第103話 物見湯槽開放、夜番と狙撃帰りが“塔の上の湯”に並ぶ

 塔の上の湯は、下の湯より一枚高い。


 登って、

 冷えて、

 それでも降りる前にもう一度人へ戻れるからだ。


 王冠塔第一正式便の温食箱で、薄粥の列は少しだけ変わった。


 夜番の目に色が戻る。


 索道番の肩が少し下がる。


 補修班が、椀の底を舐めるみたいに最後まで食う。


 悪くない。


 かなりではなく、素直に悪くない変わり方だった。


 だが、腹が戻っただけでは足りない。


 塔は縦だ。


 階段の段数ぶんだけ、冷えが体へ残る。


 特に、物見階から戻るやつはそうだ。



「王冠供給線主」


「何です」


「飯はわかりました」



 ロルフが、空になった椀を見ながら言う。



「ええ」


「次は湯です」


「そのつもりです」



 痩せた夜番頭の喉が、そこで一度だけ鳴った。


 いい顔だ。


 欲しい物が、そのまま顔へ出る顔だ。



「代行監」



 俺はラザルへ向いた。



「物見湯槽の場所は」


「上だ」



 王冠塔代行監は、首元だけやけに温かそうな毛皮を直しながら答えた。



「だが閉めている」


「暖房石がもったいない」


「夜番は階段で下へ降りて、下の湯を使え」



 好きな敵だ。


 何を惜しんで、誰を後ろへ回しているかが一言でわかる。



「昇降機は」



 俺が聞くと、ラザルは鼻で笑った。



「上層用だ」


「近習と書類箱だけだ」



 上出来だ。


 欲しかった答えが、きれいに二つ出た。


 物見湯槽。


 昇降機。


 次の回で取る物が、そのまま口から出たのだから十分だ。



「王冠供給線主」


 ノイルが、小さく言う。


「だいぶ嫌ですね」


「そうですね」


「でも、かなり気持ちよくなりそうです」


「見ればわかります」



 若い親衛隊長のそういう本音は悪くない。


 だいぶ悪くない。


 《野戦工房》を起こすまでもなく、まずは箱を開ける。


 王冠塔第一正式便起動箱。


 その中から、昇降機券の綴りを抜く。


 物見湯槽鍵も。


 夜番寝台札も。


 高所外套支給札も、そのまま並べる。


 広場の薄粥列から、目が一斉に動いた。


 いい。


 見える位置へ置くと、欲しがり方が早くなる。



「聞け」



 俺は箱の前で声を張った。



「今日から、物見湯槽は夜番優先で開ける」


「昇降機も、まず夜番と狙撃帰りだ」


「その次に、荷揚げと索道番」



 一拍置く。



「上の顔色は、その後だ」



 広場の空気が、目に見えて変わる。


 ロルフが、思わずみたいに言った。



「……本気か」



「見ればわかります」


 俺は昇降機券を一枚切った。


 王冠塔夜番優先昇降機券。


 木札だ。


 だが、塔の中ではこういう札がとても高い。


 歩かなくていい高さが買えるからだ。



 若い夜番が、ほとんど反射で一歩前へ出た。



「それ、俺らのか」


「今日のところは」


「……すごいな」



 いい。


 その顔なら十分だ。



 ラザルは当然、嫌そうな顔をした。



「勝手に決めるな」


「塔は上から回す」



「違います」



 俺は答えた。



「塔は、まず一番風の強いところを温めた方が早く回る」



「机の上の理屈だ」


「いいえ」


「夜番の肩の理屈です」



 好きだ。


 こういう返しは好きだ。



 昇降機の場所は、塔の芯にあった。


 鎖だ。


 太い。


 だが、止め具は古い。


 上層専用札がぶら下がっている。


 その横に、小さく焼いてある。



 昇降機券

 近習・士官優先

 夜番不可



 良い札だ。


 とても良い。


 どこを切れば気持ちいいかが、一目でわかる。



「兵站区主」


 ノイルが、小さく言う。


「これ、後で外させるやつですね」


「そのうちです」


「好きです」


