第99話 離宮地下機関線決戦、黒金便車と王冠通行印を奪い返す
通行印は、札のままだと半分軽い。
黒金便車と一緒に走り出した時に、
ようやく本当の重さになる。
だから、逃げられた直後が一番腹に悪い。
王家専用札が机へ落ちた、その直後だった。
リンネが青い顔で駆け戻り、
王冠塔行き通行印が一つ消えたと叫んだ。
しかも、黒金便車まで一台いない。
悪くない。
状況としては最悪だ。
だが、次の当たりとしてはかなり良かった。
「兵站区主」
ノイルが、白毛皮の親衛隊長外套を着たまま息を切らしている。
「何です」
「今の、かなりやばいですよね」
「ええ」
「王冠塔行きが逃げるってことですよね」
「そのようです」
「じゃあ、追いますよね」
「もちろん」
若い親衛隊長の目が、そこで一気に熱を持つ。
湯札や銀貨の熱じゃない。
喉元が見えた時の熱だ。
悪くない。
かなり悪くない。
だが、上を止めるわけにはいかない。
「ミレイユ」
「はい」
「列は続けます」
「好きです」
「家族便」
「追給」
「離宮残湯」
「継続診札」
「全部止めない」
「もちろんです」
商人女は、もう帳簿箱を抱え直していた。
「こういう時に机が止まると、向こうが喜ぶので」
「その通りです」
「その代わり」
「何です」
「黒金便車は持って帰ってきてください」
「好きでしょう」
「大好きです」
セレスにも向く。
「継続診札はそのまま」
「母と妹の朝温食札も切らさないでください」
離宮侍医長は、白い診札束を指で揃えながら短く言う。
「わかってる」
「上を空にしないで」
「そのために残る」
悪くない。
そういう女は助かる。
ハルバードが、最後に机を一度だけ見た。
家族便札。
離宮温食札。
追給札。
どれもまだ動いている。
「列は続けろ」
低い声だった。
「主線は、俺たちで取り返す」
十分だ。
それだけで足りた。
降りる。
俺。
セレナ。
ノイル。
ハルバード。
リンネ。
五人。
ちょうどいい。
王都の石の下へ沈む昇降井は、
昨日より少しだけ速く感じた。
気のせいじゃない。
下で、本当に車輪が動いているからだ。
零号黒便室の前を抜ける。
薬香湯の湯気が薄く残る通路をさらに奥へ。
今日は、もう貴賓浴場も医療棟も見ない。
その先だ。
王家だけの黒金線が走る、もっと乾いた場所へ向かう。
「兵站区主」
リンネが走りながら言う。
「主線は三つに分かれる」
「離宮北館」
「王都南三区中継」
「北方本戦線王冠塔」
一拍置く。
「王冠塔行き通行印があれば、三つ目だけは通る」
「なければ」
俺が聞く。
「途中の分岐で止まる」
「だから、持ち出されたら厄介」
「厄介ですね」
「かなり」
黒便番の女の声は速かった。
良い声だ。
仕組みを知っているやつの短い説明は、やはり強い。
主線通路は、零号よりさらに狭かった。
中央に黒金の細い鉄路が二本。
左右に保守歩廊。
壁の中には湯路と蒸気管。
だから、空気が変に温い。
その上で、車輪の音だけが乾いてよく響く。
嫌な通路だ。
だが、好きな形をしている。
狭い。
分岐がある。
重い物が走る。
つまり、止めやすい。
少し先で、リンネが壁の札を指した。
第一分岐
北館
南区
王冠塔
その下に、切替棒。
さらに、主線制動輪。
「ここを越えられると?」
「主枢です」
リンネが即答する。
「王冠塔へそのまま抜ける」
「黒金便車も、通行印も、戻しにくくなる」
「十分です」
そこで、初めて車輪の音が大きくなった。
黒金便車だ。
低い。
重い。
だが、音が少ない。
良い便車ほど、やはり嫌に静かだ。
曲がりの向こうに、灯りが見えた。
黒金便車。
王冠護衛長ケルム・グライフ。
その後ろに護衛四。
さらに、便車の上には黒い小箱が二つ。
印箱だ。
ひどく良くない。
「止まれ」
ケルムが、先に言った。
「これ以上近づくな」
王冠護衛長は、黒金の胸甲を着たままだった。
狭い地下でその格好は少し間抜けだ。
だが、剣は長い。
腰には、黒金の札輪まで下がっている。
あれだ。
王冠塔行き通行印。
「返してください」
俺が言うと、護衛長は鼻で笑った。
「返す?」
「王冠の線をか?」
一拍置く。
「下に開かせるくらいなら、塔へ埋める」
好きじゃない理屈だ。
だが、わかりやすい。
なら、止めやすい。
「評議官」
俺は低く言う。
「切替棒を取ります」
「わかってる」
ハルバードが短く返した。
「セレナ」
「ああ」
副司令はすでに槍を構えていた。
狭い地下で、その長さは少し邪魔だ。
だが、その分だけ届く。
こういう通路では強い。
《野戦工房》を流す。
【《野戦工房》起動】
