た、ただいま」


 澪は何も言わなかった。


 ただ、悠真の隣を通り過ぎる瞬間、空気が急激に冷えた。耳が痛い。吐く息が白い。午前中の廊下の件もまだ引きずっているのかもしれない。


 玄関のドアが、静かに閉まった。


 床に、薄く霜が張っている。


 「……怒ってる」と紅が言った。楽しそうに。


 「完全に俺のせいじゃないですか」


 「午前中も何かあったの?」


 「……何もないです」


 「顔に出てる」


 「出てないです」


 「"出てない"って言いながら耳まで赤い人間は初めて見た」


 (耳まで赤くなってたのか俺)


 「……三時から会議なので」


 「逃げるの?」


 「仕事です」


 悠真は足早に二階へ上がった。


 背後で紅が笑う声がした。


 「笑うな)


 二階へ上がろうとすると、部屋の前にましろが座っていた。


 膝を抱えて、じっと待っている。


 悠真に気づいて、ぱっと顔を上げた。


 「おかえり、おにいさん」


 「……ただいま。ずっとここにいたんですか」


 「うん」


 「部屋で待ってればよかったのに」


 「ここがよかった」


 ましろが立ち上がって、悠真の袖をつかんだ。


 「……楽しかった?」


 「楽しいというより、疲れました」


 「紅さんと?」


 「まあ、色々と」


 ましろがしばらく、悠真の顔を見上げていた。


 「……そっか」


 それだけ言って、袖を離した。


 いつもの笑顔だった。


 でも悠真にはなんとなく、さっきの「いってらっしゃい」と同じ感じがした。


 笑顔なのに、どこか——温度が、ない。


 (気のせいか)


 「……会議があるので、部屋に戻ります」


 「うん。頑張ってね、おにいさん」


 (気のせい、だよな)


---


 夕方、部屋で作業をしていると、窓の外に気配がした。


 二階だ。窓の外に人が来るはずがない。


 恐る恐るカーテンを開けた。


 首があった。


 「うわっ」


 思わず椅子ごと後ろに転がった。


 窓の外に、みつきの顔が浮いている。体は地上にあるらしく、首だけが二階まで伸びてきていた。


 「あ、びっくりした?」


 「びっくりしました!!! 普通にびっくりしました!!!」


 「ごめんごめん。でもドアより窓のほうが近かったから」


 「近い遠い以前の問題があります!!!」


 みつきがけろっとした顔で笑う。


 「悠真くんって呼んでいい? 昨日ちゃんと話せなかったから」


 「……どうぞ」


 「やった。今日ね、全部見てたよ」


 「……何をですか」


 「午前中の廊下のこと」


 (全部見てたのか!!!!)


 「覗いてたんですか!?」


 「廊下の天井まで首伸ばしてたら偶然見えた」


 「偶然じゃないですよね!?」


 「半分くらいは偶然」


 「半分は覗いてたってことじゃないですか!?」


 みつきがにやにやしながら首を揺らした。


 「澪さん、すごい顔してたよ。真っ赤で」


 「……俺は悪くないです」


 「わかってる。でも澪さんにそれ言えないよね」


 「言えないです」


 「あと商店街のことも見た」


 (商店街まで!?!?)


 「首を商店街まで伸ばしてたんですか!?」


 「風が気持ちよかったから散歩してた」


 「首だけで散歩するな!!!」


 「紅さんに腕組まれてたね」みつきの目が輝く。「どうだった? ドキッとした?」


 「してないです」


 「嘘だ。耳赤かったじゃん」


 「……それは寒かったからです」


 「九月に?」


 「……」


 「で、澪さんと紅さん、どっちが好き?」


 (急に核心ついてくるな!!!!)


 「どちらでもないです」


 「絶対嘘」


 「本当です」


 「じゃあなんで澪さんの濡れた髪のことまだ考えてるの」


 (なんで知ってるんだ!!!!!)


 「……考えてないです」


 「顔に出てた」


 「出てないです!!!」


 みつきがくすくす笑いながら、首をするすると下ろしていった。数秒後、廊下からドアのノック音がした。


 「今度はちゃんとドアから来たよ!」


 「……どうぞ」


 ドアが開いて、みつきが胴体つきで入ってきた。手にクッキーの袋を持っている。


 「一緒に食べよ。色々あって疲れたでしょ」


 「……まあ」


 「正直じゃない」


 「……正直に言うと、かなり疲れました」


 みつきがにっこりした。


 「それが正解。無理に平気なふりしなくていいよ」


 差し出されたクッキーを口に入れると、甘かった。


---


 深夜。


 ようやく会議も終わって、悠真はコードを書いていた。


 今日一日を思い返す。


 凍った浴室。廊下でばったり。紅の横顔。澪の霜。みつきの首。


 (こんな生活が続くのか)


 ドアの下の隙間から、冷気が漏れてくる。


 昨日と同じだ。


 「……澪さん」


 返事はない。


 「今日は、すみませんでした」


 沈黙。


 「廊下の件は、本当に不可抗力です」


 また沈黙。


 でも。


 冷気が、少しだけ和らいだ気がした。


 「……わかってる」


 小さな声だった。


 「…………怒ってない」


 「そうですか」


 「……おやすみ」


 「おやすみなさい」


 足音が遠ざかって、二〇二号室のドアが静かに閉まった。


 悠真はしばらく、ドアのほうを見ていた。


 (怒ってないって言いながら、玄関に霜を張った人が)


 (でも——"わかってる"って、言ってくれたな)


 声には出さなかった。


 出したら、また凍らされそうだったから。


---


 岬悠真、百鬼荘生活二日目。


 風呂は凍った。廊下でばったりした。偽彼女にされた。玄関に霜が張った。窓から首に覗かれた。椅子ごと転倒した。


 それ以外は——まあ、悪くなかった。


 たぶん。


---


*【第3話「座敷童が離れたら、世界が終わりかけた件」に続く】*

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る