「どうぞ」



 王冠塔昇降機券を差し込む。


 次に、昇降機運行板を開く。


 朝一。


 夕一。


 物見階往復。


 夜番優先。


 ちゃんと書いてある。


 元から機能はあったのだ。


 止めていただけだ。



 鎖が鳴る。


 低い。


 だが、死んでいない。


 いい音だ。


 《野戦工房》を流す。


 歯車の噛みを少しだけ起こす。


 止め具をずらす。


 油路を一つ開く。


 昇降機籠が、ようやく半歩だけ下りてきた。



「来ましたね」



「ええ」



 ノイルの顔が、露骨に明るくなる。



「王冠供給線主」


「何です」


「俺、昇降機ってかなり好きかもしれません」


「階段が嫌いなだけでは」


「それもあります」



 悪くない。


 こういう時の率直さは悪くない。


 籠へ最初に乗せたのは、夜番四。


 その次に、湯路用の暖房石箱二。


 浴布束一。


 それから物見湯槽鍵を持つ俺たちだ。


 高所外套支給札も切る。


 ロルフが、受け取った白灰の外套を見て少しだけ黙った。



「今ですか」


「今です」


「湯より先に?」


「湯のあとで濡れた背に冷えが戻ると高くつくので」



 夜番頭は、少しだけ鼻で笑った。



「嫌な供給線主だ」


「知っています」



 物見階は、本当に風が強かった。


 狭い。


 高い。


 細い窓が多い。


 外へ向いた小さな狙撃窓もある。


 その脇に、石で囲った小槽が一つ。


 物見湯槽だ。


 広くはない。


 だが、上層の上等な体を温めるには十分な大きさをしている。


 今までそこだけは、風の入らない顔で作られていた。


 好きじゃない。


 だが、今日は好きなように使う。



 湯路はまだ生きていた。


 石槽の底が、わずかに温かい。


 物見湯槽鍵を入れる。


 かちり。


 弁が半歩だけ開く。


 その先へ、さっきの暖房石を入れる。


 《野戦工房》で湯路の噛みを起こす。


 ごぼり、と音。


 細い蒸気。


 それから、石槽へじわりと熱が戻る。


 いい。


 塔の上で湯が生きる音は、やっぱり気分がいい。



「……あったかい」



 若い夜番の一人が、手をかざしながら言う。



「そうですね」


「これ、俺らが入っていいのか」



「今日は夜番優先です」



 ロルフが、その時だけ少しだけ黙った。


 そして、小さく言う。



「三日ぶりだ」


「何がです」


「上で温まるの」



 短い。


 だが、強い。


 そういう一言は、塔ではよく効く。



「先に入れ」



 俺は言った。



「見張り交代組からです」


「その次に、狙撃帰り」



 夜番たちが、本当に遠慮なく動いた。


 それがいい。


 こういう日は、遠慮しない方が気持ちいい。



 そこへ、狙撃窓の向こうから足音がした。


 細い。


 急いでいる。


 だが、重い。


 戻ってきたやつの足音だ。


 狙撃帰りだった。


 若い兵が二人。


 一人は頬を切っている。


 もう一人は、指が白い。


 冷えだ。



「……何だこれ」



 頬に薄い傷のある方が、湯槽を見て止まる。



「風呂です」


 俺が答える。



「塔の上で?」


「そのための鍵なので」



 もう一人の、指の白い若い兵が本気で呆れた顔になった。



「すごいな……」


「見ればわかります」



 ロルフが、その二人へ短く言う。



「狙撃帰り優先だ」


「入れ」



 若い兵たちは、本気で半歩だけためらった。


 たぶん、今までそんな順番がなかったのだろう。


 だからこそ、効く。



 ノイルが、そこへ高所外套支給札を差し出した。



「湯の後、これです」


「夜番帰りと狙撃帰り優先」


「あと、夜番寝台札も」



 頬に傷のある方が、目を丸くする。



「寝台まで?」