【資材を認識します】
【保守台車 一】
【切替爪 二】
【車止め鎖 一】
【蒸気弁 三】
【黒金便車 一】
【制動輪 一】
【構築可能】
【――分岐転換爪】
【――車止め楔】
【――蒸気開放鉤】
【――連結外し鎖】
いい。
欲しい物しかない。
特に、蒸気弁が三つあるのがいい。
温い通路は、だいたい白くできる。
「ノイル」
「はい」
「切替棒、右の保守歩廊です」
「俺が?」
「軽いので」
「……好きじゃないですけど、わかります!」
若い親衛隊長は、そこで一度だけ息を吸ってから頷いた。
「生きて戻ったら銀貨二枚です」
「やります!」
早い。
やはり銀貨は強い。
「リンネ」
「はい」
「蒸気弁、左と奥」
「わかった」
「白くしてください」
「好きです」
「そういう使い方」
良い女だ。
仕事が早い。
「行け」
ハルバードが短く言った。
それで十分だった。
まずリンネが走る。
黒便番の女は、壁際の蒸気弁へ飛びつくように手をかけた。
次にノイル。
白毛皮を翻しながら、右の保守歩廊へ消える。
セレナは正面。
俺は主線の制動輪へ。
分担は終わっている。
ケルムが怒鳴った。
「止めろ!」
護衛四人が前へ出る。
だが遅い。
リンネが蒸気弁を開いた。
ごぼり、と嫌な音。
次の瞬間、白い蒸気が通路へ一気に噴き出した。
視界が消える。
良い蒸気だ。
かなり良い。
その白の中へ、セレナが飛び込む。
槍が一閃する。
先頭の護衛の剣が石床へ落ちる。
二人目は肩を裂かれて壁へ叩きつけられる。
狭い。
蒸気がある。
こうなると、長い槍は本当に強い。
俺は制動輪の下へしゃがみ込む。
古い鉄止めを外す。
《野戦工房》で、分岐転換爪へ噛み替える。
歯車が一枚だけずれる。
これで、主線をまっすぐではなく、保守側の待避線へ逃がせる。
ケルムが気づいた。
「お前……!」
護衛長が、黒金便車の前へ自分で出た。
大きい。
だが、足場が悪い。
蒸気の中で、長い剣を抜くのは少し遅い。
その時、右の蒸気の向こうからノイルの声が飛んだ。
「兵站区主!」
「何です!」
「切替棒、ありました!」
「引いてください!」
「今ですか!」
「今です!」
若い親衛隊長は、ほんの一拍だけ迷った声を出した。
それでも、引く。
ごん、と重い音。
主線の先で、切替棒が噛んだ。
いい。
これで黒金便車は、王冠塔直通ではなく、保守待避線へ入る。
だが、ケルムも気づいた。
護衛長は便車へ飛び乗り、腰の札輪を引き抜こうとする。
通行印だけ持って走る気だ。
そう来ると思った。
「返してください」
俺は制動輪の脇から、連結外し鎖を引いた。
黒金便車の前輪近くで、連結金具が外れる。
便車の鼻先がわずかに横へ流れた。
その一瞬、ケルムの足元がずれた。
セレナの槍が、そこへ横から入る。
護衛長の脇腹を浅く裂く。
深くはない。
だが、十分だ。
ケルムが体勢を崩す。
「っ……!」
そこへ、俺は便車の側板へ手をついた。
黒金の板だ。
上等だ。
だが、《野戦工房》が噛めないほどではない。
【《野戦工房》起動】
【構築対象を再編します】
便車の側板の一部が、短い受け板に変わる。
護衛長がそこへ足をかけた瞬間、板が半歩だけ起きた。
黒金の扉みたいにだ。
ケルムの身体が、ほんの少しだけ浮く。
そのまま、俺は肩でぶつかった。
狭い地下で、大きい身体はその瞬間だけ鈍い。
護衛長の腰から、札輪が飛んだ。
王冠塔行き通行印が、石床の上を滑る。
まずい。
蒸気と油で、止まらない。
「ノイル!」
若い親衛隊長は、もう走っていた。
白毛皮の裾を石床へこすりながら、通行印の先へ飛び込む。
手を伸ばす。
届く。
がちり、と音がして、札輪が止まった。
「取りました!」
少しだけ裏返った声。
だが、十分すぎる。
「生きてますか!」
「熱いですけど生きてます!」
「上出来です!」
若い親衛隊長のそういう返しは、本当に悪くない。
その一拍で、護衛二人がまだ突っ込んできた。
だが、蒸気の中で足が遅い。
セレナが一本。
俺が便車の扉を蹴り開けて、もう一本。
黒金の扉が、護衛の膝へまともに入る。
男が折れる。
そこへリンネが、保守台車の車止め鎖を引き出して足首へ巻いた。
転ぶ。
終わりだ。
ケルムだけが、まだ立っていた。
脇腹から血。
それでも、剣を手放さない。
門番の顔だ。
嫌いじゃない。
だが、今日は邪魔だ。
「王冠の線は」
護衛長が低く言う。
「王冠へ返す」
「遅いです」
俺は答えた。
「上で、もう列ができているので」
ケルムが最後に踏み込む。
速い。
だが、直線だ。
セレナが槍で正面をずらす。