「見ればわかります」



 いい。


 かなりいい。


 欲しい物を、一度に見せた時の顔はいつだって好きだ。



 下では、すでに次の客が動いていた。


 上の顔だ。


 近習。


 侍女。


 帳場の若い士官補。


 湯槽が開いた匂いに、すぐ気づいたらしい。



「物見湯槽札は?」



 階下から声が飛ぶ。


 早い。


 だが、それでいい。


 こういう時の高い客は、良い色をつける。



「後です」



 ミレイユが、上がってくるなり笑った。



「夜番が終わるまで待ってください」


「その後なら、銀貨二枚で切ります」



「高い」



 上から声が返る。


 だが、嫌そうじゃない。


 取る顔だ。



 商人女は振り返って、小さく言う。



「兵站区主」


「何です」


「かなりいいです」


「どのくらいです」


「塔の上の湯って言うだけで、値が乗ります」



 でしょうね。


 その読みはかなり当たっている。


 物見湯槽は、やはり響きがいい。



 夜番と狙撃帰りが湯に入ったあと、表情が目に見えて変わる。


 頬の傷のある若い兵は、湯から上がるとまず肩を回した。


 白かった指のやつは、指を握って開いてみせる。



「……戻る」



 小さく言った。


 それだけで十分だ。



「王冠供給線主」



 ノイルが、物見湯槽札の束を持ちながら言う。



「これ、かなり好きです」


「何がです」


「上で冷えてたやつが、上で温まってそのまま寝台に行ける流れ」


「良い流れですね」


「めっちゃです」



 若い親衛隊長のその感想は、かなり正しい。


 縦の拠点は、こういう流れが見えると本当に気持ちいい。



 そこで終わらせない。


 階下から高い客用の札も切る。


 物見湯槽札 一人 銀貨二枚。

 浴後寝台札 一人 銀貨一枚。


 夜番と狙撃帰り優先のあとで、上の顔にも売る。


 それでいい。


 まず必要な方へ回し、そのあと高く売る。


 いつもの形だ。


 強い形だ。



「王冠供給線主」


 ミレイユが、もう帳簿に書き込みながら言う。


「上の客、かなり早いです」


「どのくらいです」


「待ってる間に銀貨を握ってます」


「取る顔ですね」


「ええ」


 その時だった。


 狙撃帰りの一人が、湯槽から上がった瞬間に少しだけよろけた。


 頬傷の若い兵だ。


 ロルフが、すぐに肩を支える。



「おい」



 若い兵は、小さく首を振った。



「大丈夫だ」



 だが、大丈夫な顔ではない。


 白い。


 しかも、肩口の外套が妙に濡れている。


 血だ。


 遅れて気づいた。


 狙撃窓の寒さで締まっていただけで、ちゃんと裂けていたのだ。



「兵站区主」



 ノイルが、少しだけ声を落とす。



「これ、下ろしますか」



「間に合いますか」


 俺が聞くと、ロルフが即答した。



「遅い」



 一拍置く。



「階段で下ろしてる間に、塔はまた冷える」



 そこだ。


 それが欲しかった。



 ロルフは、少しだけ歯を食いしばって続けた。



「中腹医療室がある」


「でも、今は近習の物置だ」



 ラザルの顔が、そこで一瞬だけ動く。



「勝手なことを言うな」



「事実でしょう」



 俺は答えた。



「塔の中で怪我したやつを、毎回下まで落としてるんですか」



「そうだ」



 ラザルは吐き捨てる。



「寝台は上から埋まる」



 いい。


 かなりいい。


 次が見えた。


 塔の中腹医療室。


 物置にされた寝台。


 そして、いま湯槽の前でよろけた狙撃帰り。


 十分すぎる。



 だったら次は、


 負傷兵が“降ろされる前に”中腹で寝られるように、


 塔医療室をこじ開ければいい。

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