俺は便車の制動棒を引き抜き、それを短い鉄棍に組み替える。
ベリクの鉄鉤ほどじゃない。
だが十分だ。
護衛長の手首へ打つ。
剣が跳ねる。
次に膝裏。
崩れる。
最後に、黒金便車の扉をもう一度押し返す。
重い扉が、ケルムの胸へぶつかる。
護衛長は、そのまま便車と壁の間へ挟まれて止まった。
「そこまでです」
セレナが槍を喉元へ向ける。
「動くな」
短い。
重い。
十分だ。
蒸気が薄くなる。
白が引いたあとに残ったのは、
黒金便車。
通行印。
倒れた護衛。
そして、壁際へ転がった黒箱だった。
「兵站区主」
リンネが、その黒箱を指した。
「もう一つあります」
開ける。
中身は、王冠最優先印。
それから、王冠塔主線帳。
さらに、薄い黒金札まで入っていた。
主線切替権 一日
いい。
かなりいい。
今日欲しかった物が、ちゃんと箱になって落ちている。
「……うわ」
ノイルが、本気で呟いた。
「また、やばいやつです」
「そうですね」
「これ、全部使うんですか」
「そのつもりです」
「すごいな……」
若い親衛隊長のその感想は、かなり正しい。
ハルバードが、そこでようやく前へ出た。
第一兵站評議官は、黒金便車と通行印と主線帳を順に見た。
そのあとで、壁へ挟まれたケルムを見る。
「王冠護衛長」
低い声だった。
「通行印と便車を持って、どこへ行くつもりだった」
ケルムはまだ、意地だけで睨んでいた。
だが、もう遅い。
護衛長は短く吐き捨てる。
「主枢だ」
「印箱と便車を奥へ入れて、線を閉じるつもりだった」
「列なんか知るか」
一拍置く。
「王冠は、上から回る」
好きじゃない。
だが、最後までわかりやすい。
そこは嫌いじゃない。
「今は違います」
俺は王冠塔通行印を受け取った。
熱い。
さっきまで走っていた印の熱だ。
かなり気分がいい。
リンネは、もう便車の傷を確認していた。
黒便番の女は、扉と車輪と連結を順に見て、すぐに言う。
「これ、使えます」
「壊れてませんか」
「かなり」
「いや、ほとんど無傷」
「戻せば今夜の線に乗る」
好きだ。
そういう返しは好きだ。
黒金便車の中も確認する。
空じゃない。
返し箱が二つ。
温食箱が一つ。
それから、王冠塔宛の薄い封まで一通入っていた。
王冠塔夜番補給
最優先
いい。
十分にいい。
これを上へ持って帰れば、今日のうちにもう一度線が走る。
「兵站区主」
ノイルが、通行印を見たまま言う。
「これ、今日のうちに使いますよね」
「ええ」
「やっぱり」
若い親衛隊長は、妙にうれしそうだった。
悪くない。
上へ戻る。
昇降井の鎖が鳴る。
黒金便車ごとだ。
重い。
だが、良い重さだ。
通行印。
主線帳。
最優先印。
全部、物の形でこっちへ来た。
扉が開いた瞬間、王都兵站区の列が一斉にこっちを見た。
家族便札。
追給札。
離宮残湯札。
全部がまだ生きている。
その上へ、今度は黒金便車そのものが上がってきた。
「兵站区主!」
ミレイユが一番早かった。
「どうです」
「かなりです」
俺は黒金便車の側面を叩いた。
「王冠通行印」
「王冠最優先印」
「主線切替権」
「黒金便車」
「全部あります」
王都兵站区が、どっと沸いた。
「おおっ!」
「便車だ!」
「通ったのか!?」
「今夜も飛ぶのか!?」
強い。
やはり強い。
物はその場にあるだけで説明になる。
リンネが、もう黒箱を引いていた。
「兵站区主」
「何です」
「この便車、今夜の線に乗せます」
「ええ」
「王冠塔行きも、家族便も、両方いける」
黒便番の女は、ほんの少しだけ笑った。
「悪くありません」
「こういう奪い方」
ハルバードが、最後に短く言う。
「明日だ」
「何がです」
俺が聞くと、第一兵站評議官は長机の方を見た。
王家専用取消机。
追給机。
離宮残湯札の列。
そこへ、いま黒金便車まで加わった。
「これだけ揃ったなら、もう机で決める」
一拍置く。
「正式認可だ」
好きな言い方だ。
かなり好きだ。
ノイルが、通行印を抱えたまま小さく言う。
「兵站区主」
「何です」
「あと一個ですね」
「ええ」
「今度は机なんですね」
「そのようです」
「……すごいな」
若い親衛隊長のその声は、感動と少しの疲れが半分ずつだった。
ちょうどいい。
今の俺たちには、それがちょうどいい。
王冠専用札は外した。
離宮限定札も、上級優先札も死んだ。
そして今、王冠通行印と黒金便車と主線帳までこっちへ来た。
だったら次は、
この線そのものを、
正式な権利に変えればいい。
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